C.131 仲間の世界
数日をかけた高松家の片付けは無事に済み、ようやく里緒を迎え入れる態勢が整った。その旨を電話で伝えると、青柳家の母──千明は、電話口の向こうで『よかった』と声を綻ばせた。
──『里緒ちゃんもすっかり回復したみたいですし、そろそろ大祐さんの下にお戻ししても大丈夫かと思います』
「いつがいいですかね。甲子園の応援でばたばたしてる時期でしょうし、里緒にとって負担にならないタイミングが望ましいとは思うんですが……」
──『今日の第一試合を勝ち越したので、次は三日後の第二試合だそうですよ』
言われるままに手元のカレンダーをめくった大祐は、十九日か、とつぶやいた。あまり遅くなってもいけないし、十八日あたりに日取りを設定するのがよさそうだ。そう口にすると、『里緒ちゃんに伝えておきますね』と千明は承諾してくれた。
里緒とまともに対面するのは半月ぶりである。千明の助言通り、大祐は毎日きちんと夜に家へ帰ってくる習慣をつけ始めていた。心に負った傷が治癒していない里緒のことを、以前のごとく独りぼっちで家に放置するわけにはいかないのだ。それが、千明が大祐に課した里緒帰還の条件でもあった。
電話を切って、カーテンを開いた。家具や家電が適切に並べられ、整頓された居間の景色が、南向きに開いたガラスの戸に映っている。
大祐は静かに息をした。
──家に帰ってくるようになるからといって、すべてが解決するわけではない。
(この部屋みたく、俺の心のことも整理しておかないと)
彼方に霞む月を見上げて、誓った。
窓ガラスの向こうに立つ自分の影は、以前ほどの闇色には見えなくなっていた。
ラックタイムズの社内部活動『ラックタイムズ・フィルハーモニー交響楽団』は、本社の入居する六本木タイムズスクエアの一角にある会議室を練習場所として用いている。東北支社に赴任する前の大祐も、備品のホルンを抱えて足繁く通っていたものだった。振り向けばそれもいつしか、三年以上も前の遠い記憶になろうとしている。
十七日の退勤後、久しぶりに顔を出したいと声をかけると、現役部員の亮一は途端に顔を輝かせた。
「その言葉を待ってたぞ」
すぐさま腕を引っ張って、活動場所へ連行された。右手に大祐の腕、左手には自慢の巨大なチューバのケース。のしのしと廊下を歩いてエレベーターホールに向かう同僚の背中は、出会ったばかりの頃と何も変わっていない。安堵を覚えたらいいやら、不変を嘆けばいいやら、大祐の頭は不可思議にこんぐらがった。
「そんなに引っ張らないでくれ。上着が伸びる」
歩きながら訴えた。どことなく、息が上がった。
「急がなくたっていいだろ。どうせみんな、俺のことなんて覚えてやしないだろうし……」
「バカ抜かせ。覚えてるよ」
大祐の不安を一刀両断にした亮一は、呼びつけたエレベーターにチューバと大祐を押し込んだ。周囲の社員たちが窮屈そうに顔を歪めたが、構わずに乗り込んで戸を閉めてしまった。
強引で、豪胆で、遠慮がない。大祐の持ち合わせていない美徳を、亮一はみんな持ち合わせている。
思えば、今のような同僚付き合いが始まったのは、そんなところに心を惹かれたからでもあった。
「高松はもう少し自分の値打ちを見直した方がいいと思うぞ。俺なんかはな」
大祐の不安をすべて見透かした目で、亮一は不敵に笑った。同じことをする勇気が大祐にも欲しかった。
三年半ぶりの会議室は人でいっぱいだった。三ヶ月後の十一月半ばに定期演奏会を控えていると聞かされつつ、その盛況っぷりに舌を巻いていると、聞き慣れた声が耳を打った。
「──高松くんじゃないか!」
駆け寄ってきたのはホルンパートリーダーの男だった。水戸辰彦、四十五歳。所属はコーポレートカルチャー部。社齢の浅いラックタイムズのなかでは比較的高齢な、中途採用組の男性社員である。
「東京本社に戻ってきたとは聞いてたが……。向こうでは色々と大変だったみたいじゃないか。再入部希望かね」
「いや、まだ……そう決めたわけでは」
握手を求められた大祐は、白髪の目立つ頭から不覚にも視線を反らしてしまった。
亮一の発した言葉の意味が今になって理解できた。なんのことはない、大祐は今や社内の有名人なのだ。新聞やネットを派手に賑わした、仙台のいじめ事件の当事者として──。さぞかし古巣の仲間たちも大祐のことを思い出すはずである。
「三年半くらい楽器にも触れてなかったらしいので、しばらくは見学がいいとは思うんですよ」
横から亮一が補足してくれた。「そうか」と深くうなずき返した水戸は、ホルンパートの方へ視線を放った。大祐も真似をして、代わり映えのしない仲間たちの顔を見つめた。向こうも気づいたようで、準備をするのもそこそこに彼らは目を丸め、盛んに言葉を交わし始めた。
「気にしないでくれ。喜んでるんだ」
隣で水戸が微笑んだ。
「高松くんの迫力あるサウンドが抜けた穴は大きかったからね」
「……そうなんですかね」
「他の連中にも高松くんの見学の件は伝えておこう。どこを見ていたい?」
「いや、ホルンで構いません。それしか俺には吹けませんから」
「そうか」
水戸は応じた。寂しげな言葉選びの割に、響く声色はいくらか浮き立って聞こえた。
チューバパートに向かう亮一と別れ、水戸の後ろについてホルンパートのもとへ向かった。よそのパートの群衆の脇を通り抜けるたび、彼らが口々に大祐のことを噂しあっているように思えて、大祐の居心地は加速度的に悪化した。よくないな、自意識過剰ってのは──。膨らんだ自己嫌悪を針でつついて割っていると、ちょうど古巣の仲間たちの前にたどり着いた。
「覚えてるかい、高松くんだ」
居並ぶ部員たちに水戸が紹介してくれる。頭を下げて、あくまで見学のつもりで来たことを伝えたが、彼らは興味津々の顔つきで大祐に向かって姿勢を改めた。
「いつ戻ってきてくれるのかと思ってましたよ!」
「四月の異動で東北支社から戻ってきたって聞いて期待してたのに、いつまでたっても姿を見せないんだから」
「……すみません。色々、あって」
大祐はうつむくばかりだった。色々という便利な語の中に含んだ真意を、聡明な彼らはきっと見抜いてくれるだろうと思った。
例の事件への対応に追われて、時間や心のゆとりがなかったというのもある。しかしそれ以前に、ホルンは大祐の大学時代の象徴であり、瑠璃と出会うきっかけを作った楽器でもある。その瑠璃を失った大祐にとって、ホルンと向き合うことは相応の覚悟と心の整理を必要とする挑戦なのだ。正直、亮一が見学を進言してくれた時はどれほど安堵したか知れない。
こんな話をしたところで理解されないのは分かりきっている。呆れられる覚悟は、決めていた。
なのに、ホルン仲間たちは呆れるどころか、顔を見合わせて笑い出した。
「ってことは、その色々の片付く目処はもう自力でつけてきちゃったんですね」
「高松さんらしい!」
「よくないなぁ高松さんは」
「そうそう。何かあってもひとりでぜんぶ抱え込んじゃう質だから」
呆気に取られて立ち尽くしたのは大祐の方だった。「だから喜んでるんだと言ったろう」と、水戸が耳元で囁いた。
「高松くんは何でも自力で解決しようとしすぎるきらいがあったからな。ホルンパートでさえそうなら、仕事だって家庭だってそうなのかと疑うのが自然じゃないか」
「それは……そうですが」
「もっと肩の力を抜いていてくれていいんだよ。ここは、職場とも家庭とも違うんだ」
そうですよ、と口々にパート仲間たちが続いた。
彼らはつまりこう言いたいのだ。ここは職場でも家庭でもない、第三の居場所。ここでは大祐は仕事の責任に追われることも、家庭を守る責任に奮い立たせられることもない。パートの責任はパート全員で担えばいい、と。
そうと分かった上で、それでもなお不安を拭いきれなかった大祐は、小さな声でこう返した。
「……そうですね」
ホルンパートだろうが経理部の仕事仲間だろうが、このラックタイムす本社の敷地を出てしまえば単なる知り合いだ。どこまで信じられるのか、信じても許されるのか、他者に頼った経験の少ない大祐には判別がつかない。
物事は一足飛びにはなし得ない。まずは、この場所に通うことから始めよう──。小さな声の後ろには、そんな小さな決意が隠れていた。小さくとも大きな意義のある決意のつもりだった。
「高松さん、ここ座る?」
金色のホルンを取り上げた年上の女性が、空いた椅子を大祐に薦めてきた。「ありがとうございます」と笑顔を取り繕って、腰かけた。
自席に戻った水戸が、楽譜を示しながら今日の練習の流れを指示し始める。懐かしい記憶が穏やかに表面張力を失い、崩れて四肢に染み渡るのを、大祐は揃えた足首の先に感じ取った。
ラックタイムズ交響楽団の練習は午後九時にまで及ぶ。里緒と二人で生活するようになれば、遅い帰宅は避けねばならなくなるだろう。今後どれほど大祐が練習に参加できるのか、今の段階では未知数としか言えない。
のべ三時間あまり続いた練習の時間、大祐はただ黙々と、耳を傾けることに徹した。
誰かの発した音を聴き、誰かの発した声を聴く。『耳に入れる』ことと『聴く』ことは別物で、後者にはそれなりの工夫や苦労が伴う。けれども、誰かと同じ場所で生きていく上で、『聴く』という所作は決して欠かすことのできないものだとも思う。そして大祐には、瑠璃を失ってからの一年以上、それを徹底して怠ってきた自覚があった。夜になるとホテルへ逃げ込み、煙草に溺れ、心の支えを失った里緒をひとりぼっちの家に放置してしまった。
(いつか里緒にきちんと向き合うためにも、『聴く』訓練からは絶対に逃れられない)
そんな問題意識が先行していた自覚はある。
休憩時間、さりげない体を装って、席を譲ってくれた隣の女性にも話しかけてみた。
「成田さん、お子さんがいらっしゃいましたよね」
「いますよ。中三の娘と、中一の息子」
彼女──成田幸代は、目尻にしわを描いて微笑んだ。大祐よりも年上の社員だが、子どもの年齢は大祐の方が上である。
「その」と大祐は小声で切り出した。
「子どもの声はどうやって聴いていますか」
「声を?」
「不満とか、不安とか。子どもだって抱え込んでるものが色々とあるわけじゃないですか。どうやって耳を傾けたらいいのかと思って」
「んー、そうですね」
成田は口元へ手をやった。
「私だって完璧にできているわけじゃないけど……。心がけの問題だと思いますよ」
「心がけ、ですか」
「子どもと楽器って似てると思いません?」
尋ね返しながら、成田は幼子をあやすような手つきでホルンを揺さぶってみせた。巨大、あるいは長大な楽器の多い金管楽器群の中にあって、長い主管をぐるぐる巻きにして収めたコンパクトな構造のホルンは比較的小ぶりで、カタツムリのように愛らしい見た目をしている。
「『打てば響く』なんて言い回しがあるでしょう。管楽器も、弦楽器も、打楽器や鍵盤楽器も、奏でる動作をした分だけ音が鳴る。子どもも同じだと思うんです。たとえ精神が育ちきっていなくても、あの子たちは立派な一つの人格を持っているんですから。対等な目線に立って、率先して胸襟を開いてあげれば、開いた分だけ子どもたちも私たちに声を聴かせてくれる。私はそう意識してますよ」
「……自分から、というのが大切なんですかね」
「楽器は勝手に鳴ってくれないですもの」
大祐は無言で唸った。もっともだが、そこではやはり、大祐の何よりも苦手とするものが要求される。水戸に指摘された通りである。
今は見学の身なんですから、といって成田は笑った。
「ゆっくりでいいじゃないですか。焦らないで、諦めないで、向き合ってあげてくださいね。きっと娘さんもそれを望んでいると思いますよ」
優しい笑みだった。他人に頼るという行為の持つ、ちょっぴり怖くなるほどの甘い感覚を、その笑顔の中に大祐は初めて見出した気がした。
「たまには父親らしいこともさせてくれ。……今まで、何もしてやれなかったんだ」
▶▶▶次回 『C.132 帰る場所』