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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第四楽章 蒼の涙とアイネクライネ
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Interlude ──〈福音〉 後編

 




 ──結論から言えば、瑠璃はいじめられていたのではなかった。


 その晩、瑠璃は自分の身の上話を語った。それまでのような楽しい思い出ではなく、今の自分を形作った苦しい過去を語ってくれた。

 小学校の頃から人付き合いがひどく苦手で、大方の予想に反して彼女は短大でも孤立していたのだという。それでもたった一人、どうにか信頼を置いていた親友がいたのだけれど、今年の秋に裏切りのような目に遭い、彼女とさえ口も利けない状態が続いていた。いじめられているという噂が『Reunion』の中に立ったのは、裏切られたショックから立ち直れず、見る間に人間不信の沼に沈んでいった瑠璃が、そのように誤解されたためだった。

 昔から、人と触れ合うのが怖かった。

 誰の前に立って話していても、あるいは触れ合っていても、好かれていないんじゃないか、何の関心も持たれていないんじゃないかと、疑いの気持ちが消えなかった。

 楽器を心の拠り所や逃げ込み場所にできなければ、きっと『Reunion』でも孤立していた。──二度と離さないとばかりに大祐の身体にしがみつき、瑠璃は深夜になっても、朝が来ても、泣いていた。


「みんなのことが大好きなのに怖くて、信じられなくて、私からじゃ誰かに声をかけることもできなくて……。だから、こんな私のことも優しく扱ってくれる、声をかけたら笑ってくれる、大祐さんのことがずっと好きだったんです……っ。好きだったけど、そんなこと伝えたら離れていかれちゃうって……怖くて……、私……ひとりぼっちになりたくなかったからぁ……あ……」


 さめざめと溢れ出す涙混じりの言葉たちが、いったい何の力で瑠璃の心から吐き出されたものなのか、大祐には見当がつかなかった。酒の勢いが残っていたせいかもしれない。触れ合って伝わった肌の温もりが、心を縛る金属の鎖を弛緩させたせいかもしれない。

 いずれにしても大祐はこうして、瑠璃の身体に巣食う負の感情を知ってしまった。


(こんなに俺のこと、待ってくれていたんだ)


 瑠璃の啜り泣く声に紛れさせて、ちょっぴり頬へ流れ出した涙を拭った。初めて受け取った他者からの愛情は熱く、重く、大祐の胸いっぱいに沈み込んで、それから膨大な質量の覚悟を要求してきた。人生二十二年目にしてようやく、誰かを愛することの本質を大祐は学んだ。

 愛するとは、守ること。

 愛する者のすべてを受け止めて、消えないように抱き締めること。


(強くならなくちゃいけない。瑠璃さんが傷付くことのないように、胸を張って隣に立っていなくちゃいけない)


 差し込んだ朝の光に浮かぶ瑠璃の柔らかな寝顔を前に、大祐は燃え(たぎ)る決意を喉の奥へと飲み込んだ。


 瑠璃を守る。

 誰よりも瑠璃を大切にして、愛する。

 瑠璃からの愛を糧に、未来を生きてゆく。


 それこそが自分の生きる道だと信じることに、もはや疑問の余地はなかった。必要もなかった。






 年が明け、年度を(また)ぎ、忙しない日々は続いた。


 大祐と結ばれた瑠璃は徐々に笑顔を回復させていった。もう孤独ではない、心から慕う相手に寄り添えるようになったのだから、悲しい顔はしないと瑠璃は嬉しげに語っていた。

 サークル内にも着実に安堵が広がっていったようだ。件のクラリネットパートの同期仲間など、大祐の手を取って「お前のおかげで俺たちは救われた!」と歓喜した。瑠璃と付き合い始めたことを周囲には特に話していなかったが、堂々と照れる瑠璃を見れば恋愛関係など一目瞭然だったようで、それもまたずいぶん冷やかしのネタにされたものだ。

 卒業までの間、二人の関係を邪魔するものはなく、大祐と瑠璃は無事に手を取り合って大学と『Reunion』を卒業した。


「だから言ってたじゃん、あいつら絶対うまくいくと思ってたって!」

「これでいよいよ本物の高松ペアになったな」

「結婚式には呼んでよね! おい、呼ばなかったら許さないからな大祐っ」


 OBから後輩に至るまで、“高松ペア”は追い出し会の席でもさんざんいじられた。彼らは最後の最後まで、大祐と瑠璃に優しかった。寂しいといって泣きじゃくる瑠璃の姿は幼い子も同然で、大祐は一足先に父親の気分を味わった。




 ……しかし結果からいって、かつての仲間たちを結婚式に呼ぶことは叶わなかった。卒業の寸前、とんでもない事実が発覚したためである。

 避妊を怠っていなかったはずが、いつの間にか瑠璃は懐妊してしまっていたのだ。

 それも、すでに二ヵ月以上が経過。このままでは十月頃に四十週を迎える計算だった。

 当然、すぐに中絶が視野に浮かんだ。しかし当の瑠璃は頑として、中絶の提案を受け付けなかった。


「お願い、産ませて」


 毎晩、毎晩、涙ながらに瑠璃は訴えた。


「どんなに生活が苦しくなってもいい。私も頑張って家計を支える。だからお願い、この子を死なせないで。せっかく宿ってくれた子のこと、見捨てたくないよ」


 それが無謀な選択だとは分かっていたのだけれど、結局、大祐は瑠璃の訴えを聞き入れる道を選んだ。子どもは、どんな写真や記録よりも強くて確かな、二人の愛の証。願い出る言葉の裏に隠れた瑠璃の心痛を思うと、みすみす殺す判断をすることはできなかったのだ。

 ちょうどよい折りだと思った。

 手元には指環(ゆびわ)のひとつも用意していなかったが、


「産まれる前に結婚しよう。産まれてくる子にも、俺や瑠璃にも、帰る家族(ばしょ)が必要だよ」


 そう言って、プロポーズを果たした。瑠璃は顔をぐしゃぐしゃにしながら抱き着いて、プロポーズへの返答を全身でもって表現してくれた。

 幸い、ラックタイムスの初任給は世間的に見てもかなりの高水準で、生活設計のうえで経済的困窮が生じることはなさそうだった。問題だったのは両親、特に瑠璃の親である。子どもができたことを白状するや、瑠璃ともども「二度と我が家の敷居を跨ぐな」と怒鳴り付けられ、家を叩き出されてしまった。我が子の“できちゃった婚”を目の当たりにさせられた親として至極当然の反応だっただろうが、これで二人は頼れる先を失い、孤立した。


「いいよ、別に」


 落胆する大祐を前にして、存外あっけらかんと瑠璃は顔を綻ばせていた。


「私の味わってきた苦しみのこと、あの人たちは理解してくれなかったから。私には大祐がいてくれればいいの。むしろ、うちの親が失礼なこと言っちゃって、ごめんね」


 気の弱い性格をしていながら、瑠璃には意外と割り切りのいい部分があって、そんなところに大祐は何度も救われていた気がする。今にして考えるとそれは、傷付きやすい自分を余計なトラブルや火種から可能な限り遠ざけようとする、瑠璃なりのリスクマネジメントの一環だったのかもしれない。

 大学を卒業してしまうと日々の在り方は一変した。毎日、大祐は朝から夜までラックタイムスに出勤。家では妊娠中の瑠璃のことを(いたわ)って、独り暮らしで鍛えた腕を駆使して可能な限りの家事をこなした。働くこともできない瑠璃は、毎日、出産や育児の本を借りてきて勉強しながら、時折、知り合いから借りてきたというクラリネットを取り出しては(たしな)んでいた。お腹の中の子どもに吹き聴かせてあげたかったらしい。中古で安く購入したアップライトピアノを居間に設置して、大祐もときどき、その演奏に付き合った。『Reunion』で一緒に活動していた頃のことが懐かしく思い出されて、たまらない充足感が胸の奥から込み上げた。


「音楽の好きな子に育ってくれたらいいね」

「そしたら三人でセッションができるな」


 そんなことを語り合って、笑って、出産までの長い期間をやり過ごしたのを覚えている。

 瑠璃が成人するのを待って結婚も済ませた。挙式の手間もお金もかけられず、最寄りの豊島区役所に婚姻届を提出しただけで終わってしまったが、それでも正式に“帰る場所”を得た二人の心は十分に満たされていた。瑠璃の幸せいっぱいな笑顔があれば、挙式など後回しで構わないと思えた。

 やがて妊婦健康診査の結果、胎児は女の子と判明。出血や張りの様子から早産が見込まれ、出産予定日は九月の後半に繰り上げとなった。




 九月二十三日は長い一日となった。無事に胎児を娩出し、元気な産声を耳にした大祐と瑠璃だったが、直後に予想外の事態が瑠璃を襲ったのだ。

 弛緩(しかん)出血。──胎盤を娩出した後も子宮が収縮せず、大量の血液が体外へ流れ出す症状である。その流出速度は最大で分速一〇〇〇ミリリットル。放っておけば数分と経たずに、生命の危機にかかわる出血量に達する。

 まさに非常事態だった。すぐさま輸血が開始され、産科医たちの手でありとあらゆる対処が試みられたが、どれもことごとく失敗に終わった。残された手段はひとつだけだと言われた。


「出血元となっている奥様の子宮を、摘出する他ありません」


 担当の産科医に進言を受け、大祐と瑠璃は互いの青い顔を見交わした。子宮がなければ妊娠もできない。子宮の摘出はすなわち、高松家が二度と子どもを授かれなくなることを意味している。

 しかしここでも瑠璃の決断は早かった。


「お願いします」


 血の止まらない苦痛に顔を歪めながら、それでもきっぱりと瑠璃は言い切った。その目を濡らす強い意志の光に、後悔の色が混じっていないのを認め、大祐もうなずいた。今は瑠璃の隣で、母親としての瑠璃の強さを信じることしかできなかった。

 一息をつく間もなく子宮摘出手術が開始され、およそ一時間で瑠璃の身体からは子宮が取り除かれた。大祐には想像もつかないほどの痛みと体力消耗に瑠璃は(やつ)されたはずである。ぐったりと衰弱しながら、それでもベッドの上で瑠璃は微笑んでいた。

 出血多量による死の危機を、間一髪のところで瑠璃は回避したのだ。




 産まれた女の子には瑠璃によって名前が与えられた。“誰かの心のふるさとになれるような子に育ってほしい”。“人と人、あるいは人と幸せを、決してほどけることのない糸でつなぎ止め、誰からも愛される存在になってほしい”。そんな意味を込めたのだと聞かされた。

 これからはこの子が、大祐と瑠璃の帰る家族(ばしょ)の、世界でひとつの象徴になる。うっすらと産毛をまとう赤ん坊の寝姿を二人で眺めるたび、その事実がしんしんと胸に沁みて輝いた。


「私のお腹と引き換えに、この子は産まれてきてくれたんだね」


 まだ赤みの深くて柔らかい頬をつっつき、瑠璃は嬉しそうにはにかんだ。


「私が聴かせてあげてたクラの音、ちゃんと覚えててくれてるかな。覚えててくれたらいいな」

「覚えてるよ。あんな至近距離で聴いてたんだぞ」


 いつかの瑠璃の言葉を思い返しつつ、大祐も笑いかけた。もしも覚えていなかったら、これからゆっくり聴かせてあげればいい。やがてこの子が大きく育ち、二人のもとを巣立つまで、時間の猶予はたっぷりあるのだから。

 そっと笑って首肯した瑠璃は、赤ん坊の顔を覗き込んだ。

 早産のせいか、やや平均より小さめの体重二三〇〇グラムで出生した彼女は、握った手のひらを(いと)けない所作で動かしている。閉じられた目の奥で、覚束(おぼつか)ないカタチの耳で、自分を取り巻く世界の音をじっと聴いている。

 瑠璃の相貌には青色の炎が揺らいでいた。


「ひとりぼっちになんてさせない。絶対、ぜったい、幸せにしてあげるから」


 決意の言葉はクラリネットの放つ息吹のように、豊かな響きをもって病室の片隅に染み渡った。瑠璃に負けないくらいの確固たる決意を喉へ飲み込み、大祐も瑠璃の隣で、うなずいた。


「幸せになろう。この三人で」


 そう付け加えて。






 二人の育んだ愛の証としてこの世に降臨し、【高松里緒】の名を与えられた小さな天使は、今はあてがわれた真っ白なベッドのなかに深々と沈んで、穏やかな寝息を立てている。


 彼女はまだ、知らない。

 しかしいつかは知るはずだった。


 自分が目の前の両親に輝かしい福音をもたらす、かけがえのない存在であることを。

 その小さな腕では抱えきれないほどの祝福を受けて、その日、世界の片隅に生まれ落ちたことを。












▶▶▶次回 『Recitativo(レチタティーヴォ) ──〈初音〉』

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