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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第四楽章 蒼の涙とアイネクライネ
132/231

C.125 思い出の整理【Ⅰ】

 




 立川駅は混んでいた。

 昼間は買物客や行楽客、夜は通勤客でごった返す場所なので、この駅から人波の途絶える時間帯など皆無に等しい。それでもやっぱり混雑は好きにはなれないし、慣れもしなかった。中央線(これ)に比べりゃ、仙台の電車は空いてたな──。階段を上りながらホームを見下ろすたび、大祐はいつも、線路の彼方に遠くなりゆく日々のことを懐かしく思った。


 ──『身体の方も元気そうですよ』


 耳に当てたスマホの向こうで女性がしゃべった。


 ──『精神的にも安定を取り戻してきていると思います。合宿に行く準備もあって、うちの花音と一緒にばたばたしてましたが、合間を縫ってきちんと勉強もされてたようです』

「……そうですか」


 カバンからICカードを引っ張り出しつつ、無意識に選んだ言葉で応じた。

 電話の相手は青柳千明だった。『ええ』と応じる声の色はずいぶん柔らかで、たったそれだけの事実が大祐の心を柔らかな場所に落ち着ける。以前みたく電話口で説教されたのでは敵わない。


 ──『うちの子からの連絡を見る限り、合宿の方でも楽しく過ごされてるみたいですし。まだ予断は許さないにせよ、それなりに回復の経過をたどってるのではないかと思います。勉強にしても何にしても頑張りすぎちゃうところのあるお子さんだと思いますから、そのあたりは心配ではあるんですけど』

「そうだといいんですが……。あの、今日こうしてお電話差し上げたのは」

 ──『いつ里緒さんを家にお戻しするか、ということですよね』


 さすがの洞察力だ。大祐は「ええ……」と口ごもった。

 そこが里緒にとってどんなに居心地のいい場所だとしても、いつまでも青柳家の厚意に甘えるわけにはいかない。それに、いつかは里緒ともきちんと向き合って、今までのこと、これからのこと、話し合わねばならなくなる。そのためにはせめて里緒の帰還のタイミングだけでも図っておこうと思って、こうして電話をかけたのだった。


 ──『私個人としては、今の段階でも問題ないとは思うんです』


 千明はきっぱりと言い切ってから、ただ、と声量を落とした。


 ──『そのあたりのことは里緒さんご本人とも相談した方がいいと思いますし、何より、お父様の用意の方ができていないと厳しいと思います』

「私の側の、ですか」

 ──『今の里緒さんは脆いので、逃げ込んで頼ることのできる存在がまだまだ必要です。そのためにはお父様がきちんとお宅にいらして、里緒さんのことをいつでも助けてあげられる体勢がないといけないと思うんです』


 もっともな見解である。改札口を通り抜けて自由通路に足を踏み入れながら、つい、心の声が口をついて出た。


「助けてあげられる体勢か……」

 ──『それができるのはお父様だけですから』


 千明が畳み掛けてきた。

 家に帰らないのは単に帰りたくないからであって、その気になれば毎日だって自宅で夜を過ごすことはできる。必要なのは生活習慣の変更ではなくて、自分自身の意識改革なのだ。口で言うほど簡単なことじゃないだろうがな──。なんて、辛気臭い嘆息で口腔が濁った。

 里緒が高松家に戻ってくるまでの間に、少しでも“家に帰る”ことに慣れておくしかなさそうだ。


「本当、すみません。いつもいつも里緒を預かっていただくのみならず、色々と助言までもいただいてしまって」


 足が南口に向いたのを確認しながら、謝った。千明は朗らかな声色で言葉を返してきた。


 ──『とんでもないですよ。私たちはただ、里緒さんに笑顔でいてほしいだけです』

「そんな……。せめて今度、改めてお礼をさせてください。かかった諸費用に関しても、お分かりになる限りは負担します」

 ──『いえいえ、お礼なんてなさらないでください。受け取れませんよ』


 なぜだ。負担を強いた者として当たり前の義務だろうに。大祐は狼狽を深めたが、千明は頑として大祐の申し入れを聞き入れてはくれなかった。


『前にも一度、こうやって他所(よそ)の子供を預かったことがありますから』──といって。






 モノレールの駅で紬と遭遇して以来、自宅に踏み込むのは半月ぶりのことだった。

 鍵を回して、ドアを開けた。窓の外はすでに日が落ち、照明もついていないので、ドアの先には鬱蒼(うっそう)とした闇が広がっている。スマホの画面をかざして仮の灯りにしながら、どうにか靴を脱いでフローリングの床に上がった。

 長いこと無人だったせいか、つんと薄い酸の香りが鼻をついた。なぜか都市ガスの香りも漂っている。おまけに、蒸し暑い。何日もの間、里緒はこんなひどいところで暮らしていたのか。キッチンにたどり着いて換気扇を回しながら、環境の悪さに閉口した。ともかく照明をつけようと思って、探り当てたキッチンの電気を(とも)した。

 すると、仄暗(ほのぐら)い光の輪の先に、居間の景色がぼうと浮かび上がった。

 視界に映るのは、相も変わらず放置されたままの段ボール。衣類。無造作に散らばるハンガーや教科書、筆記用具、本。そして──。


「……これ」


 (うめ)いた大祐は、クラリネットのパーツを拾い上げた。

 (ベル)の部分だった。見ると、取り落とされたように転がったケースの脇で、散らばったパーツがあちらこちらに影を描いていた。俵管(バレル)、マウスピース、上管、下管、留め金(リガチャー)

 日頃あんなに肌身離さず大事にしていたはずの里緒が、自分のクラリネットにこんな仕打ちをするはずはない。何かしらの異変が起きたのを敏感に察知した大祐は、ともかく踏んで壊すことのないようにと、部品を集めにかかった。

 拾ってケースに戻しつつ、一応、傷や損傷がないかも確認していった。落下の衝撃でキイが歪んだりしていることはないようだった。クラリネットのキイは細くて曲がりやすいので衝撃に弱い。ひとたび変形してしまった(あかつき)には、業者に依頼をして修繕を施さなければならなくなる。こう見えてもデリケートな精密機械なのである。

 大祐とて十年以上の間、クラリネット奏者だった瑠璃と連れ添ってきた過去がある。クラリネットを吹いたことは一度もないけれど、この楽器のことなら里緒以上に知っているつもりだった。


(里緒が小学生の頃なんか、よくこうやって後片付けを手伝ってたっけな……。里緒ひとりじゃ管体を分解することもできなくて、瑠璃や俺が一緒にやってたんだ)


 懐かしい思いが胸を掠めた。ふふ──。思わず漏れたささやかな笑みは、拾おうと手を伸ばしたリードケースの先に転がっているものを目の当たりにした瞬間、根こそぎ口元から消し飛んだ。


 そこに落ちていたのは、輪を作るようにして結ばれた、一本のロープだった。


 ──まさか、これは。

 青ざめながらロープを掴んで、手繰(たぐ)り寄せた。どう見ても絞首用としか思えないその形状に、たちまち粟立(あわだ)った大粒の鳥肌が大祐の身体をくまなく(おお)い尽くした。

 前に家へ戻ってきたとき、こんなものはなかったはずだ。

 里緒が作ったとしか考えられない。


「里緒、お前」


 乾いた声が大祐の口にあぶくを立てた。


「……死のうとしてたのか」


 それもよりによって、母親と同じ死に方で。

 こうして天井にもくくりつけられないまま放置されているところをみると、里緒は輪っかを作ったのみで実行に移そうとはしなかったらしい。だが、輪が用意されているというだけでも、大祐の心に動揺をもたらすには十分すぎた。大祐だって瑠璃の首吊りに衝撃を受けた人間なのである。

 いったい何が里緒を押し止めたのだろう。

 ……いや、それ以前に。


(そこまで思い詰めていたなんて)


 ロープを手に、うつむいた。クラリネットのパーツが散らばったまま放置されていたのが、今となっては偶然の一致には思えなかった。

 肩を撫でて鳥肌を落ち着かせてから、ぐしゃぐしゃにロープを丸めて、ゴミ袋に放り込んだ。こんなものを残したまま里緒を迎えるわけにはいかない。よく見ると、ロープの周りには他にもカッターナイフや包丁、長いマフラータオルなんかが、示唆的な配置で転がっている。大祐はそれらを片っ端から撤去していった。


(俺のせいか)


 掴みながら、問いかけた。


(あの日、俺が怒りに任せて喚いたりしなかったら。ホテルから出ないように言ったりしなかったら……。こんな気を起こすこともなかったのか)


 そうだとしたら、大祐は危うく里緒のことを間接的に殺してしまうところだったことになる。

 今、こうして大祐がのうのうと生きていられるのは、里緒が自殺を思い止まってくれたから。たくさんの人の庇護を受けながら、今もどこかで生きていてくれているからなのだ。そうでなければ、大祐は自分を永遠に許せなくなっていたに違いない。

 見当たる限りの不審物を片付けて、立ち上がった。キッチンから届く照明の光が、たちまち居間いっぱいに大祐の影を紡いだ。輪郭のおぼろなその影に、青い色をした冷たい感情が少しずつ満ちてゆくのを、立ち尽くしながら大祐は見つめていた。

 瑠璃の気持ちの変化にも気付けなかったばかりか、こうして里緒の変化までも見落とした。こんな体たらくの親が、果たして本当に里緒のことを再び受け入れてもいいものか、分からない。

 黙っているとちっとも笑えなくて、顔を上げた。

 いつまでもうつむいていると、いつか何かの堰が切れてしまいそうだったから。







「……俺も、そっちへ行ったらよかったのかな」


▶▶▶次回 『C.126 思い出の整理【Ⅱ】』

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