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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第四楽章 蒼の涙とアイネクライネ
136/231

C.129 里緒の音

 




 夕食の時間を終えた管弦楽部の面々は、先を争って校庭に繰り出した。

 どこからか水の入ったバケツを調達してきたはじめと洸が、行こう、と里緒にも目で語りかけてくれた。一緒について建物を出ると、たちまち「開いたー!」と花音の叫ぶ声があたりに響いた。スマホや懐中電灯の(あか)りの照らす先で、花音や元晴が片っ端からビニールの袋を破き、細い棒状のものを何本も引きずり出したところだった。


「なぁ、これって警察に怒られたりしないよな。消防法違反とか……」

「グラウンドは人工芝だし、建物とか木を燃やさなきゃ大丈夫でしょ。……たぶん」


 洸とはじめはひそめた声で不穏な会話を交わしている。二人の懸念にも構うことなく、花音は件の棒をてきぱきと渡して回った。むろん、里緒も受け取った。ライターを振りかざした菊乃が「火をつけるぞ!」と勝ち(どき)よろしく声を上げ、わいわいと部員たちが周りに群がった。


 棒の正体は手持ち花火。

 夕食前に駅前の総合スーパーへ走った二年生たちが大量の花火を買い込んできて、合宿三日目の夜は急きょ、花火大会を開くことになったのだ。




 手持ち花火に興じるのは三年ぶりだろうか。いじめの被害に()っていなかった中学一年生の頃、友達に混ぜてもらって花火を手にしたことがあったのを、飛び散る火花の熱さに首をすくめながら里緒は思い出した。中学の頃の愉快な思い出に触れたのは、弦国に入学して以来これが初めてかもしれない。

 花音と舞香は競い合って多数の花火にいっせいに火をつけ、周囲の顰蹙(ひんしゅく)を買っていた。右手に四本、左手に四本。危険なことこの上ない。


「ねえねえ、これどっちがきれい!? 審査してっ!」

「花音よりわたしの方が百倍きれいでしょ!」

「どっちも怖いし危ないからーっ!」


 詰め寄られた緋菜が、(おび)えた形相で里緒に助けを求めてきた。審査を代わってほしいと言われた里緒はますます怯えた。弾ける火も怖いし、二人の威圧だって怖い。しかし審査してあげないことには二人も満足してくれそうにない。

 とりあえず、花音の色選びのセンスの方が優れて見えたので、花音に軍配を上げることにした。狂喜する花音の隣で、舞香が悔しげに憤慨した。


「いっつもそうやって花音のことばっかり!」


 怒らせた! ──条件反射で里緒は目をつぶってしまった。だが、直後、ぬっと背後から現れたはじめが花音と舞香に説教を始めたので、とうとう舞香に怒りを向けられることはなかった。考えてみると舞香は別に怒ってはいなかったような気もする。すくめた首を元に戻して、悄気(しょげ)る二人の姿を眺めた。

「そんなにいっぺんに持って振り回したら危ないでしょ、小学生か」──。般若のごとき部長(はじめ)の形相が暗闇に赤々と浮かび上がって、「怖い!」と周囲の笑いを誘っていた。花音たちも危ないが、聖火リレーと称して火のついた花火を手に走り回っている男子部員たちの方が、里緒にはよほど危なっかしく思えた。


「ほんと、小学生みたい」

「あんな遊び方してた頃もあったよねー」


 隅っこの暗いところで線香花火の火の玉をぶら下げながら、直央や恵たち二年女子がケラケラと盛り上がっている。

 その群衆のなかに、里緒は美琴の姿を見つけた。ぽたり、呆気なく手元を離れて人工芝の合間に消えた光を、美琴はぼんやりと無表情のままに見つめていた。()()()()()()は似て非なる別のものなのだと、そのとき里緒は初めて気付かされた。


「まーだ暗い顔してんの」


 隣に腰を下ろした菊乃が、笑った。


「午後練の後半くらいからずっとそんな調子じゃん。ね、ほんと何があったわけ?」

「……言わない」


 美琴はそっぽを向いた。プライドの高い先輩のことだ、きっと最後まで秘匿を貫くに違いない。むっと頬を膨らませた菊乃が美琴をつつく。美琴も頬を膨らませる。一年半という時間のなかで穏やかに紡がれてきたのであろう、(むつ)まじい二人の姿を眺めながら、里緒は心に焼き付いていた美琴の人物像が静かに塗り替わってゆくのを感じた。


(本当は、ただ怖いだけじゃなかった。私のことをただ嫌ってるのでもなかった)


 仏頂面の裏できちんと悩み、憤り、はたまた悲しむこともある、ごく普通の十七歳の女子高生。それが茨木美琴という先輩だった。彼女は生理的に里緒を嫌っていたわけではない。美琴なりの過去と葛藤に悩まされ、苦しみ、その結果として里緒を遠ざけた。そして今もなお、里緒との向き合い方に悩み続けてくれている。

 美琴だけではない。

 緋菜も、それから舞香も。

 きっと里緒を取り巻くすべての人たちが、それぞれに複雑な心を抱えて里緒と距離を取っていた。他でもない里緒自身がそうしていたように。

 無論、彼らは今でも深層心理のどこかで里緒のことを嫌っているのかもしれない。けれども人間の心はそんなに単純ではない。本当の心のカタチを知りたければ言葉を交わし、ともに時間を過ごして、表に出ることのない感情をどうにか読み取らねばならない。それは音楽も同じなのだ。丹念に書き込まれた楽譜を読み解き、そこに浮かび上がる作者の思いに耳を傾けるのには、相応の努力と時間を要する。

 怖がりたくなければ、勇気を出して歩み寄るしかない。燃え尽きた花火にじっと目を落とし、くゆる煙のなかに里緒は花音や紅良の顔を思い浮かべた。“大丈夫だ”と、確信の炎が揺らめいた。


(もしも倒れそうになっても、私には……)


 不意に肩が叩かれたのはそのときである。


「ひゃあ!」


 里緒は飛び上がらんばかりの勢いで叫んだ。泡を食って口を押さえた里緒を、「すまん」と手の主が申し訳なさげに覗き込んできた。京士郎だった。

 今度の合宿で京士郎は顧問らしく練習に加わり、夜のミーティングにも顔を出している。姿を現すようになった理由を里緒は知らないし、京士郎が当然のようにいる部活の空間には、まだ慣れない。


「い、いらしてたんですか先生……っ」

「火遊びは怖いからな。何かあったときのために一応、いておこうと思って」


 苦笑した京士郎は顔を上げた。その目が、思い思いに花火を手にして(たわむ)れる部員たちの背中を捉えて、そっと細く引かれる。里緒も真似をして、仲間の遊ぶ姿に目をやった。「あっちへ行かなくていいのか」と京士郎が尋ねた。首を振って、断った。


「そうか」


 うなずいた京士郎は里緒の隣に腰かけた。


「……まだ、気持ちの整理がつかないか」


 そうなのかもしれない。自分にもよく分からない。曖昧にうなずいた里緒を京士郎は見上げ、ふっと口元にえくぼを刻んだ。


「ゆっくり時間をかけてくれていいんだ。何を望むのか、これからどうしていきたいか、高松くんのペースで見つけてくれ。僕ら大人の側には、いつまでも悩む君の隣に立って寄り添う準備がある」

「先生……」

「今までなかなか力になってあげることができなくて、申し訳ないことをした」


 京士郎の声色があまりに寂しげで、里緒の喉元には反論の文句がたちまち込み上げた。京士郎が自分を責めるべきではない。里緒は自分自身の意思で、過去を知られるのを拒絶し、周りの人に頼る道を選ばずにやってきたのだから。


「この敷地内に取材は入れさせない。仙台から誰かが何かを言いにきたとしても、校門でしっかり追い返す。我が校は総力を挙げて、ここを君の逃げ込める安全圏にするつもりだ」


 だから、と京士郎は一拍を起き、はにかんだ。


「夏休みも、二学期に入ってからも、安心して弦国(ここ)に通ってほしい」


 京士郎の口を落ちて足元に転がった優しさの欠片(かけら)を、里緒は少しの間、ぼうっと見つめた。

 仙台にいた頃は先生も生徒も誰一人、こんな優しさをかけてくれることはなかった。胸が温もって涙を押し上げかけたが、すんでのところで誤魔化して、「はい」とつぶやいた。それがやっとだった。

 おもむろに立ち上がった京士郎は、燃え尽きた花火を里緒の手から回収した。それからバケツのところへ歩いてゆき、花火を放り込んだ。顧問の存在に気付いた部員たちが駆け寄ってきて、「先生もやりましょうよー」などと声をかけている。眉を傾けて笑った京士郎はすぐには花火を受け取らず、里緒を振り返り、手招きをしてくれた。


「あ! 姿が見えないと思ったらそんなとこにいたのか」

「こっちおいでよっ」

「男子どもがロケット花火打ち上げるって!」


 口々に里緒を呼ぶ声が、京士郎の手の動きに重なる。

 里緒は衝動的に一歩を踏み出しかけた。一瞬、怖くなってつま先を引っ込めかけたが、夢中で目をつぶって前に放り出した。

 踏み出してしまえば、もう、怖くはない。


「い、いま行きますっ」


 里緒は人工芝の上を駆け出した。耳元を吹き抜けた風が心地よく音を鳴らし、前へ向かう里緒の背中を力いっぱい押して、消えた。





 ◆





 午前0時を回って、日付は七月十四日になった。




 里緒のクラリネットが音を放たなくなってから、もうじき半月が経とうとしている。

 救いの見えない未来に絶望し、ひとりぼっちの家のなかで泣き崩れたあの日から、およそ四百時間が経過した。こうして立ち直るまでには膨大な量の時間と、安寧と、それから愛情が必要だった。花音や紅良には学業を(なげう)ってまで救われた。青柳家は他所者(よそもの)の里緒を温かく迎え入れてくれ、管弦楽部は一から基礎をやり直す時間を提供してくれた。

 この身体は今、里緒を守りたいと願う多くの手のなかにある。

 花音や紅良のようなほんの一部の例外を除けば、今はまだ、周りの人々を心の底から信用できるわけではない。頼れるわけでもない。だが、それでいいのだ。いつか里緒の心が熱を取り戻し、また以前のように生きていけるようになるのを、みんなはきっと待ってくれるから。

 その確信が大きな力になる。

 この小さな胸が打つ音を、力強く響かせてくれる。




 午前0時。

 二度目のゲーム大会が終わった一年女子の宿泊部屋は、暗闇の底でしんと静まり返っていた。

 食後に花火を手にしてさんざん騒いだせいか、花音たちはもちろん、さすがの緋菜も今夜はブレストレーニングに向かわず、一足先に寝落ちている。耳をすますと、丸くなった布団のなかから柔らかな吐息がいくつも聞こえてきた。


(……そろそろ、いいかな)


 里緒は起き上がった。

 持ち物は風船と、教本と、クラリネットのケース。これから向かう場所は(あか)りが乏しい。教本が役に立つとは思えないが、傍らに置いておくだけでも気持ちが安定するので持ち物に加えた。丸暗記した曲を吹くときにも、同じ理由でつい手元に楽譜を用意してしまう。こういう自己不信なところは昔と少しも変わっていない。

 ケースを抱えて、廊下に出る。誰にも見つからないように急ぎ足で校舎を抜け、広いグラウンドに踏み込んだ。案の定、電灯のまばらなグラウンドは真っ暗で、西を見れば国分寺駅前の町明かりが校舎の向こうに煌々(こうこう)と輝いていた。二年女子や男子の部屋にも照明が灯ったままだ。あの光に満ちた世界から、暗闇の支配下に落ちた弦国のグラウンドを窺うのは不可能に等しい。

 里緒はいま、誰の目にも留まらない場所に立って、息をしている。

 溜まっていた呼気を肺から送り出した。それから、風船を口元に当てたり、下腹部に手を添えたりして、昼間の練習で築いた基礎がきちんとできているのを確認した。腹式呼吸に問題はなさそうだ。むしろ真面目にトレーニングに励んだせいか、以前よりも肺の容量が拡張されている感触さえある。

 続いてクラリネットを組み立てた。全長九十センチ、里緒の身長の半分以上に達する大型のクラリネットが、見る間に手のなかで組み上がった。キイの動き、よし。アンブシュア、問題なし。リードも湿らせてある。馴染みのネックストラップも首にかけ、管体へ装着した。

 すべての確認を済ませた里緒は、マウスピースを口の前に据え、提げたクラリネットを正面に向かって構えた。




(むかしの私にとって、この楽器(クラリネット)はお母さんの形見だった。お母さんの温もりを思い出して、心の逃げ場所を作るためのものだった)


 息を吸って、吐いた。

 夜の匂いが(またた)いて、里緒の濁った肺を穏やかに浄化し、温めてゆく。うっすらと萌える排ガスと(ほこり)の香りが愛おしい。それは、佐野の町ではあまり嗅ぐことのなかった、紛れもない新天地(東京)の臭いだった。


(夢中で吹いているうちに、音色に箔がついた。私の楽器は『吹きたいもの』じゃなくて、『吹かなきゃいけないもの』になっていった。楽器を吹けない私に存在価値なんてない、期待に応えなきゃって、いつしか死に物狂いでかじりつくようになった)


 結果、里緒は音を失った。瑠璃譲りの儚く優雅で美しいクラリネットの(うた)は、過去のものとなった。

 そして、同時に里緒も自分の存在意義を見失い、どす黒い過去の記憶にまみれて自壊寸前に追い込まれた。花音にも、紅良にも、膨大な量の心配や迷惑をかけた。

 それでも、キイから外した手を胸に当てれば、そこには確かな鼓動がある。

 クラリネットを吹けなくなった今でも、里緒はこうして生きている。

 生きることを認められている。

 そう──里緒は生きていいのだ。

 里緒は笑って、泣いて、この世界を生きていっていいのである。たとえ、その過去にどれほどの因果を背負っていようとも、どれほどの人を不幸に導こうとも。


(吹かなきゃ()()()()なんて、もう思わない。この子を、吹きたい)


 里緒は前を見据えた。


(私のために、私を生かしてくれたみんなのために、精一杯の音を吹いて聴かせたい)


 今なら、やれる気がする。

 目を閉じて、アンブシュアを整えた。固い感覚が前歯を伝って、里緒とクラリネットがしっかりと密着したのを教えてくれる。そこへ息を吹き込んだ。

 正しい呼吸の仕方で胸いっぱいに吸い込み、胸のなかで温めた息を、身体と管の(きざ)む無言のリズムに合わせて──。















 漆黒の(ベル)から、()の音が弾け飛んだ。






 高らかに里緒の周りの空気を震わせ、響き渡った金の音色は、目にも留まらぬ快速でグラウンドを飛翔し、フェンスや校舎の壁で勢いよく跳ね返った。

 里緒の耳には音波が折り重なった。反射や回折を無数に繰り返しながら音は次第に小さくなり、耳介から里緒の身体へと潜り込んで、細い体躯を内側から揺さぶった。マウスピースから唇を離しても余韻から逃れられず、里緒はしばし放心状態のまま、グラウンドの真ん中に立ち尽くした。


「出た……」


 声が落ちて転がった。

 出た、確かに出た。夢じゃない──。

 いまにも(たかぶ)って裏返りそうな息を落ち着かせ、クラリネットを構え直した。腹の底から押し上がった息はリードに小刻みの波を起こし、ふたたび(ベル)の先から高音が(ほとばし)った。

 それは里緒の慣れ親しんだ音ではなかった。瑠璃譲りの寂しい、切ない、か細い音色ではなくて、底無しに明るく力強い、開放的な音だった。何べん吹き直しても元には戻らなかった。


(これが、私の音)


 胸に熱いものが込み上げた。


(いまの私自身の音なんだ)


 音程(ピッチ)を変え、音量(ボリューム)を変え、トリルを交えながら夢中で吹き続けた。瞳の端へにじんだ涙が燃えるように熱くて、いつまで経っても拭い去ることができなかった。拭うための指は、手は、里緒の喉と一筋に繋がった長さ九十センチの(クラリネット)を支えている。末広がりの口から断続的に放たれた曙光(しょこう)の歌声は、果てしのない世界中の空に巨大な波紋を描き、燃え、延々と広がっていった。





 ──七月十四日、深夜。

 ひとりの小さな少女が再起を果たし、ついに泥沼の底から立ち上がった。

 いまだ多くの傷の残るその手に、何にも負けない輝きを放つ金色のクラリネットを携えて。











第四楽章はここまでです。


登場人物紹介を挟み、

【Interlude ──〈福音〉前編/後編】、

【Recitativo ──〈初音〉】に続きます。

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