Recitativo ──〈初音〉
「揃ったね。それじゃ、ミーティング始めます」
「はい」
「応援部の人たちは午後から来るらしいから、午前中いっぱいは話し合いに使えると思っておいて」
「そんな長引かないといいですけど……」
「それは、滝川たち二年次第でもあるからね」
「……分かってますよ」
「さ、議題に入ろう。さっき配った紙──って言っても一行しか書いてなかったと思うけど、あれに目を通してほしい」
「これ紙に書いて配る必要あったんですか、洸せんぱい」
「紙に残しておくってのは大事なことだろ。ちょうどいいや春日さん、議題を読み上げてもらえる?」
「はーい……。えと、【コンクール参加の是非およびメンバーの選定方法についての話し合い】」
「…………」
「高松さん以外の人は分かってると思うけども、今度の二年生中心のコンクール参加については、きちんと一から話し合いをやり直した方がいいんじゃないかってことになった。独奏担当の高松さんがダウンしてしまったタイミングでもあったし、ここで一度、最初に立ち返ろう。コンクールには参加するのか、否か。どんな意義や目的を持って挑むのか」
「あと、忘れちゃならないのが一年生の参加意思確認ね。参加するってことになったとしても、前みたいに強引に一年を連れ込むってのはもうなし。二年が一年を引き抜きたいっていうなら、一年が自力で首を振るまで説得しなきゃダメ。人を動かすんだから、そのくらいは当然の責務だよ」
「…………」
「……あ、あのっ」
「どうしたの高松」
「これってその……。もしかしなくても、私がクラリネット吹けなくなったから、頭から話し合い直すことになっちゃったんですか」
「早い話がそういうこと──」
「──待ってください、高松ちゃんにはあたしからきちんと話します」
「分かった」
「あのね。コンクールの話が振り出しに戻ったのは、高松ちゃんがいないと練習にならなかったからなんだ……。高松ちゃんに限ったことじゃないけどさ、人間、誰だって急なトラブルからは逃れられない。あたしだって唐突に入院しちゃうかもしれない。だから、高松ちゃんがいなきゃ練習が成り立たないなんてこと、本来ならあっちゃいけないし、あるはずがない。いなくなっただけで練習が崩壊するほど、今回、高松ちゃんの肩には重たい責任がのしかかってたことになる。コンクールにはみんなで挑むことになってるはずなのに、一人だけ、それも一年生の子に責任が集中するのはおかしいんだ。そのおかしさにあたしたちが気付くのが遅すぎたから、こうして待ったがかけられちゃった」
「…………」
「それでさ。……今まで、ごめんね」
「えっ」
「あたしたちずっと、高松ちゃんの個人技に頼りっぱなしだったね。〈クラリネット協奏曲〉は独奏のクラが伴奏を引っ張る曲でさ、あたしたちがいくら頑張っても高松ちゃんが上手くいかなきゃ、演奏としては未完成になっちゃう。独奏の責任、高松ちゃん一人に背負わせるのには重すぎたよね。それなのにあたしたち、高松ちゃんのこと脅すみたいに引き入れて、手前勝手な理屈で独奏に宛がって……」
「そっそんな、手前勝手なんてっ」
「勝手だったんだよ。……あたしたち、高松ちゃんの腕前だけを頼りにして、コンクール勝ち上がろうとしてたんだから」
「…………」
「いつかはちゃんと謝らなきゃいけないと思ってた。無茶させちゃって、ごめん。大変な役柄に据えちゃって、そのうえ満足にサポートもしてあげられなくて、ごめん。高松ちゃんの気持ち、蔑ろにし続けちゃって、ごめん……」
「……やめてください」
「えっ、あっ……ごめん、気を悪くするつもりはなくてっ」
「そっちじゃないです。その、謝るの、やめてほしいんです」
「高松。言いたいことがあったらちゃんと言えばいいんだよ。やりたくなかったら『抜けたいです』って言ってくれればいい。むしろ、言ってほしい」
「そうだよ。無理に手を出す必要なんてない。二年も一年もみんな分かってくれる。だよね」
「……はい」
「あ、あの」
「何?」
「私がここで『抜けます』って答えてしまったら、その、コンクールへの挑戦も取り消しになっちゃうんですか」
「そういうわけじゃないよ。まだエントリー前だし、独奏の代役を立てられる見込みがあるなら、曲もそのままコンクールに挑むことはできるでしょう。挑む曲そのものを変更したって間に合う。ただ、高松は今回の騒動で誰よりも大変な目に遭ってきた。コンクールの是非云々の前に、今の高松の気持ちを聞いておきたいの」
「そ、そうですか……」
「高松はコンクール練のこと、どう思ってた?」
「……ほんとのこと、言ってもいいんですか」
「当たり前でしょ。私が責任持つから遠慮しないでいい」
「あの、私、…………怖かったです。たくさん褒めてもらってきましたけど、私のクラリネットはまだまだ下手くそすぎて、求められているレベルの演奏ができているのかどうかもよく分からなくて……。立川音楽まつりで失敗して皆さんに迷惑かけた時から、怖くて、怖くて……たまりませんでした」
「まだそんなこと言ってる! あんなのぜったい失敗なんかじゃないもん!」
「青柳、落ち着いて」
「わたしもそう思います」
「白石まで──」
「ちょっと静かにしててもらえませんか」
「……すごい口きくようになったね、白石さん」
「すみません。昔から口が悪いんです。……わたしもさ、あの日の演奏、高松さんの言うほど悪いものじゃなかったって思ってる。実はずっと前から思ってた」
「えっ、で、でも白石さん、私が何度も同じ場所を間違えてたの覚えてて……っ」
「イラッとしてつい言っちゃっただけなんだよ。同じミスを花音がやっても、美琴先輩がやっても、たぶん、わたしは何も言わなかった。……あの頃はさ、高松さんのことがあんまりにもよく分かんなくて、わたしちょっとイライラしちゃってた。言っていいことと悪いことの区別、ついてなかった」
「…………」
「口の悪いのを言い訳にするつもりはないんだ。……お願い、あの時のこと、謝らせてよ」
「待って、それ私も……。その、ついでみたいな感じでアレだけど、私もあのとき感じ悪いこと吐いちゃったの、実は後悔してて」
「……白石さん、浪江さん」
「ごめん」
「ごめんねっ」
「…………」
「ミスはあったかもしれないけど、それまでの高松さんの演奏、文句つけられないくらい完璧だったと思う。わたしらの言葉で自信を失っちゃってたなら、その、もっかい持ち直してほしいんだ。クラ吹けなくなっちゃう前に、ほんとだったら言うべきだったんだけど……」
「……うん」
「二人とも言いたいことは吐き出せた? そろそろ話、元に戻させてほしい」
「大丈夫です。その、失礼なこと言ってすみませんでした」
「そうね。正直でよろしい」
「……あの、途中になっちゃったんですけど、思ってたことはもうひとつあるんです」
「まだあるの?」
「その、えっと、私の立場で言うと偉そうに聞こえちゃうと思うんですけど……。私、独奏っていう役割を与えてもらったこと、もしかしたら心の底では嬉しかったのかもしれないって思っていて。誰かに何かを期待されることなんて、今まで一度もなかったから。役割が与えられることなんて一度もなかったから。……だから、思うようにクラの腕が上がらなくなってから、このままじゃ見捨てられちゃうって思って、ずっと怯えてました。必死にクラにかじりつけばかじりつくほど、求められている自分から遠ざかっていくような気がして、それも怖くてたまらなかったんです」
「それは、さっき言ってた“怖い”とは別物?」
「きっと……別物だと思います」
「……そっか。ただ単に周囲が怖いとか、嫌だって思ってたってわけじゃないんだね」
「私、勉強も運動もからっきしダメで、できることって言ったら本当にクラリネットくらいしかなかったんです。私からクラリネット取ったら何もなくなっちゃう……。だから、クラリネットだけは失敗したくなかったし、誰にも失望されたくなかった。……管弦楽部に身を置かせてもらえてること、ほんとはすごくすごく感謝、してたんです」
「…………」
「あの、」
「何?」
「私が『またクラリネット吹けるようになった』って言ったら、コンクール、また目指せるようになりますか」
「……ちょっと待って。今、なんて?」
「私、昨日の夜、またクラリネット吹けるようになりました。今はきちんと音を出せます」
「うそ!?」
「マジで言ってるの!?」
「冗談だろ!?」
「そんなの聞いてない!」
「てか、いつの間に吹こうとしてたわけ!?」
「その、みんなが寝静まってる間に……」
「ひどいよ里緒ちゃん、起こしてくれたってよかったじゃんっ! 私ちっとも知らなかったぁ……!」
「花音は泣くの早いなー」
「だって、だってぇ……」
「おい、それってもしかしてアレじゃねえのか? 俺らが徹夜麻雀してた時、真っ暗なグラウンドの真ん中あたりから聴こえてきてた……」
「えっ、でも徳利さん否定してたじゃないっすか! 『ありゃ高松の音色じゃないだろ』って言ってっ」
「音色、変わったの?」
「た、たぶん……。その、前より明るい感じの音色になったような気がするんですけど」
「マジかよ!」
「じゃ、あれはやっぱり高松ちゃんの……!」
「ねー聴かせて聴かせて! クラのケースどこ!?」
「分かったからほら、静かに! そんなのあとでいくらでも話せるし聴けるでしょ! ……本当なんだね、高松」
「本当です」
「そっか。……よかった。うん、よかった……」
「あのあの、だけどもしかしたらただの偶然かもしれないし、元通りに吹けるようになったって言えるのかは私にもよく分からないんですけど……。その、もう少しだけ私の話、聞いてもらえませんか」
「聞いてるよ。大丈夫」
「私、先輩方がコンクールに挑戦されるなら、その……参加したいです。私の音を待っててくれる人が、必要だと思ってくれる人がいるのなら、下手くそでも精一杯クラリネット吹きたいです。先輩たちや一年のみんなと一緒に、舞台の上でスポットライトを浴びてみたいんです。こんな気持ちでいたら、あの、えっと……ダメなんでしょうか」
「高松ちゃんっ……!」
「滝川、静かにして。まだコンクールに挑んでいいって結論になったわけじゃない」
「……はい」
「高松の気持ちは分かった。コンクール参加組の一年は他にもいたよね。藤枝、出水、この際だから二人の気持ちも聞かせてもらってもいいかな」
「わたしは参加したいです」
「もえちゃん答えるの早いよっ! ……あの、私も出てみたいです、コンクール。独りぼっちでファゴット吹くようなことにならなければ、どんな機会にもチャレンジしてみたいって思ってて。八代先輩ともえちゃんと高松さんがいてくれるなら、何も心配せずに舞台に立てる気がします」
「……そう」
「驚いたな。一年全員、賛成か」
「不必要な気遣いはしてないね?」
「はい」
「二年。こないだの緊急ミーティングで滝川が話してくれたコンクール参加の動機、みんなは同感なの? あれがみんなの総意だと思っていいの?」
「う、嘘なんかついてないです!」
「思っていいです。思ってください」
「この子たちと一緒に、最後まで投げ出さずに努力するって約束できる?」
「できます」
「正当性のないやり方を使って仲間を集めたりパートを決めたりしないって、誓える?」
「誓えます」
「困った時は私たちや先生に相談して、自分たちだけで問題を抱え込もうとしたりしないって、宣言できる?」
「できます!」
「どう思われますか、先生」
「すまん、話を聞いてるばっかりだったな……。当事者がきちんと納得できているのなら、僕から異論を挟むことはしないよ。可能な限りサポートはしていくつもりだ」
「……それじゃ、認めるしかないか」
「同感かな……」
「やったぁ────!」
「ありがとう高松ちゃん大好き! ありがとうっ、ほんと今までごめんねっ……! これからもよろしくねっ!」
「ど……どういたしましてっ」
「やばいよ、あたしちょっと泣きそう……」
「俺らからも言わせてくれよな! 高松、ありがとう。頑張って戻ってきてくれて、ありがとな」
「うちら絶対、里緒ちゃんのこと投げ出したりしないよ!」
「信じてもらえないなら、信じてもらえるようになるまで頑張るから!」
「あーっ池田せんぱい春日せんぱい、ずるいです! 里緒ちゃんに抱きつくのは私の特権ですー!」
「そんな特権聞いたことないもんねー」
「ほら、抱き枕じゃないんだからそんなにもみくちゃにしないの! ……どうしたの茨木、黙りこくって」
「何でもないです」
「あれ、目、赤くない?」
「泣いてたのか?」
「うそ! あの無愛想だった美琴っちが!?」
「鬼の目にも涙ってやつじゃね」
「……八代、とっとと頭下げて」
「わーったよ、そんな怖ぇ顔すんなよ……。って痛った! 頭踏みやがったな!?」
「せっかく高松が元のようにクラリネット吹けるようになったこと、す……素直に喜んでたところだったのに」
「そうだそれで思い出した! 高松ちゃん、クラ! クラ吹いてみてよっ」
「ええっ、今ですか……!?」
「高松ちゃんの“新しい音”、聴きたくてたまんないもの! ねっいいでしょ、五秒! 五秒だけでいいから!」
「ちょっと誰かー! 高松さんのクラリネット持ってきて!」
「もう持ってきましたっ!」
「負けた……。ほんと早いな花音……」
「里緒ちゃん絡みの勝負だったら負けるわけないもん。だって花音様だから!」
「ま、待って、私まだ体操もウォーミングアップもっ……!」
絶望の淵から立ち上がり、『自分の音』を手に入れた里緒。最大の危機を乗り越えて弾みをつけた管弦楽部は、いよいよ夏に向けて本格的に活動を再開する。
行く手に見えるのは、連日にわたる屋外での野球部応援演奏。
そして、経験のない大きなコンクールの舞台。
多忙な日々を送りながら、里緒は少しずつ過去に向き合い、つらい記憶を一つ一つ克服してゆく。その姿は花音や紅良に、大祐に、紬に、京士郎に、そして美琴に、真綿に水が染みるように好影響を与えてゆく。
それぞれが自分の抱えるトラウマを見つめ、笑い、泣きながら、懸命に未来を切り開く日々。
やがてその先には、作中最大の謎だった瑠璃の自殺の真相が見え始め……。
幾多の試練を乗り越えて舞台に立った里緒は、無事、独奏パートの演奏を全うできるのか?
数千人の聴衆を前に、『里緒の音』を響かせられるのか──?
──【第五楽章 奏でよ、悠久のレクイエム】に続きます。