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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第一楽章 春への憧れ、明日への焦がれ
14/231

C.013 披露

 





 クラリネットは、楽譜上の音と実際に聴こえてくる音が異なるという特徴を持つ『移調楽器』である。

 そもそも『クラリネット』と呼ばれる楽器の種類は複数あって、高頻度で用いられるものだけを挙げてみても、(アー)管、B♭(ベー)管、E♭(エス)管、(デー)管、E♭(エス)管アルト、B♭(ベー)管バス……などとラインナップは多岐にわたる。むろん管の構造に違いはないが、管の長さが違う。したがって発することのできる音も違う。このように管の長さだけを変えた楽器が存在していることが多いのが、クラリネットに限らず管楽器全般に見られる特性だった。

 カラオケで曲調(キー)を調節して歌いやすくすることがあるように、楽曲には各々(おのおの)に固有の曲調(キー)が存在している。もちろん、実際の演奏ではカラオケのように気軽にキーを調節することはできないので、元の曲のキーに則した楽器を用いることが必要になる。従って、さまざまなパートや曲調に対応できるよう、管楽器の種類は続々と増やされていったのだ。これらは管の長さが違うため、同じ押さえ方をしても違う音が出てしまうので、一般には楽譜上の『()』の音をピアノにおける同じ音と比較し、実際に聴こえていた音を楽器の名前につけて区別している。

 里緒の持つA管クラリネットは、『()』の音を出すと、ピアノの弾く『()』と同じ音が聴こえる楽器なのである。

 普通、吹奏楽ではB♭管のソプラノクラリネット──『B♭()』の聴こえてくる楽器が使われていて、中学生や高校生がA管クラリネットを使う機会は少ない。構造はどちらも同じなので特に苦労はないのだけれど、持ち変えるといきなり別の音が出てくるから混乱してしまう。小学生の頃はA管にしか触れていなかった里緒も例外ではなく、中学に上がっていきなりB♭管に遭遇して困惑させられたものだった。

 B♭管はフラット系、A管はシャープ系の曲調(キー)の演奏に適しているといわれる。吹奏楽でB♭管が使われるのはフラット系の曲が吹奏楽に多いからだが、管弦楽における使い分けはもう少し柔軟で、曲の印象によって用いられる管が選ばれたりする。たとえばシャープ系の曲はフラット系に比べ、より華やかで輝かしい雰囲気に感じられやすい。──一般論としてはそう言われる。

 少なくとも里緒自身がそれを実感したことはなかった。

 紙縒(こよ)りのようにか細く、儚く、寂しい音色を奏でる瑠璃のA管の演奏を、ずっと(かたわ)らで聴いていたからだろうか。




 目の前を、川が流れている。

 さらさらと快い音を立てながら流れゆく川は、眺めているだけで透明な冷涼感に心を洗われ、穏やかな感慨に包まれる。私も入りたい、と思う。そっと足先を突っ込むと、たちまち当たった水流が足の裏をくすぐって(おど)ける。

 数匹のめだかが足元をすいすいと泳ぎ抜けていった。何匹いるのだろう。互いに近すぎず、でも離れすぎることもなく、まるで笑いあったりじゃれたりするような距離感を保ちながら、めだかたちは目の前を通過していく。


 ねぇ。

 私も交ぜてよ。

 私だって、泳ぎたい。私だってみんなと一緒に泳ぎたいよ。


 いくら訴えようとも、めだかたちは目をくれもしない。ただ黙って、笑って、“お遊戯(ゆうぎ)”のように群衆を()して(およ)いでいく。

 心地よさはいつの間にか消え去っていた。そこに残されたのは、燃えるように()てつくように強い、置いて行かれることへの恐怖だった。


 ──待って!


 強く叫ぼうとしたその瞬間、演奏は終わっていた。




 里緒はそっと、クラリネットを口から外した。視界が(くら)むのが恐ろしくて、あえて時間をかけて視線を持ち上げた。

 花音以下、教室に居合わせていたクラスメートたちの誰もが、まったく同じ顔をして里緒の方を見つめていた。

 やっぱり注目されてる! ──たちまち姿を消してしまいたい衝動に駆られたが、すんでのところでぐっと()えて、里緒は小声で花音に感想を求めた。


「……ど、どう、だったかな」


 花音の目の焦点は(ほう)けたように遠くなっていた。ぱちぱちとまばたきを盛んに繰り返したかと思うと、消え入りそうな声で彼女は言った。


「すっごく上手かった」

「うん。びっくりするくらい上手かった」

「高松さん、すごいんだね」


 クラスメートたちの褒め言葉が口々に続いた。どうしよう、こんなに褒められてしまった。褒められるようなことは何もしていないのに──。膨れ上がる感情をどうにか飲み込んでやり過ごし、誤魔化しついでに里緒はいそいそとクラリネットを仕舞い込みにかかった。

 仕舞い込みながら、うつむいた。


「あ、ありがとう……」

「なんでそんな嬉しそうじゃないの?」


 花音の声色がわずかに(くも)った。

 どうしてだろうか。一瞬、手を止めて考え込みそうになった。

 上手いも何も、里緒はただ、耳が覚えてしまったあの音を目指しているだけ。理想の音色は瑠璃の音色であって、それ以上でもそれ以下でもないのだ。“上手い”とか“下手”だとか、そういう尺度で自分の演奏を客観的に評価しようとすること自体、たぶん、里緒には一度も経験のないことだった。

 だから、


「これなら管弦楽部に入ったって遜色(そんしょく)ないんじゃないかなぁ」

「ね、あたしもそれ思った! 下手したら先輩よりよっぽど上手いんじゃない?」

「もっと自信持てばいいのにー!」


 なんて、褒め言葉を出し惜しむことなく賑わう外野の姿を見つめていると、里緒はますます素直に喜んではいけないような気持ちに落ち込んでしまうのだった。








「──あたしたちにとってこんなにラッキーなことってないと思わない?」


▶▶▶次回 『C.014 天才の衝撃』

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