C.128 美琴の涙【Ⅱ】
息を吸って、吐いて、また吸って、楽譜を睨む。
自然に指が動き出した。
力強く弾いた鍵盤から振動が走り、クラリネットと同じ漆黒の巨体が呼応して歌った。叫んだ。時には急流を流れ下るかのように激しく、時には物陰から我が子を見守る親のように慎ましく、されど情熱的に、大きな響板の持つポテンシャルいっぱいの音を打ち鳴らす。ボディからあふれ返った音の粒が、ずらりと席の並んだ階段状の床に弾き出されて散らばる。
なまじ自分の手でも独奏クラリネットのパートを吹いているだけに、あるべき伴奏のイメージも美琴は鮮明に掴んでいる。
(ここは盛り上げ気味に)
“Tutti”の記号を横目に流しながら、のめり込むように指圧をかけ。
(ここはクラの邪魔をしないように)
“cad.”の記号を睨みながら、そっとピアノから身を引き──。
八分間に及ぶピアノパートの演奏は、そうして瞬く間に目の前を流れ去っていった。
五線譜が右下のフェルマータに到達した。Aの鍵盤から指を引き剥がし、美琴は力なく椅子にもたれかかった。そうして、耳心地のよい余韻が講堂の高い天井へと消えてゆくのを、むっとする暑さに耐えながら待ち続けた。
──弾けた。
文句のつけようのない、完璧な伴奏だった。
クラリネットを前にしてあれほど募っていた不愉快な思いが、今となっては欠片も見当たらない。手足の先まで充足感が染み渡って、じんと走った痛みのために身動きが取れなくなる。
なんでよ、と声が漏れた。
(なんで弾けちゃったわけ)
美琴は心のなかで悪態をつきまくった。どうせなら、ピアノさえも上手く弾けなくて、無力感と自嘲の海に沈んでしまえばよかったのに。
これではとうとう、本当に分からないままだ。
すべてを失った里緒の気持ちなんて。
大切な人の形見の楽器を胸に抱えていながら、それを吹き奏でることのできない絶望なんて。
それが分からないうちは、自分はただの加害者だ。ただ、上の立場から里緒を痛め付けただけ。同じ地平に立って同じ痛みを味わうこともない、卑怯者に過ぎない。
(私は…………)
目の奥につんと痛みが走る。どうにか耐えきって、ファイルの中に戻そうと楽譜に手を伸ばした、その時。
不意に扉の方から『ばたん』と音が響いた。
まさか、勝手にピアノを使っているのを見られたか。飛び上がる勢いで振り返った美琴の目に映ったのは、里緒だった。中途半端に開いた二枚の扉の間で茫然と佇み、里緒は真ん丸の目でこちらを見つめていた。足元に落ちたファイルから、数枚の楽譜が覗いている。
美琴は我が目を疑った。
なぜ。
よりにもよって、里緒が。
「……なんでこんなとこにいんの」
懸命に声色を落ち着かせながら、問い質した。ファイルを取り上げた里緒は真っ青な顔で首を振った。
「あのあの、私、さっき追試終わったばっかりで……。四時近くまで休憩って言われて長浜先輩もお休み中だったので、その、ひとりで先に呼吸とかソルフェージュの練習やろうと思ってっ……!」
その瞬間になってようやく、里緒の練習場所が講堂であったことを美琴は思い出した。
迂闊だった。しかしすでに姿を見られた後である。今さら何かを繕ったって、遅い。
「そのっ、邪魔しちゃってごめんなさい……!」
ぺこぺこと頭を下げた里緒は、そのままきびすを返して、逃げるように走り去ろうとする。
美琴の口はひとりでに開いた。
「待って!」
自分をも驚かせるほどの声量だった。肩を跳ね上げた里緒が、開きかけの扉の向こうで動かなくなる。「こっち来て」と美琴は手招きをした。叫び声の残響も覚めやらぬ講堂のなかに、銃口を突き付けられた容疑者のような足取りで里緒は戻ってきた。
何のために呼びつけたのか、少しは自覚しているつもりだった。
今を逃せば、きっとチャンスは二度と巡ってこない。この下手くそなクラリネットが恥を奪い取ってくれる今のうちに、里緒と向き合いたい。向き合わねば気が済まない。そう、自分をけしかけた。
「そこ座って」
ピアノの前から立ち上がり、空いた椅子を指差した。「でも……」と里緒は口ごもったが、肩を押して無理やり座らせた。
「黙って、そこで聴いてて。これ吹くから」
〈クラリネット協奏曲〉の譜面を広げ、言いつけた。いつもの仏頂面を装いながら、つっけんどんな言い方しかできない自分にたまらなく不快感が募った。里緒が固唾を飲むのを確認してから、ピアノの上に放置していたクラリネットを手に取って、そっと、唇へ宛がった。
自分が吹くはずのパートの譜面を美琴が所持していることに、今、里緒はいったい何を思っているだろう。ましてや、それを今から目の前で、自分をいたぶり続けてきた先輩に演奏されることに。
怒るだろうか。
悲しむだろうか。
怒ってくれていい、悲しんでくれていい。せめて耳を傾けるのをやめないでくれればいい。
すっ────。
吸い込んだ息をマウスピースへと送り出した。
悪役を気取っていた美琴の頭はたちまち隅々まで真っ白に染まり、やがて、流れ出した曲の描く音のうねりの中へと穏やかに埋没していった。
生まれたときから、音楽が好きだった。
この手で音を奏でるのが楽しくて仕方なかった。
もっともっと弾きたい、演奏したい。その一心で小学生のうちからピアノ教室に通い、懸命に練習を重ねた。プロのピアニストになりたいのでも、芸を身につけて自慢したいのでもなかった。ただ純粋に、自らの手で、誰よりもすてきな音を奏でられるようになりたくて。
けれども上には上がいて、どんなに練習しても美琴の演奏は彼らに届かなかった。コンクールで破れ、大好きだった先生の前で腕前をバカにされるたびに、悔しくて涙を飲んだ。もっと練習しなきゃと焦燥感に叱咤されて、練習に費やす時間は日ましに増えていった。そうしてようやく教室内で指折りの演奏ができるようになったとき、一緒にピアノに励んできたはずの仲間たちは、美琴に向かってこんな言葉を叩きつけた。
──『美琴、プロになる気ないの?』
──『なんで通ってんの?』
──『美琴のせいで私たち上のクラスに上がれないんだけど。やめてくれない?』
彼女たちの言葉は、ただ愚直に“大好きな音楽”を目指していただけだった美琴の存在理由を、根こそぎ軽蔑して全否定した。
仲間が怖くなって、ピアノ教室に足を運べなくなった。なぜ、誰もがみんな一様にプロを目指さねばならないのか。純粋な気持ちで演奏技術を追求するのはそんなにいけないのか──。何日も悩んで、苦しんで、出した結論はとても単純だった。
誰にも文句を言わせないくらい、自分が上級者であればいい。圧倒的な実力で君臨していればいい。
鬱積した感情はついに堰を越え、中学に入ったところで美琴は楽器を変える道を選んだ。手に取ったのはクラリネットだった。理由もいろいろだった。中学一年生の段階ならばそれほど奏者間の実力差がなく、勝負の余地の残されている楽器だから。ピアノには及ばないにせよ、高機能で、明るい前向きな音が自慢で、どんな曲でも奏でられる主旋律向けの楽器だから。
一度は投げ出しかけたことである。やるからには人よりも上手く、美しく吹きたいと思った。誰もが認める一番星になりたかった。がむしゃらに重ねた努力はじきに実を結んで、中学の吹奏楽部では一番の座をほしいままにした。『美琴のクラには敵わない』と誰もが言った。高校に入って管弦楽部に籍を移しても、鍛えた腕と名声に揺るぎはなかった。部内でいちばん素敵な音だと称えられ、その時ようやく、望んだすべてを手に入れたのだと悟った。
美琴は一番星になれたのだ。
誰よりも素晴らしい音を、大好きな音楽を、この手で自在に紡ぐことができるようになったのだ。
──そして、それはわずか一年後、高松里緒という太陽級の天才が登場するまでの、ほんの仮初めの星彩にすぎなかった。
情熱がなければ真の音楽は完成しない。昨日、矢巾の口を借りて、モーツァルトは美琴の奏でる音を一刀のもとに切り捨てた。
この三ヶ月ほど、美琴は後輩を打ち負かすことにばかり執念を燃やしてきた。美しい音色が目標ではなくて、里緒の座を奪うことが目標になっていた。目的と手段を完全に取り違えていた美琴に、モーツァルトの言う“愛”が備わっているはずはなかった。
美琴は根本的に、致命的に、里緒に敵うはずのない存在に成り下がっていたのだ。
その“愛”を欠いた口で、クラリネットに息吹を込めた。吹けば吹くほど、美しさの感じられない退屈な音符運びが続いた。トリルでもつれた指が狂い、見当違いの音色が口を飛び出すたび、見えない痛みに顔が歪んだ。終止符よろしく五線譜に突き刺さる四分音符の先に、休符がふたつ──。
美琴はそこで吹くのをやめた。
これ以上、吹けない。
そう悟った。
五十四小節で途切れた音楽は、余韻らしい余韻も残さずに床へ沈み込んで消える。脆くなった美琴の心を、強烈な喪失感が容赦なく押し潰した。痛みに胸が圧迫され、瞳の片隅に涙がにじんだ。
おろおろと里緒が口を開いた。
「い、茨木先輩……っ」
「私」
美琴は床を睨んで、里緒の言葉を遮った。点々と転がり落ちた声は、ピアノの発した音のようには響かないで、すぐに虚空に溶けてなくなった。
「ずっと、高松に嫉妬しててさ」
無理に言葉を続けた。息を飲んだのか、里緒の身体が小さく起伏を描いた。
「高松みたいな存在になりたかったんだ。誰にも負けない素敵な音で、たくさんの人のこと、魅了できたら……って」
手のなかのクラリネットが、応じるように輝く。どこか冷えきった、白々しい、銀色のキイが反射する光。傷だらけの美琴にはそれさえ眩しくて、目に入れないように目を閉じた。
刹那、押し出された涙が頬を滑って、落ちた。
「……でも、駄目だった」
今にも崩れ、壊れそうな口を、必死に美琴は開き続けた。
「私のクラリネットじゃ吹けなかった。高松じゃなきゃ駄目だった。私にはこの曲を吹いて聴かせる資質も、腕前も、何一つ備わってなんかいなかった。なのに私、高松の気持ちも知ろうとせずに、ひどいことばっかり言ってきたね……」
「そんな、」
立ち上がった里緒が悲痛な声を上げた。
「ひどいことなんてっ……!」
「こんな時くらい素直になってよ。私のこと、憎らしく思ってるでしょ。怖い顔ばっかりして、文句ばっかり言ってくる先輩だって。……そう思われても仕方ないこと、してきたと思ってる」
美琴は頭を深々と下げた。遮るもののなくなった涙があふれ出して、たちまち、体育館の床に水玉模様を作り出した。
──ごめん。
ごめんなさい。
その価値の重さを誰よりも知っていたはずだったのに、大切な音を奪ってしまった。
存在を否定してしまった。
未来を削いでしまった──。
「お願い」
震える声で美琴は呼び掛けた。
「図々しいことを言ってるのは分かってる。だけど、お願い……。また、高松のクラリネットで、この曲……吹いてよ。吹いて聴かせてよ」
里緒は返事をしなかった。
「そのためなら何だってする……。高松が元のようにクラ、吹けるようになるためなら、どんなことでも手伝うから……っ」
美琴は声を振り絞った。目の前の“元”天才少女の心に届かせたい、届いてほしい一心で。聞き入れてほしい一心で。
聞き入れてもらえなければ、美琴は里緒に贖罪を済ませることができない。
それが結果的に、里緒に『美琴のためにクラリネットを吹く』という重責を与えるものだとしても。背負わせた過剰な期待が、いつか再び里緒を押し潰すのかもしれなくても。
「お願い……っ」
繰り返した瞬間、身体を支える足の力が砕けて、美琴はその場に座り込んでしまった。
視界に映る里緒の足が、にじんだ水滴でゆらりと歪んだ。
里緒は歩き出していた。一歩、また一歩と足を進めて、やがて美琴の目の前で止まった。かと思うと里緒は膝を折って、美琴と同じ目線の高さまで下りてきた。
その手には、美琴の渡した〈クラリネット協奏曲〉の楽譜が固く握りしめられている。指も、腕も、肩も、音を漏らさずに震えていた。
「……先輩」
里緒はつぶやいた。
「ひとつだけ、聞いてもいいですか」
首にひびでも入ったかと思うほど、大きくうなずいてみせる。里緒は続けて問うた。
「私、また……吹けるようになりますか」
ピアノの鍵盤をひとつ押しただけでかき消してしまえるほど、弱く、か細い声の問いかけだった。美琴の血は一瞬、氷のような冷気を放ち、それからたちどころに強く燃え上がった。
答えに迷う必要はなかった。里緒はすでに呼吸法も、アンブシュアも、読譜やリズム感も完成しているのである。
「できる」
美琴は顔を上げた。涙で濡れていようが、目が充血していようが、恥をかこうがどうでもよかった。
「絶対に吹けるようになる。誰にも負けないくらいきれいな、聴く人を幸せに導けるような音、高松になら吹ける。青柳や私にだって吹けるんだ。ちょっと前までできていたことが、そんな簡単にできなくなるわけない」
里緒は無言で唇を結ぶ。静かに濡れた二つの目を見上げて、美琴はだめ押しの言葉を打った。
「何があっても私が背中を押す。きっと、約束するからっ」
すべての感情を噛み殺した顔で、里緒は美琴と、その手のなかで湿りゆくクラリネットと、それから楽譜とを見つめていた。にわかには信じられるはずもない。そのつもりで、美琴もじっと、里緒の下す結論を待った。噛んだ唇に血の味が浮かび、講堂のなかは静寂に包まれた。たった一滴、たったひとりの吐息の立てる音さえ、この危うい静寂の均衡を破壊するのには十分に思えた。
やがて、閉ざしていた唇を解放し、待ち焦がれた言葉を里緒が発したとき。
美琴はどっと耳介に流れ込んだ音の波のなかに、いつか幼かった頃の自分が弾いたピアノの力強い一音を、確かに、耳にした。
「吹かなきゃいけないなんて、もう思わない」
▶▶▶次回 『C.129 里緒の音』