Interlude ──〈福音〉 前編
高松大祐が未来の妻を見初めたのは、もうじき二十一歳になろうという大学三年の春。
所属していた吹奏楽サークル『Reunion』に、高松瑠璃が入部してきた時のことだった。
──そう、出会ったときから瑠璃の苗字は『高松』だった。同姓だったのはまったくの偶然だ。それまで大祐と瑠璃の間に面識は一切なかったし、遠い血縁で結ばれているというわけでもなかった。
「お前ら、おんなじ苗字なんだから仲良くしろよ」
新入会員歓迎パーティーの折、ひどく酔っ払った上級生に胸を掴まれ、そんな言葉とともに瑠璃の前に放り出されたのが、大祐と瑠璃の関係の始まりだった。ぼそぼそと自己紹介を交わし、乱暴な先輩の所業を謝ると、彼女は小さな肩を揺らして笑った。
「高松さんはいい人そうでよかったです」
とんでもない。大祐は肩をすくめた。
「俺からしたら高松さんだっていい人ですよ」
あんなに酒癖の悪い先輩を目の当たりにしても、こんなに口下手で地味な先輩を目の前に据えられても、にこにこと笑って、頬の赤みを手放さない。顔や性格で人を選り好みする趣味は大祐にはなかったが、その一瞬、瑠璃の姿は間違いなく好意的に映っていたと思う。
それにつけても、お互いがお互いを『高松さん』と呼ぶのではややこしい。その場でしばらく悩んだ末、初対面にしていきなり下の名前で呼びあうことになった。合理的な判断に従っただけなのに、さっそく周囲の仲間たちから茶化されて、すっかり上気した瑠璃は視線を足元に落としていた。
その可愛らしい仕草に嘆息しつつ、
(深い関係になることはないんだろうけどな)
なんて、口にたまった苦い思いを舌先で転がしたのを覚えている。
大祐は池袋駅の西口に鎮座する四年制私立大の経済学部、瑠璃は目白にある私立大短期大学部の子ども学科に通っていた。瑠璃の通学先が事実上の女子校だったこともあって、二人の通う大学の間に交流や提携といったものはほとんどなかった。ただ、どちらも名前を告げれば「ああ!」と返答が飛んでくる程度には知名度のある学舎だったから、大祐も瑠璃の学生生活を想像するのに苦労はしなかった。
ボブカットの黒髪、おっとりとして可愛らしい顔立ち、柔和で争いを好まない性格。清楚系女子大生の典型例とでも言わんばかりの特徴を軒並み揃えていた瑠璃は、入会から半年も経たないうちに『Reunion』内の男子たちの憧れの的になった。
「おまけに研心大だぞ、研心大! マジなお嬢様学校じゃねえの」
「同じ“高松ペア”でも、鈴懸学院の経済でちまちまパソコンいじってるお前じゃ釣り合わないよな」
飲み会に参加するたび、野郎共からは瑠璃をダシにして口々に罵倒された。言い返せない大祐は大概、「うるさい」と唸って酒を煽るばかりだった。二十一年間にわたって異性からモテたことのない、地味系男子の筆頭格のような自分では、瑠璃に釣り合わないことなど目に見えて明白だったから。いったい誰が言い出したのか覚えていないが、“高松ペア”などと一括りにされては瑠璃も敵わないだろうと思った。
「同じ苗字ってこと以外に、縁なんて何もない」
いつしかそれが口癖になっていった。そして、少なからず自虐の意識があったのは事実にせよ、その口癖はあながち嘘でもなかった。
インカレの吹奏楽サークル『Reunion』には近隣にひしめく複数の大学から数十人単位の奏者が集っており、年に数度の演奏会を念頭に楽器の腕を磨いている。つまりみんな通学先が違うので、会うのは週に数度のサークルの活動日だけ。大祐の楽器はホルン、瑠璃の楽器はクラリネット。そもそもセクションからして別なので、同じ場所で練習する機会など数えるほどしか存在しなかった。つまり本当に“縁がない”のだ。
話すのはせいぜい飲み会の席か、たまに練習終わりに道端で一緒になった時のみ。
それも毎度、ほんの数分で話が途切れる始末。
数少ない会話の機会に、瑠璃は自分の話をしてくれた。クラリネットを吹き始めた経緯、高校の吹奏楽部の思い出、今のサークル仲間のこと、他の楽器への印象……。時間をかけてゆっくりと、色んな話を耳にしたけれど、きっと瑠璃は同じ笑顔のまま、同じ話を周囲の人たち全員に話して回っているのだろうと大祐は思っていた。
同じクラリネットでも、吹奏楽ではB♭管が優先的に用いられる。あの頃の瑠璃はまだ、ありふれた普通のB♭管ソプラノクラリネットを用いていた。お金がないというので楽器は借り物だったし、整備もあまり行き届いていなかったようだ。それでも瑠璃は満足げに、楽しそうに管体を取り回して、読み込んだ音符の並びを吹き奏でていた。
こと演奏の品質に関して言えば、“高松ペア”の評判は良くもなく、悪くもなかった。
「大祐の音には繊細さが足りないし、瑠璃の音にはパワーが足りないんだよな」
というのが、当時の演奏仲間たちの共通見解だったらしい。二人の演奏法をちょうどよく掛け合わせれば完璧なのに、もったいない、という。そもそも性質の違う楽器群なのに、金管と木管を掛け合わせるだなんて無茶にも程があると大祐は思う。
聞けば、瑠璃はそもそも腹式呼吸をしておらず、高校の頃からほとんど力業でクラリネットを吹いていたのだという。周りの奏者がカバーしてくれてたから、音が小さくても怒られなかったんです──。それが瑠璃のささやかな言い分だった。
「大祐さんのホルンみたいな迫力と張りのある演奏、とっても羨ましいです。私にはできないから」
「いやそんな、おだてないでよ。俺だって他人に誇れるような演奏なんかできてない」
眼下の瑠璃に至近距離で微笑まれるたび、恥ずかしいやら、いたたまれないやらで、大祐はつい敬遠の台詞を口にしてしまう。きっと、ためらうことなく自分を肯定してくれる瑠璃の存在に、少なからず戸惑いや混乱を覚えていたのだと思う。それまでの二十一年間、あんな風に誰かの関心を惹き付けた経験は、大祐には一度もなかったから。
お互い下の名前で呼び合っているのに、音楽の話題を挟まないと言葉を交わせない。“友達”とも“先輩後輩”とも“他人”とも呼びきれない不器用な関係だったけれど、あの頃は周囲の理解や後押しにも支えられて、大祐も、瑠璃も、それなりに楽しく日常を送ることができていたと思う。ともに楽器を取り合って定期演奏会の舞台にも立ったし、吹奏楽のイベントにも出席したし、子どもたちや老人たちの前で即興の演奏を繰り広げたこともあった。
いっぱいの拍手を浴びて輝き、照れたように笑う瑠璃の姿は、いつだって伸びやかに可愛らしくて、美しかった。
耳触りのよくない噂を聞き付けたのは、当時すでにネット通販の最大手に躍り出ていた新進気鋭のベンチャー企業・ラックタイムスの秋採用に挑んで内定をもぎ取り、どうにか大祐が就職活動に終止符を打った頃のことだった。
瑠璃が短大でいじめられている。
そんな、根拠も流出元も不明の噂話だった。
「瑠璃ちゃん根っからの善人っぽいもんね。あれ絶対、いじめられても抵抗できないタイプだよ」
「研心の同級生に味方とかいないのかなぁ」
「そのうち慰め会でも開いてあげたいよね」
練習の合間、サークル仲間の女子たちは口々に思いの丈を吐き出しては、本人の耳に届かないところで密やかに瑠璃を擁護していた。すでに入部から一年半近くが経過していたが、穏やかで優しい、誰よりも『温厚』という言葉の似合う瑠璃は、少なくともサークル内においては高い好感度を維持していた。だからこそ、いじめられているという噂の不気味さが際立った。
むやみに胸がざわついた。当事者でない自分が首を突っ込むべきではないと思いつつ、それでも、事の真偽を知りたいと思わざるにはいられなかった。
“高松ペア”の一角として、瑠璃が苦しんでいるのなら何かしらの手を差し伸べてあげたいと思った。
けれども大祐には、それが心から瑠璃を想ってのことなのか、それとも単なる興味本位から来る欲に過ぎないのか、上手く区別できなかった。
(そのうち誰かが声かけて聞き出してくれるだろうし。俺がとやかく口を挟んだりして、場を掻き回すべきじゃないよな)
気付けば逃げの姿勢を作って、そんな謳い文句で瑠璃への関心を遠ざけていた。
しかしその頃から確かに、瑠璃の様子は着実に変貌しつつあった。目の下に浮かんだ隈が消えなくなったのを皮切りに、頬の赤みが薄まり、笑顔が弱々しくなり、その瞳からも次第に輝きが失われつつあった。たまに大祐と言葉を交わすことがあっても、「はい」とか「そうですね」とか、戻ってくる返答に段々と主体性が見られなくなった。
風の噂では就職活動も不調に終わったらしい。うっかり声をかけることもできず、クラリネットパートの空気は何となく気まずく濁りつつあったようだ。いつだったかそんな矢先、業を煮やした同期のクラリネット吹きに帰り道で捕まり、説教を受けたことがあった。
「お前、誰がどう見たって瑠璃ちゃんに慕われてるだろうがよ。瑠璃ちゃんの非常時かもしれないのに、“高松ペア”のお前が動かないでどうすんだよ」
「……慕われてるわけじゃないよ、別に」
「そんなわけあるか。お前くらいだぞ、瑠璃ちゃんとあんなに話してるのって」
面食らって「嘘だろ?」と尋ね返した。聞けば、瑠璃があれだけ親しげに話そうとするのはわずかな同期生や大祐くらいのもので、大半の部員から瑠璃は微妙に距離を取っているようなのだ。凹んでいるのに気づいて話しかけてもうっすらと壁を感じる、そこから先のプライベートに踏み込めない──。同期仲間の顔は沈鬱だった。
「頼むよ。お前だけなんだよ、あの子を元に戻せるのは……。クラパート全員からのお願いだ」
そこまで畳み掛けられてもなお、大祐は腰を上げることができなかった。だったら瑠璃の方からSOSのひとつくらい飛んできてもいいはずだ。嫌っていないというだけならまだしも、瑠璃が大祐を慕う理由なんて何も思い浮かばなかった。
それに、もしも実際の瑠璃が、大祐のことなど歯牙にかけていなかったら?
恐ろしくて尋ねられなかった。いっぱしに金管楽器を取り回していようが、臆することなく舞台に立つことができようが、大祐の本質は“臆病”だったのだ。取り繕う余地がないほどに。
結局、何もできないままに数週間が過ぎ去った。
年忘れの飲み会の席で、瑠璃は珍しくカクテルを何杯も飲み干した。「アルコールは飲めないんです」といって普段からいっさい酒類を受け付けていなかった瑠璃の変容に、仲間たちは困惑を隠せないまま、泥酔した彼女の介抱に手を焼いていた。
あろうことか、瑠璃は家への送迎役に大祐を指名した。
「ま、高松先輩なら大丈夫でしょ」
「しっかり送り届けてあげろよな」
二次会のカラオケへと向かう仲間から口々に呑気な言葉をかけられ、大祐は肩をすくめた。冷やかすのか気遣うのか片一方にしてほしい。せめて、こんな形であっても瑠璃に何かしらの貢献をしてやれるのなら、それも悪くないと思うことにした。
「えへへー」などと不審な笑い方をする瑠璃を連れて池袋駅から西武線に乗り、最寄り駅で下りて、指示されるままに夜道を歩いた。独り暮らしのアパートは短大からずいぶん離れているそうで、近隣に同じ大学の知り合いはほとんど住んでいないのだと瑠璃はいった。
普段の姿からは考えられないほどの饒舌さ、潤んだ声、真っ白に萌える吐息。寒空に視線を逃がして、大祐はそれらを見なかったことにしようと努力した。明日の朝になって瑠璃が正気に戻れば、きっとすべてを忘れることを望むだろうと思ったから。
なのに、肝心の瑠璃がそれを許さなかった。
「今日の大祐さんは冷たいですぅ」
ふくれ面のまま、蛸のような手つきで大祐の腕に絡み付いて、彼女は嬉しそうに自分の話をした。クラリネットを吹き始めた経緯、高校の吹奏楽部の思い出、今のサークル仲間のこと、他の楽器への印象──。どれも一度は瑠璃の口から聞いたことのある話ばかりだった。延々二十分も立ち話は続いた。
ついに耐えられなくなって、口を開いた。
「俺、それ、知ってるよ」
瑠璃はとたんに黙りこくった。
彼女の沈黙に気付かないまま、大祐はなおも自分の言い分をまくし立て続けてしまった。
「そんなこと、今さら話してくれなくたって知ってる。……それより最近のことが知りたいよ」
「…………」
「知ってるんだろ。瑠璃さんが今、サークル内でどんな風に噂されてるのか。俺だって気になるし、心配だし、他のみんなだって心配してるんだ。今日の俺は最近の瑠璃さんのこと何も聞いて──」
「私の」
不意にうつむいた瑠璃が、掠れた声で大祐の話を遮った。街灯の陰にあって表情は窺えなかった。
「私の今までしてきた話のこと、覚えててくれてるんですか」
何を問われているのか大祐には分からなかった。
「私のこと、覚えていてくれてるんですか。忘れないでくれてるんですか。好きな音楽のこととか、楽器のこととか、みんな……」
瑠璃は尚も問いを重ねた。当たり前だ、そう簡単に忘れられるわけがない。戸惑いながらも首を垂れると、「そうですか」と瑠璃は口角を上げた。真っ暗な目元の下で、下手くそに引かれた口紅のように笑みが広がった。
「……私が消えていなくなっても、私のこと、私の音、私の声、忘れないでいてくれますか」
刹那、頬を滑り落ちた白銀の光が輝いて、ひび割れの目立つアスファルトの隙間に消えた。
耳を疑う言葉に大祐は固まった。しきりに自分の昔話を語ろうとした瑠璃の真意が、その瞬間、大祐の皮膚から深く染み込んで、あっという間に骨の髄にまで浸潤した。
「私が誰にも求められなくなって、いらないって道端に捨てられちゃっても、私のこと、覚えててくれますか。私が死んでしまっても、私の名前、諳じてくれますか。私の音、私の声、思い出してくれますか……。私が……、もう二度と立ち上がれなく……、なっても……っ」
ぼろぼろと光の粒を溢しながら瑠璃は尋ね続けた。誰がどう見ても、酔った勢いで泣いているのではなかった。壊れた機械人形のようになった彼女は、足元に開いた穴のなかへ今にも落ちてゆきそうで、大祐は夢中で瑠璃の両肩を掴んだ。
なぜ。
どうして。
そんなに思い詰めていたなんて知らなかった。……いや、想像はできたはずだった。下戸の彼女が酔いつぶれるまで酒を飲む理由があるとしたら、酔ってでも振り切らねばならない何かがあったからとしか考えられないのに。
忘れる?
失う?
冗談じゃない──。
「もうやめてくれっ……。俺は絶対に忘れたりしない。忘れられるもんか。一年半、ずっと一緒に活動してきた仲なんだからっ」
「……大祐さんはそう言ってくれるって、私、信じてました」
にへら、と瑠璃は涙まみれの顔を崩して笑った。とても見ていられなくて、大祐は強引に彼女を引き寄せ、自分の胸に埋めた。これでいい。これで、よかった。初めからこうすればよかった。泣き出した瑠璃の身体の温もりが胸に伝わり、確信へと変わって大祐の全身を駆け巡った。
深夜の道端に立ち尽くしたまま、瑠璃が泣き止むのを待った。
ただ、ただ、夢中で。
月の蒼い、しんと静けさの肌に沁みる夜だった。
「ひとりぼっちになんてさせない。絶対、ぜったい、幸せにしてあげるから」
▶▶▶次回 『Interlude ──〈福音〉 後編』