C.130 第一試合
球場の上空は清々しく晴れ渡っていた。
遮るもののない熱波がさんさんと降り注ぐ、七月十六日、火曜日。午前十時を回った土色のグラウンドの上を、真っ白のユニフォームに身を包んだ野球部員たちが往来し始めた。攻守交代である。
──『一回裏、弦巻国分寺の攻撃は、一番。セカンド、多治見くん。セカンド、多治見くん。背番号七』
うだる熱気のなかで、響き渡る場内アナウンスの声は凛と澄んでいた。うっすらとかかる砂煙の彼方をバッターボックスに向かう二年生の選手の背中が勇ましく、大きくて、タオルを握りしめた里緒の視線を釘付けにした。手にした金属バットが夏の陽光にきらめきを跳ね返した刹那、客席最前列に控える野球部のマネージャーが曲名ボードを腕いっぱいに掲げた。
記載された曲名は【ロマンスの神様】だ。
「やるよ」
小さく叫んだ部長の向こうで、京士郎が指揮棒を振り上げ、ぴたりと静止させた。
攻撃が始まる。
弦国管弦楽部の部員たちは一斉に楽器を構えた。
目元には同じデザインのドミノマスクが並んでいる。一、二、三、四──。京士郎の振り抜いた指揮棒の先で、大音響の演奏が火の手を吹いた。
乱れ飛ぶトランペットやトロンボーンの高らかな音色、腹に響く重低音。打楽器パート二人の打ち鳴らすペットボトルの拍子に合わせて野球部の部員たちが歌い始め、無数に並ぶ弦国カラーのツインメガホンが軽快なリズムを刻んでスタンドを飲み込む。直後、構えたバットを振り切った選手の手元から白亜の球が弾け飛んで左中間に消え、たちまち演奏をも上回る大歓声が巻き起こった。
スタンド頂部に立つ里緒は、客席最後段の後ろに据え付けられた手すりにしがみついて、音の暴れ回る球場の全容を見つめていた。
こんなに賑やかになるんだ──。
武者震いにも似た感慨が身体の芯を突き抜けて、気づけば息がひどく浅くなっていた。汗の染みた半袖の制服をつまんで持ち上げると、日焼け跡のない病的な色をした二の腕を、頭上の太陽が煌々と照らし出して笑った。
全国高校野球選手権西東京大会、第一試合。本来の試合日程に六日の遅れをとって、西東京の名門・弦巻学園国分寺高校野球部は進撃の狼煙を打ち上げた。目指すは甲子園、全国大会進出である。
初戦の対戦相手は府中市の都立高校だ。府中南、とか言ったか。弦国野球部が全身真っ白のユニフォームをまとっているのに対して、府中南のユニフォームにはところどころに黒の意匠が入っていた。そうでなかったら里緒には攻守の見分けのつく自信がなかった。テレビ中継の野球を観たことがないわけではないけれど、まともに野球のルールを学んだためしは一度もなかったのだ。おまけに特に関心を持ったこともない。
カァン、と甲高い金属音が空気を切り裂き、トランペットの紡ぐファンファーレの波間に巻き込まれて消える。高く飛翔した球はグラウンドの真ん中に向かって落下してゆき、二塁を守っていた選手のグローブにすっぽりと収まった。
「一回裏だけで七点か」
里緒の横で手すりにもたれかかった洸が、交代する選手たちの姿を眺めながら苦笑した。
「こりゃコールドゲームになるかもしれないな。ほんとに容赦ないよ、弦国のバッター勢は」
「あの、コールドゲームって何ですか」
「点差がつきすぎて試合にならないと途中で試合終了になるんだ。要件になる点差は規定によって違う。確か高校野球だと、五回の終了した時点で十点差、だったかな」
スコアボードを見ると、すでに都立府中南と弦国との間には七点もの差が開いている。さすがは西東京の雄、その実力は伊達ではないということか。
さ、と洸が紙コップを手渡してきた。ひんやりと冷たいスポーツドリンクの香りが立った。
「こう暑いとペットボトルの水なんか茹だっちゃうだろうし。これ、飲みたいって人のところに持っていってあげて」
一足先にスタンドの中頃まで下りていった恵が、すでに「冷たいやつ飲みたい人ー!」と部員たちに挙手をさせている。紙コップを手にした直央は一足先に給水作業を始めていた。見よう見まねでその背中を追いながら、里緒も中身の注がれた紙コップを受け取って、部員たちと洸の間を何度も往復した。日差しで熱を持たないように楽器へタオルをかけながら、彼らは口々に感謝の言葉を述べ、里緒の手から紙コップを引ったくるように取っていった。
合宿の最終日、なんとかふたたびクラリネットを吹けるようになった里緒だったが、第一試合の今日は様子見を兼ねて、奏者サポートの担当に回っているのだった。
むろん、同じパートの美琴や花音は日射に耐えながらクラリネットを吹いている。早くあっちにいかなきゃな──。隣り合って汗を拭き、笑いあう花音たちの姿を見つめるたびに、逸る気持ちが水滴になって額や背中に色濃くにじんだ。
府中南はあっという間に一アウトを取られた。なまじ自分のチームが強いと、攻撃の再開まで猶予がない。
「おーい高松ちゃん!」
人混みの中から菊乃が叫んだ。
「戸田にもスポドリ持っていってあげて! ちっちゃく手挙げてるから」
「はい!」
里緒は慌てて新たな紙コップを取りに戻った。流れ作業の要領で、大型のウォータージャグから中身を注いだ洸が紙コップを手渡してくれた。
弦楽セクション二年生の戸田宗輔は、本来ならばチェロが専門の弦楽器奏者だが、野球部の応援の間だけは臨時でトロンボーンを引き受けている。合宿期間を経て一定の練習を積んできたはずではあるものの、やっぱりどこか身体が慣れないでいるらしい。スライドのロックをかけたり外したりしながら変な顔をしている彼のもとへ、里緒は急いで下りていった。
「すみません、これ! 遅くなりましたっ」
ああ、と宗輔は紙コップへ手を伸ばした。
「悪いな」
「その、マスクつけてると視界の端っこがよく見えなくて、先輩が手挙げてるの見逃しちゃったみたいでっ」
目元のドミノマスクをいじりながら、いつもの癖で里緒は言い訳を並べ立ててしまった。宗輔は打楽器の二人に次いで身体も大きいし、美琴と同等に無口で愛想もよくない。こういう人の前に立つと、ついつい不機嫌なのではないかと勘繰りたくなる。
しかし気を悪くした様子もなく、宗輔は唸った。
「視界悪いもんな、これ」
トロンボーンを傍らに置いた彼は、マスクを指先で持ち上げ、紙コップの中身を一気に口へ含んだ。
マスクの小さな穴越しに覗く二つの目が、スタンドの最下段に待機する複数台のテレビカメラを見やる。グラウンドいっぱいに展開する弦国野球部の先発メンバーを、居並ぶカメラは大映しにしていた。
「ま、仕方ないだろ。あんだけカメラが来てるんだから」
彼らを見つめ、宗輔は淡々とつぶやいた。
気遣わせてしまったらしい。いたたまれない思いが弾けて、里緒はうつむきがちに小さく「はい」と返した。
イタリアの仮面舞踏会で用いられる、やや派手目の装飾が施されたアイマスクのことを、“ドミノマスク”と呼ぶ。里緒も、宗輔も、それから指揮者の京士郎も含めて、スタンドに立つ弦国の管弦楽部は全員がドミノマスクを着用している。ピンク、ブルー、グリーン、オレンジの四色あって、里緒が選んだのはブルーのマスクだった。『もっと可愛い色にしなよー』と残念がりながら、花音は美琴とお揃いのグリーンを選んで着用している。
普通、野球の応援演奏でそんなものを使うことはない。明らかに似つかわしくないものを顔に貼り付けた二十七名の管弦楽部員たちは、弦国側の応援スタンドの中でも露骨に異彩を放っていた。今、この瞬間も、彼我双方のスタンドに座る観客たちはしきりに管弦楽部の方を窺いながら、目の当たりにした奇行を値踏みするかのようにひそひそと話を交わしている。おかげで里緒にはたまらなく気まずいし、恥ずかしい。
「その、本当、すみません……。私のせいで皆さんに不便な思いをさせてしまって……」
勇気を出して謝ってみたが、「いいよ」と短く応答したきり、宗輔は前を向いてしまった。ロケット砲よろしく構えられたトロンボーンが金色の輝きを放ち、閃光に目をやられた里緒はまぶたを閉じた。
「この暑い日に目出し帽なんか使うわけにもいかないだろ」
対岸から弦国側のスタンドを狙うテレビカメラに照準を合わせるように、宗輔は目を細めた。
「心配すんな。全員、楽譜は覚えてきてるんだし、不便してない」
「……そうだといいんですけど。でも、」
「こいつらは高松の気持ちも分かってるよ」
宗輔はきっぱりと言い切った。里緒の懸念をすべて一刀のもとに切り捨てるかのような潔い言葉に、里緒は思わず、首をすくめた。
そう──。
このドミノマスクは目立つためのものではなく、里緒を守るためのものなのだ。
ただでさえ弦国野球部の注目度は高い。特に、今年はエース・宇都宮のプロ入団の是非が話題になったこともあって、甲子園の西東京予選ともなればテレビカメラが球場へやって来るのは確実だった。いじめ事件騒動の真っただ中にいる里緒がテレビカメラに映されれば、どんな事態に波及するかも分からない。そこで、『目元を分からなくすればいい』という洸の発案で、急きょ昨日になってドミノマスクの全員着用が決まったのである。
「滝川たちなんか『これであたしたちも応援部並みに目立てる!』とかいって喜んでたくらいだ。嫌がってるやつの声なんて聞いたことない」
スマホのカメラを自撮りモードに切り替えて盛り上がっているフルートパートの方を横目に流しながら、宗輔はため息交じりの低音でつぶやいた。失笑とも苦笑とも微笑ともつかない何かが、わずかにくぼんだ口の端のあたりを仄かに彩っている。
里緒の食い下がりに先んじるように、だから、と彼は続けた。
「そんなにおどおどすんな。その方がカッコ悪くなる」
美琴もそうだが、こういう無愛想な態度の人に限って、言葉の含む嘘が少ない。突き放したような言葉選びの中に、字面には表れることのない宗輔の確かな思いやりを感じて、里緒はうつむきがちな顔を思いきって引き上げた。「はい」と答えたのと同時に、眼下のバッターボックスに立つ府中南の選手が、豪快なフルスイングで空振りを喫した。
「休憩終わり! やろう!」
はじめの声が部員たちを叩く。中身のなくなった紙コップを宗輔から受け取り、里緒は駆け足でスタンドの上段に戻った。
『三番。ファースト、宇都宮くん』──。楽器にかぶせていたタオルを払い落とした部員たちの頭の向こうで攻守の交代が完了し、アナウンスに名前を呼ばれた選手がバッターボックスへ向かってゆく。ふたたび耳元で炸裂した吹奏楽の応援演奏と掛け声、そして歓声が、里緒の意識を嫌でもグラウンドに惹き付け、結び付けた。
七月十六日、第一試合。
会場は多摩市一本杉公園野球場。
弦国は都立府中南高校を十五対〇の五回コールド勝ちで下し、無事に第二試合への進出を決めた。
「高松はもう少し自分の値打ちを見直した方がいいと思うぞ。俺なんかはな」
▶▶▶次回 『C.131 仲間の世界』