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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第四楽章 蒼の涙とアイネクライネ
134/231

C.127 美琴の涙【Ⅰ】

 




 合宿三日目の朝は、思わぬ届け物から始まった。




 季節外れのサンタクロースを務めたのは警備員だった。朝食を食べ終え、宿泊用の教室に戻ってみると、校門の守衛を務めているはずの警備員が部員一同を廊下で待ち構えていたのだ。


「管弦楽部の子たちかい」


 問いかける声は柔らかかった。先頭を歩いていたはじめが、(いぶか)りながらも「そうですが」と答える。すると彼は顔を(ほころ)ばせ、部員たちを見回した。


「ちょうどよかった。高松っていう子はいるかな」


 当てはまるのは里緒しかいない。名前を呼ばれた里緒が、さながらモーセの海割りのように二手に別れた部員たちの間をおっかなびっくり歩いて、緊張の面持ちで警備員の前に立つ。警戒のつもりだろう、その後ろには花音も続いた。

 警備員は右手に握っていた箱を、これ、と差し出した。


「届け物らしいんだが……。身に覚えはあるかね」

「これって!」


 里緒よりも先に叫んだのは花音だった。背伸びをして、差し出された箱の姿を目にした美琴も、危うく同じことをしかけた。

 クラリネットのケースだった。それも、B♭(ベー)管のそれより二回り以上も大きな、“里緒の(アー)管”のものだ。


「私のだと、思います」


 里緒の声は吃驚でかすれていた。念のためにと断って、警備員はケースを開けてみせる。個々のパーツに分解されたクラリネットが、黒艶(くろつや)を光らせながら静かにクッションの隙間で眠っていた。下管が長く、メッキの施されたキイは黄金(こがね)色に輝いている。

 間違いない。

 里緒のクラリネットであった。


「いや、つい今朝がた背の高い男の人が門のところに来て、届けてほしいといってこれを置いていったんだがね」


 安堵の面持ちで警備員は額を拭いた。


「うっかり名前と連絡先を聞きそびれてしまってね……。無事に引き渡せてよかった」

「……お父さんだ」


 里緒の言葉に、部員たちが静かに息を呑む音が響き渡る。まるで死者からの贈り物を目にしているような反応だ。しかし考えてみると、里緒の両親のうち自殺を企てたのは母親の方だけで、父親の方はまだ健在のはず。小説めいた謎があるわけではない。


(両方亡くなってたんだとしても、ちっとも違和感ないんだけどさ)


 去ってゆく警備員の姿を見送る里緒の丸い背中に、ふっ、と美琴は静かな息を放った。警備員の姿が見えなくなるや、たちまち里緒は他の子たちに取り囲まれ、美琴の視界から締め出された。


「やったじゃん!」

「これでもう、音出せるようになったら今まで通りの演奏できるね!」

「てか、お父さんめっちゃ優しくない? うちなんか何も届けてくれないんだけどー」


 そのなかには、つい昨日までは里緒と会話を試みようとすらしていなかったはずの、舞香や真綾の姿すらも見当たる。

 里緒は今、人混みの真ん中でどんな顔をしているのだろう。知りたいような、知りたくないような、絡み合う複雑な感情に背中を押されて、美琴は急ぎ足でその場を立ち去った。立ち去りたくてたまらなかった。


「待って! 鍵! ここ!」


 叫びながら菊乃が追いかけてきた。






 合宿の日程も残すところ半分。劇的な出来事なんて何もなかったはずなのに、三日目を迎えた管弦楽部の空気はいつしか着実に変化を迎えていた。

 部員たちの肩からは少しずつ力が抜け始めた。もちろん(なま)けるようになったのではなくて、不必要な緊張感が消え去ったのだ。上級生に質問をしにいく下級生の顔も明るくなった。はじめといい菊乃といい、上級生の応対も以前より物腰が柔らかくなったように思う。雑談も相談もすべて引っくるめて、部内の会話の密度はわずか二日間でずいぶん上がった。まだ不完全ではあるけれども、それは誰もが矢巾の言葉を忠実に守ろうとした結果に違いなかった。

 そして個人レベルで最大の変革を遂げたのは、二十六名の部員ではなく、急きょ指揮者として応援演奏を率いることになった顧問の京士郎だった。

 初めのうちこそ、


「あー……。それじゃ、始めるぞ」


 などと言ってはせせこましく指揮棒を握り、取り囲む部員たちを不安に(おとしい)れた京士郎だったが、そこで菊乃や佳子や智秋たちが動いた。パート練習の合間や合奏の狭間に寄ってたかって京士郎のもとに押し掛け、率先して質問を繰り返したのである。


「先生。ここ譜面だとスラーで繋がれてるんですけど、もっとこう、パリッと吹いたらダメですか。その方が勇ましい響きになると思うんです」

「十三番の入り、いっつも直前の息継ぎが間に合わなくて遅れちゃうんです……。どうやったら息を長持ちさせられますか?」

「倍音がきれいに聴こえないんすよ! きちんとチューニングは済ませてんのに!」

「パーカスとテンポが上手く合わないんですが!」

主旋律(メロディ)の音圧が弱すぎる気が!」


 仮にも指揮者初心者の先生を相手に、よくもこれほど容赦なく質問を浴びせられるものだと美琴は呆れた。だが、京士郎は食らいついた。受け取った質問を的確に、丁寧に噛み砕き、きちんと順番に処理していったのだ。


「じゃ、そこは譜面よりもイメージ優先で行こう。聞き比べてみたいから、一回そこで吹いてもらえるか」

「直前のワンフレーズを吹かないで息継ぎに当てるのはどうだろう。ここはペットが気持ちよく音を放ってる場所だから、ボーンが一本減ったくらいで聞き心地に影響はないはずだ」

「スーザフォンは吹き慣れていないだろうし、いきなり倍音を多く含んだ音を飛ばすのは難しいさ。倍音練習をしてみるといい。メニューはあげるから、藤枝くんと一緒に取り組んでみてくれ」

「パーカスでタイミングを読まない方がいいかもしれないな。基本的には僕が指揮棒(タクト)で指示を出すけども、それでも分かりづらかったら一小節前のホルンのここを印にするのがいい」

「低音セクションの活躍が大きいのが響いてるな……。でも、せっかくの大音響をボリュームダウンさせるのももったいない。ちょっと急になるが、テナーサックスの二人をメロディに合流させよう。楽譜は同じ変ロ調のユーフォか何かのを転用すればいけるだろう」


 さすがは芸文出の音楽教師、まさに腐っても鯛である。何気なく指揮棒を振り回しながら、しかしその目と耳はあふれ返る無数の音を正確に捉え、是正のすべを編み出す取っ掛かりを決して見逃さない。


「こんな有能な顧問が身近にいたなら、もっと早く頼っとけばよかったなぁ」


 矢継ぎ早の質問を見事に消化され、満足げな顔で菊乃は笑った。その台詞は間違いなく、二十六人すべての部員の思いを代表していたことだろう。

 昼休みに突入する頃には、京士郎は見違えるように部員たちの尊崇の眼差しを集める存在になっていた。吹っ切れたように快い顔つきで楽譜や指揮棒を握る京士郎の姿に、美琴は里緒の背中にも通じる何かを見つけた気がした。

 むろん生徒の側も負けてはいない。昼休みの消化時間を跨いで、京士郎の出した提案を部員たちは次々に実現していった。菊乃の発案で音楽記号のひとつは消され、息継ぎ(ブレス)の時間を確保した佳子は次の入りの音量を確実に上げ、智秋と緋菜は次第に不慣れなスーザフォンで豊かな倍音を操り始めた。テナーサックスのはじめと忍は譜面差し替えにも動じることなく対応し、メロディの底上げに貢献した。

 花音に至っては、まだ音に多少のがさつきを残しながらも、ついに美琴を上回る大音量で『バトンちゃん』を吹き回すまでに成長した。応援演奏の舞台は音楽ホールではなく、屋外。大音量は何よりも絶大な価値を持つ。


「マッピじゃなくて本体でロングトーンやってたんでしょ? そりゃ肺も鍛えられるわけだ」

「えへー。頑張りました」


 菊乃に頭を撫でられ、花音はご褒美をもらったネコよろしく相好を融かしていた。「茨木せんぱいのおかげです」と言われ、美琴はいつもの(くせ)でそっぽを向いた。

 花音を成長させたのは花音自身であって、美琴ではない。先輩(こちら)のせいにしないでほしいと思う。


「素直じゃないなー美琴は」


 呆れたように菊乃が口を尖らせたが、それさえも聞き流して自分の譜面に向き直った。

 引き金(トリガー)を引いたのが昨日の矢巾だったにせよ、別の人物だったにせよ、努力の結果は努力をした者にしか与えられない。管弦楽部の面々は今や、自らの手で勝ち取った達成感を糧にして次の練習に挑むという、きれいな好循環の輪を描いている。それは美琴のせいではないし、努力者本人以外のせいではないのだ。



 そして──。

 自分だけがその好循環の輪から外れている事実に、美琴はきちんと向き合っているつもりだった。






 ずんと腹に響く低音楽器の爆音が、指揮棒の躍動の(しず)まるのに従って静寂に置き換わった。身震いがして、高鳴った胸をクラリネットから解放する。


「……うん。いいと思う。上出来じゃないかな」


 京士郎の言葉に「やったー!」「終わった!」と花音たちが騒ぎ出した。何べん繰り返しても上手くいかなかった締めの音の部分が、ようやくきれいに決まったのである。


「まだやりましょうか、合奏」


 喧騒を制しながらはじめが尋ねた。いや、と京士郎は首を振った。


「いったん休憩がてらパート練に戻したらいいと思うな。二時間も合奏が続いて、そろそろ君たちの口の方も疲れてきているだろう」


 指摘や指南は厳しくても、厳しい練習を要求することはない。吹き手の調子をほどよく(おもんばか)ってくれるあたり、京士郎にも人気者の素質があると美琴は思う。ただ座って吹いているだけに見えても、管楽器の演奏はべらぼうに体力を消耗する。引退して楽器を手放した途端に太る人が続出するほどである。


「じゃ、思いきって三十分くらい休憩入れようか」


 はじめの提案はあっという間に賛同を集めた。「あたし弦楽の人たちに伝えてきます!」と、フルートを放った菊乃が駆け足で音楽室を出てゆく。

 三十分、何をしてもいい。

 それだけあれば十分だ。

 美琴も立ち上がった。置き去りのクラリネットを不審に思ったのか、花音が上目使いに尋ねてきた。


「どこ行くんですか?」

「野暮用」


 その一言だけを答えて廊下に出た。さりげなく、隣の音楽準備室にも立ち寄って、普段使いのそれより一回り大きなクラリネットのケースをもうひとつ引っ掴んだ。

 目指したのは講堂だった。両開きの扉を開け、中に足を踏み入れると、高い天井から舞い降りてきた木の香りが鼻にまとわりついた。舞台の脇には一台のグランドピアノが鎮座している。もうじき開かれる終業式のために、早い段階で格納庫から引っ張り出されているものだ。


(ここならほどほどに音も響く)


 ぽん、と鍵盤に指を置いて、反響を重ねながら霧散してゆく甲高い()の音に、じっと耳を傾けた。

 それからおもむろにクラリネットのケースを開いて、手早く組み立てた。

 現れたのはA管だった。里緒のクラリネットと同じ音の出る、あの楽器。ひそかに〈クラリネット協奏曲〉の練習に用いていたものである。

 合宿期間中、音楽室が無人になる時間はほとんどなかったし、よその部活も講堂(ここ)を使っていたので、こうして一人で〈クラリネット協奏曲〉の練習に打ち込む時間はなかなか用意できなかった。ピアノに用があるのではない。この無人の空間をひとりで独占するために、わざわざこうして講堂までやって来たのだった。

 馬鹿馬鹿しい。

 コンクールに出られるのかどうかすら、今となっては怪しいというのに──。

 口をついた汚ならしい笑みを拭い去って、マウスピースをくわえる。吹き出した音はいくつもの壁や床を伝って、その輝かしい響きを講堂いっぱいに満たしていった。クラリネットの調子も悪くないようだった。

 馬鹿馬鹿しくたって構うものか。

 美琴が自分で自分を納得させるために、この練習は必要なのだ。

 グランドピアノの譜面台に楽譜を載せ、美琴はわずか三十分の個人練に打ち込み始めた。




 この三日間というもの、はっきり言って美琴の演奏は悲惨だった。

 試験期間でブランクが空いていたせいとすら思えないほど、音がひどかった。端的に言って汚い。響きがざらついてクリアにならないし、リードを換えてみてもいっこうに変化がない。パート練の最中、ほどほどに花音の面倒を見ながら特訓したおかげで、音質の問題はどうにかなってきたのだが、すると今度は音程が妙に跳ね上がった。もちろん合奏をしていると、音のおかしい美琴は猛烈に目立った。

 里緒でもあるまいし──。そう思いつつ、ひとり一足先に寝静まったふりをして、イヤホンでプロの演奏を聞き込みながら必死にイメージトレーニングも繰り返した。

 しかし劇的な改善が見られることのないまま、今に至っている。


 B♭管で応援の曲をやっていたからいけなかったのかもしれない。A管に持ち替え、演奏曲を〈クラリネット協奏曲〉に替えたら、あるいは改善されるかもしれない。……そんな根拠のない淡い期待は、しかし呆気なく砕けて美琴の足元に散らばった。


(……効果なし、か)


 クラリネットから口を離して、行き場のなくなった息を美琴は飲み込んだ。気持ちの悪い感覚が喉を落ちた。

 相変わらずの音ずれ。不自然な(かす)れ。強くもなく弱くもなく、まるで主張のない音量。特にクレッシェンドの二つ続くあたりが酷い。いい加減な音の運びとテンポ感、やる気が少しも感じられない。

 美琴の口と手で奏でた〈クラリネット協奏曲〉は、お世辞にも美しいと呼べるような質のものではなかった。


(やめよ。……聴きたくない、こんなの)


 せっかく組み立てたクラリネットを、美琴はピアノの上に放った。それからしばらく、ピアノに腕をもたれかけて、無気力にうつむいた。

 どうしてこんなに上手くいかないのだろう。

 どうしてこんなに、自分の紡ぐ音に納得がいかないのだろう。


(たかが一週間そこらの時間が空いたくらいで、こんなに下手くそになるなんてことがあるか)


 いらいらと熱情が高まる。ピアノに指を這わして、ひとつ、ひとつ、クラリネットではきれいに吹くことのできなかった音を鳴らした。調律の行き届いたピアノは設計通りの音を忠実に発して、体育館の壁や床に静かな響きを起こす。絶望的なほどの音のギャップに、しくしくと胸が痛みを放った。

 嘆息して、ピアノに顔を横たえた。

 ──いつか、里緒も同じように、思うままにならない自分の音に苦しんでいたっけ。


(あの子はどうやって克服してたんだったかな)


 思い出そうとして、それが無意味な努力であることに美琴はすぐに気付いた。里緒は克服するどころか、しまいには音を吹き奏でることそのものさえできなくなったのだ。今日もどこかの教室で、呼吸法から基礎をやり直している。

 音を失う恐怖というのは、美琴には分からない。残念ながら美琴には“クラリネットをこわしちゃった”経験はないから。

 でも、音を思い通りに操れない恐怖なら、恐らく美琴でも理解できるのだろう。きっと今の美琴の心境と同じなのだ。こんなに悔しくて、こんなに情けなくて、それからこんなに、苦しい。


(高松もあの頃、こんな風に苦しんでたのかな)


 同情の思いがぱちんと弾けた。美琴は顔を上げ、首を振って雑念を振り払った。

 同情の資格なんて美琴にはない。美琴はむしろ、里緒を追い詰めた側の人間なのだから。

 ──高松なんて知るか。私は、私のやるべきことを、私のペースでやるだけ!

 奮起した勢いでクラリネットの楽譜を取っ払い、代わりにピアノの楽譜を据えた。クラリネットを上手く吹けないなら、せめてピアノの方だけでも弾いてやる。一時の憂さ晴らしができるなら何でもよかった。









「何があっても私が背中を押す。きっと、約束するからっ」


▶▶▶次回 『C.128 美琴の涙【Ⅱ】』

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