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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第四楽章 蒼の涙とアイネクライネ
133/231

C.126 思い出の整理【Ⅱ】

 




 改めて居間の照明をつけ、片付けの続きに取りかかった。こんな段ボールだらけの家では、まともに誰かを呼ぶこともできやしない。せっかくの機会である。せめて人並みの家らしく、かつて住んでいた仙台の家と同等の環境に仕上げようと思い立ったのだった。

 こんな夜中に干したって意味がないだろうとは考えつつ、里緒や自分の使っていた布団を抱えてベランダに出た。耳をすますと、団地の目の前を流れる多摩川の水音が耳介をくすぐる。モノレールの走行音が、高い周波数を刻んで川辺に鳴り響いている。昼間はセミの合唱に妨げられて聴こえない、大小さまざまな音の営みに、そっと心を傾けながら布団を干した。

 この布団も、仙台から持ってきたもの。

 瑠璃と過ごした三人家族の思い出が、目には見えない大きさで綿の奥まで染み込んでいる。

 東京に引っ越してきた段階で新たに調達したのは一部の家電くらいのもので、あとのものはすべて仙台からの持ち込み品だった。手に取って、組み立てた棚や家具に納めるたび、回顧の念が大祐の身体を内側から温めていった。

 今の今まで段ボールの片付けに手をつけられずにいたのは、こんな具合に物思いに沈むのが怖かったからだった。


(瑠璃がこんな家を見たら怒るだろうにな)


 空になった段ボールを積み上げながら、薄っぺらな笑いで心を満たした。

 怒ったといってもせいぜい、不満げな顔をして黙り込む程度のことだっただろう。瑠璃は徹底的なまでに穏健派の人間だった。言い争いはしたくないといって喧嘩さえ嫌がったし、ありとあらゆる議論や紛糾からは自発的に距離を取ろうとしていた。出会った時からそうだった。真剣な喧嘩を交わしたのはたった一度、いじめられて(ふさ)ぎ込んでいた里緒のことで口論になった時だけという徹底っぷりだ。

 瑠璃は恐らく、己の弱さをよく理解していたのだろう。自分の主張を通したり、相手を打ち負かすような真似など、気の弱い瑠璃にはとても叶わない。だからこそ、過剰なまでに他人とのすれ違いを畏怖し、敬遠し、穏やかな関係を築けるように努力をしていたのだと思う。

 仙台に引っ越して以来、瑠璃は積極的に近所付き合いに繰り出して信頼関係を作ろうとしていた。それもきっと、同じ動機から来る行動だったはずだ。


(町会の仕事は片っ端から引き受けるわ、集まりには顔を出すわ……。少しでも早く馴染まなきゃって、口癖みたいに言ってたんだよな)


 その結果がこれだなんて皮肉な話である。舌の裏に溜まった苦味の深いつばを飲み込んで、大祐は首を振った。振り落とされた記憶のかけらが床に散らばった。

 結局、一年以上にわたる瑠璃の努力はすべて無為になった。大祐は会社で、里緒は学校でそれぞれトラブルを抱え、ママ友いじめに()った瑠璃に至っては自らの命を(しぼ)り落とした。理由も書き遺してくれなかった。遺書そのものはしっかり遺しているあたり、衝動的に企てた自殺だったわけではないのだろうけれど、おかげでかえって死を選んだ理由が分からなくなった。自分をいじめたママ友たちへの抗議か、それとも将来への悲観か。大祐には、そのどちらも瑠璃にはそぐわないように感じられたのだ。

 大祐の知っている瑠璃は他人を恨むような人でも、哀れな娘を放り出すような人でもなかった。


(なんでだよ、どうして死んだんだよ……って、あの頃は毎日のように尋ねてたっけ)


 とうとう最後のひとつになった段ボールを開封しつつ、遠くなる一方の昔日に思いを馳せる。それは決して心地のいい所作ではなくて、息苦しさを覚えた大祐は二度、三度と深呼吸をした。ふわりと段ボールから浮き上がった仙台の匂いが鼻腔を満たして、咳き込んだ。

 段ボールの中身は思い出の品だった。ふたを開けて中を覗き込むと、瑠璃の使っていた楽譜や里緒愛用のおもちゃ、ぬいぐるみ、アルバムなんかがぎっしりと詰まっていた。


「…………」


 大祐はとっさに、ふたを閉じるべきか迷った。

 自分ひとりでは上手く向き合える自信が持てない。里緒と二人で整理すべきではないか──。苦しい思いをしている娘の手を図々しく借りようとする自分を、つくづく虫のいい大人だと思った。

 決めた。

 今は整理しないことにして、隣室にでも置いておこう。

 決断が下れば指先にも力が入る。よっ、と声を出して段ボールを掴んだ大祐だったが、そこに入っていたもののひとつに気を取られて、また元の場所に置き直してしまった。

 そうして、見つけたものに手を伸ばした。

 手探りで拾い上げたのは、額に入った一枚の写真だった。左から順に瑠璃、里緒、大祐。むかし里緒の通っていた豊島区の小学校のものだろうか、古びた石造りの校門の前に三人仲良く並んで、思い思いの姿で写り込んでいる。


(東京を離れる時に撮ったやつか)


 大祐は目を細めた。ひとりで立ちながらも瑠璃の手を一生懸命に握る、まだあどけない小学六年生の里緒。そして、その両脇を固めて立つ、大祐と瑠璃。

 三人とも笑顔で写っている。

 今の大祐には浮かべることのできない、太陽のような輝きを放つ(まぶ)しい笑顔が、刻み付けられた時のまま凍りついて止まっている。

 そのまま口を結んで、細めた目でしばらく写真を見つめた。二年後に壮絶な運命が待ち受けているだなんて知りもしない、まだ幸せの絶頂期にあった頃の、自分。瑠璃。里緒。そういえばこんな顔をしていたものだった。

 あの頃に戻りたい。

 強く、そう思った。

 幸せだった頃の自分に戻りたい。当たり前に瑠璃を愛して、里緒を愛して、愛されていた頃の自分に戻りたい。

 瑠璃が命を絶って、すでに一年半もの歳月が経とうとしている。それこそ里緒の言う通り、どう足掻(あが)いたところで瑠璃は二度と息を吹き返すことはないのだけれど、それでもやっぱり戻りたいと願ってしまう。この心が隅々まで幸福に満たされていた瞬間があったのを、まだ、覚えているから。忘れられないから。

 額入りの写真を抱えたまま、大祐はしばらくその場に立ち尽くした。

 身動(みじろ)ぎの弾みで思い出が消えてしまわないように、今は一分でも長く、浸っていたいと思った。




 ……愛した人を失った。

 苦しむ姿は目の前にあったのに、助けようと伸ばした手は届かなかった。

 いくら煙草を吸っても、家から遠ざかっても、瑠璃を失った痛みは決して拭えない。そうと分かっていながら、大祐は正面切って向き合うのを恐れて逃げ回った。溺れるように煙草を吸ったし、里緒や自宅を徹底的に遠ざけた。そのうち、気付けば自分たちの過去は明るみに出て、日本中の人々の記憶に刻まれてしまった。なのに、仕事は忙しい。取材も忙しない。訴え出るための準備にも追われて、満足に悲しむだけの時間も取れなかった。

 長い、長い、狂おしいほどに冗長な苦痛の一年だった。




(なぁ、瑠璃)


 目を閉じて、空を見上げた。

 瑠璃の魂はいま、どこの空を漂っているのだろう。こうして無様に地上を這う大祐には、闇雲に空を見上げ、声の届いていることを祈るよりほかに手段はない。


(そっちは楽しいか。幸せか。……もう、誰かに苦しめられたり痛め付けられるなんてこと、ないんだよな)


 あるはずがないと分かっていながらも、こうして確認してみたくなるのが大祐の弱さだった。そんなことがあるはずがない。だって、瑠璃の行き先があるとしたら、それは間違いなく天国だから。地獄に堕ちるはずがないのである。

 すべての苦痛から解放された世界で、瑠璃は今もきっと微笑んでいる。胸を張って幸せと言えた、いつかの頃のように。

 川の音が静かに聞こえている。

 膝に写真を置いて、なぁ、と尋ねた。漏れた笑みは紛れもなく自嘲だった。


(生き延びたのが俺じゃなくて瑠璃だったら、里緒はもっと幸せに生きられたのかな。……彼岸(そっち)へ行くべきだったのは、俺の方だったのかな)


 それは、生きている間は決して尋ねてはならないことだと思って、今日までずっと心の奥底に溜め込んできた疑問だった。

 口にした瞬間、里緒がロープの輪を作った理由のすべてをたちまち理解して、大祐の背筋には凍るような感覚が走った。


 ああ、そうだ。

 きっと里緒も同じ思いを抱いたのだ。

 生きていても苦しいことばかりなら、生きるだけで誰かを苦しめてしまうなら、いっそ命を落としてしまいたいと。せめて命とともに負の因果を絶ち、苦痛を逃れ、あの世で瑠璃に謝りたいと。


 耐えきれなくなって(こうべ)を垂れた。目尻を流れ落ちた滴が宙に弾け、虚空に消え去るのを、大祐はじっと黙って待ち続けた。やりきれない思いが激しく目の奥で(またた)き、鎖で縛り付けられたかのように胸が(きし)んだ。痛んだ。




 大それた幸せを手に入れたかったわけではない。

 ただ、失われた欠片を取り戻して、あるいは埋め合わせて、それで元のような幸せに浸ることができたら、たったそれだけで十分だったのだ。

 真っ当に人を信じ、人を愛し、明るい未来を夢見ることのできた昔の自分に、どうにかして戻りたかった。

 そして大祐はどこかで気付いていたはずだった。瑠璃の亡き今、どんなに足掻こうとも、()()()()()()()が戻ってくることはないことに。いつか泥沼の底から立ち上がり、遺された里緒とともに前を向いて、手を取り合って、二人三脚で生きていくしかないことに。

 いまや、里緒は大祐にとって世界でたったひとりの、幸せの(いしずえ)になるべき家族なのだということに。


 しばらく涙の流れるままに任せて、じっと身をすくめていた。やがて、部屋の片隅に息を潜めていた静寂がふたたびマントをいっぱいに広げ、大祐はひとりぼっちの部屋の真ん中に取り残された。

 里緒は今ごろ、どうしているだろう。

 もう『死にたい』なんて激情に駆られることもなく、仲間に囲まれて楽しく合宿の夜を過ごしているだろうか。

 どうかそうであってほしい。傷付けるばかりで何もしてやれなかった、どうしようもなく無力だった自分だからこそ、里緒の幸せを精一杯に願う義務があると思う。そうでないと正気を保っていられなかった。


(里緒)


 名前を呼んで、大祐は唇を噛んだ。


(俺は……父さんは、何をしたらいい。何をしたら、里緒の背中を支えてやれる?)


 世界は沈黙している。換気扇から風の音が漏れることも、扉が叩かれることも、家電が不機嫌そうに作動音を唸らせることもない。ただ、穏やかな川の水音だけが、白々しい蛍光色の光に包まれた部屋の中に淡々と響いていた。

 自分で考えろ、ってことか──。

 当たり前の結論がなんだか可笑しくて、馬鹿らしくて、口の端から笑みがこぼれ落ちる。その行方を追った大祐の視界を、ふと、一抱えもある真っ黒な直方体の箱がよぎった。何気なく目に留まったそれを、大祐はぼんやりと、しかし揺るぎのない視線で見つめた。




 ──そこには、瑠璃が遺していったもうひとつの宝物が、真っ黒な影を背にしてぽつんと転がっていた。











「高松もあの頃、こんな風に苦しんでたのかな」


▶▶▶次回 『C.127 美琴の涙【Ⅰ】』

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