C.123 愛の込め方
「高松さんの分、終わりましたよ」
答案用紙をつまんで職員室に戻ってきた富田林が、京士郎の姿を見つけて声を放った。
京士郎は頭と眉をいっぺんに下げた。
「本当、ありがとうございました。急だったのに引き受けてもらって」
「ちょうどいい暇潰しになりましたから」
清々しく富田林は笑う。さすがはスピード採点の男、自分の受け持つ保健体育のテストはすでに全員分の採点を終えているそうで、本人としては暇を持て余しているところだったらしい。
京士郎は手元の表に目を戻して、【保健】の文字にチェックマークを重ねた。これで十二科目中、八科目が終了した。残る追試は数学Aと生物基礎、コミュニケーション英語Ⅰ、それから家庭科基礎。
(数A以外の三科目は受け持ちの先生が監督をやってくれるみたいだし、僕の出番は残りひとつか)
これでやっと、あの退屈な試験監督業から解放される──。用の済んだ鉛筆を机上に放って、凝った肩を小さく回した。放り出された鉛筆はなめらかに机を転がり、こつん、と時計に当たって止まった。急かされるように動いた時計の針が、午後の三時十分を示した。
そろそろ、上に戻ろうか。
指導書や楽譜の束をまとめて立ち上がると、富田林が尋ねてきた。
「あれ、外出です?」
首を振って、京士郎は上の階に目をやった。無数の楽器の奏でる猥雑な練習音が、音楽室のフロアから廊下や階段を伝って職員室まで落ちてきている。「ああ」と富田林はうなずいた。
「そういえば校内合宿中でしたね」
「来られる限り来てほしいと言われてまして。……ま、いたところで、特に何かをするわけではないんですけど」
富田林は意外そうに首を傾げる。
「須磨先生は熱心な指導をしたがるタイプの方なのかと思ってました」
歯に衣を着せる気のない発言に、京士郎の身体は一瞬、強張った。しかし無理もない。普段の授業態度からして、事情を知らない人の目には、京士郎は積極的に部活とも関わりたがっている人物に映るだろう。
一昔前までは、それが事実だったのだ。
「……今日は外部の方にも来ていただいてるので」
嘘とも言い切れない嘘をついて、職員室を逃げ出した。
ここのところ、まるで話題もろとも忘れ去ったかのように『仙台母子いじめ自殺事件』の報道を取り止めていた日産新報が、昨日になって社会面に大きな記事を展開した。妻を亡くした遺族男性への取材を行い、今の心境や学校・地域に対する不信感を余すところなく書ききった長文の記事は、発売されるやネット上で騒ぎを引き起こし、『ついに遺族が動いた』と世間を驚かせた。
問題の中学校や市の教育委員会は、依然として頑なに『解決済み』の姿勢を譲ろうとはしていない。だが、ゆくゆくは被害者遺族側から訴訟の提起がなされる可能性も大きいし、そうなったらさすがの仙台市も黙っているわけにはいかなくなる。そのうち第三者委員会が設置され、本格的な外部調査が始まるだろう──。そう論評する専門家も現れていた。
(明日あたり、高松くんの追試がすべて終わった段階で、あの子の父親にも連絡を取ってみないとな)
音楽室の片隅に置いた椅子に腰かけ、はじめの指揮のもとで音を合わせる部員たちを前にしながら、ふと、京士郎は窓の外へ目をやった。突如として重たく響いた吹奏楽の爆音に、飛び上がった二羽のすずめが慌てふためきながら空を舞っていた。
里緒同様、大祐も長いこと音信不通の状態が続いていたので、これまで学校として大祐と相談の場を持てたことは一度もなかった。里緒の心のケアのこと、欠席していた間の扱いや追試に関すること、部活のことなど、大祐と話し合っておくべき話題は山のようにある。
もちろん、向き合うべきなのは大祐だけではなくて、里緒も同じ。
四日間の合宿の間に、どこかでゆっくり時間を取って話をする機会を作れたらいいのだが。
小一時間にわたる合奏の練習が終わった。ぐったりと椅子にもたれる部員たちに向かって、十分後の練習再開をはじめが通告する。「鬼畜です!」「もっと遅くしましょうよぅ……」などと文句が飛び交ったが、意に介する様子もなく部長は京士郎のいる出入り口の方へと向かってきた。トイレに行くつもりらしい。
呼び止めて、尋ねた。
「高松くんはどこで練習してるんだ?」
「昨日と同じ講堂だと思います。今日も長浜が練習に付き添ってます」
「呼吸法からやり直してるって話だったか」
「そうです」
そうか、と京士郎は呻いた。別の場所に隔離されているということは、まだクラリネットを吹ける段階までには戻ってきていないということ。知っていたとはいえ快い話ではない。
「腹式呼吸もアンブシュアも上出来だと長浜からは聞いてますし、吹く能力はあるはずなんですけどね。多分、まだ、あの子の中の何かが引っ掛かったままになっているんだと思います」
楽譜を丸めながらつぶやいたはじめは、そうだ、と声色を切り替えた。
「須磨先生、指揮はおやりになりますか」
「指揮?」
どうして突然そんなことを。京士郎はとっさに手元にあった指揮者の指南本を隠した。
「指揮棒じゃなくてテナーサックスを吹いた方がいいと矢巾先生に言われたんです。その方が低音の底上げもできるし、深みも増してかっこよくなるからといって」
「それで僕が指揮者を代わるってことか」
「須磨先生は指揮もできるはずだ、と」
いくらなんでも無茶だ。ここ数年、指揮の勉強だってサボっているところなのに──。京士郎は抗議の眼差しで矢巾を睨んだが、当の矢巾は一年生の部員たちとお菓子を囲みながら和やかに笑っている最中ときている。なまじ生徒受けがいいだけに、憎たらしくても文句も言えない。
よろしいですか、とはじめが問う。無下にするわけにもいかず、しぶしぶ京士郎はうなずいた。
「仕方ない……。ただ知ってると思うが、僕はピアノ科の出身であって指揮は専門外なんだ。そこは分かっていてくれ」
「助かります。ありがとうございます」
釘を刺されても、はじめはにこやかに口元を緩める。その言葉が心からのものであることを祈って、京士郎も嘆息した。
「……で、いつから指揮に入ったらいい?」
「明日からお願いします」
「明日から!?」
派手に裏返った声を、京士郎は慌てて咳払いで元に戻した。無茶どころの騒ぎではない。まともに生徒たちの特性も理解していないのに、明日から!
矢巾はいちいち簡単に言ってくれる。だが、生徒を心から信頼するために越えるべきハードルは、やっぱり京士郎にはひどく高いものに感じられるのだ。
矢巾は結局、午後練習終了時刻の六時を迎えるまで弦国に居残り続けた。部員たちの受けはすこぶる良く、休憩の時間に入るたびに彼女はあちらこちらのパートに引っ張りだこになっていた。どんな言動を繰り広げたらあれほど生徒に好かれるのか、京士郎にはさっぱり見当がつかない。それこそ“信頼”の問題なのかと思いながら、何か秘訣でもないものかと彼女の背中を抉るように眺めてしまった。
明日からの指揮に備えるべく本を読みあさり、部員たちの様子や調子を見て回り、そのついでに矢巾を観察して……。それを繰り返していたら、気付けば窓の向こうにオレンジ色の空が広がっていた。
「こっちは終わった?」
音楽室の扉を開けた香織が、ちょうど指揮棒を振り下ろしたばかりのはじめに尋ねた。その後ろには里緒の小さな肩も覗いている。二人の合流を合図と決めていたのか、はじめは練習の終わりを宣言した。楽器を置いた部員たちの間から、思い思いのタイミングでため息が漏れ聞こえた。
「ほら、滝川も。今日はもうおしまい」
急かすはじめの言葉に、矢巾と向かい合って座っていた菊乃が「もうちょっと! もうちょっとなんです!」と叫んだ。新たにテナーサックスが一本追加されるというので、矢巾のアドバイスをもらいながら楽譜を修正しているところだったのだ。
菊乃より先に矢巾が立ち上がった。あっ、と菊乃が哀しげな声を上げたが、彼女は穏やかに口角を持ち上げてささやいた。
「携帯の番号、教えてあげるから。あとで続きをやりましょう」
「はい……!」
菊乃は一転して嬉しそうに頬を染めた。今、またしても一人の生徒が矢巾の魔法の虜になったのを、京士郎は無言のうちに悟った。
全部員が音楽室に揃った。前に出てきた部長と副部長が、今後の日程や連絡事項の確認を済ませる。何かあるかと問われ、京士郎は首を横に振った。上福岡は次に矢巾へ話を振り向けた。
「そうね」
矢巾はうなずいて、前に出てきた。
「ちょっとばかり時間をもらおうかしら」
さすがの貫禄、さすがの風格というべきか。指揮をするわけでもないのに、並ぶ席の中心に立った矢巾の身体はあまりに大きくて、思わず息を呑んだ。彼女に認められたい、頼りたいと願う生徒たちの気持ちが分かった気がして、京士郎も部員にならって固唾を飲んだ。
矢巾は苦笑した。
「そんなに改まらないの。疲れちゃうでしょう。ほらみんな、肩の力を抜いて、自然に息をして……」
「腹式呼吸っすね」
智秋がつぶやいた。数人、巻き込まれた子が噴き出して、少し音楽室の空気が和らぐ。矢巾はその様子を穏やかな眼差しで見つめていた。
それから、言った。
「そうね、腹式呼吸。できれば休憩に入る時に毎回やってほしいくらい」
腹式呼吸の苦手な一年生たちが顔を引きつらせた。「違うわ」と矢巾は言葉を繋いだ。
「別に腹式呼吸じゃなくてもいいのよ。肩の力を抜いて休めるなら、何をやったっていい。……私はね、この部の空気にしても、その口や手で奏でる音楽にしても、まだまだ固いなって思う。きっちりきれいな音を出そうって気持ちが伝わってくる。休憩中も練習中も、もっと力を抜いて、気楽に楽器を構えていてほしいのよね」
反論の声は上がらなかった。ただ愚直に、まっすぐに集まってくる五十個の視線を、矢巾は包容力の大きな笑顔で受け止める。
「野球の応援でいちばん大事なのは、きれいな音を届けることじゃない。味方や応援仲間に力強く音を届けて、彼らの心と身体を奮い起たせること。美しく完成されている曲である必要なんてないのよ。『自分たちだって野球の試合を楽しんでるんだ!』くらいの気概でいた方が、野球部の子たちにも応援の意思が伝わりやすくなると思うの」
「……まだ、固いですか」
菊乃が尋ねた。矢巾はうなずいた。
「いろんな意味でね。今日一日でずいぶん改善されたけど、やっぱりどことなく空気もぎくしゃくしている気がする。多分みんな、『上手く演奏する』っていう意識が先行しすぎてるんじゃないかしら」
ピンポイントの指摘を食らい、部員たちは互いの顔を気まずそうに見回している。矢巾はそっと、両手を組んだ。
「かの天才作曲家モーツァルトはこんな言葉を遺しているわ。『高尚な知性や想像力、あるいはその両方があっても、天才の形成に至りはしない。愛、愛、愛。それこそが天才の神髄である』」
愛、と誰かが反芻した。そうよ、愛──。矢巾は畳み掛けた。
「ここでいう“愛”っていうのは恋愛じゃなくて、音楽に対する情熱のことなんじゃないかって言われてるの。楽譜に描かれた情緒を理解して、心を込めて表現する。それには演奏者の情熱が不可欠で、いくら演奏技術や想像力があっても情熱がなければ理想の音楽は追求できない。逆に、『この曲を奏でたい!』っていう心を持ち合わせていれば、どんなに下手くそな演奏でもどこか魅力的に映るものよ。失敗を恐れて生真面目な堅苦しい演奏になっちゃうより、みんなにはそういう“情熱”、持っていてほしいのよね」
「どうやったらいいですか」
「簡単よ。音楽のこと、楽器のこと、それから一緒に奏でる仲間のこと、大好きでいればいいの」
言葉に出すとずいぶん簡単に響くアドバイスだった。問い返した菊乃が当惑気味に目を白黒させたが、矢巾の言わんとしたところを京士郎はすぐに理解した。
一緒に奏でる仲間のことを大好きになる。信頼して、同じ楽しみを共有する。単純明快な真理のようでいて、それが一番、難しい。かつての京士郎がそうだったように。
「音楽の基本は『音を楽しむ』こと。仲間と一緒に音を楽しみたいと願う気持ちは、そのまま日々の練習や本番の演奏への“情熱”に変わって、きっと演奏をすてきなものにしてくれるはずよ。日々、いろんなことが起きて、気持ちが参っちゃうことだってあるでしょう。それでもどうか音楽と楽器と、それから演奏仲間のこと、嫌いにならないで。めいっぱい愛してあげて。そうすれば、応援演奏だろうとコンクールだろうと演奏会だろうと、怖いものなんて何もなくなる」
矢巾は微笑んだ。
「あなたたちの込めた“愛”は、きっと誰の心にも伝わるわ」
「人生ゲームで気遣いなんかさせないよ」
▶▶▶次回 『C.124 ゲーム大会』