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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第一楽章 春への憧れ、明日への焦がれ
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C.012 変わった楽器

 





 演奏を終え、里緒はそっとマウスピースから口を外した。


「ふう」


 慣れていてもリード越しの呼吸は苦しい。吐息を漏らすと、クラリネットを支える指の力も緩む。首にかかる重さがぐいと増して、「いたた」と声がこぼれた。

 それから改めてもう一度、今度は疲れを吐き出すために息をした。

 童謡の作詞において有名であった作詞家の茶木(ちゃき)(しげる)が、NHKの依頼を受けて一九五〇年に完成させたのが、〈めだかの学校〉である。“(うら)らかな陽気をまとった春の小川を泳ぐめだかたちは、まるで学校でお遊戯をしている子供たち”。童話の世界のような可愛らしい歌詞には、作曲家の中田(なかだ)喜直(よしなお)によって明るいメジャーコードのメロディが(あて)がわれ、今日でも春を象徴する童謡として親しまれている。

 でも、クラリネットを手にした里緒に多摩川のせせらぎが(ささや)いたその曲は、心なしか少し──ほんの少しだけ、里緒の心の髄に(とが)った小石を突き立てて、削り取っていった。

 里緒が演奏を終えても、きらきらと輝く水面の様子は変わらない。里緒にとって今の“聴衆”は、あの雄大な多摩川だけである。


(しばらく忙しくて吹いてなかったし、やっぱりコツを忘れてる部分があるな。早く感覚を取り戻さなくちゃ)


 口元から耳に届いた音を思い返して、無言のうちに反省を済ませた。それから首から外して膝に置いた管体を、手のひらで優しく撫でた。夕陽の輻射熱に温められた木製のクラリネットは、こうやって触れると柔らかな温もりを肌越しに与えてくれる。ずっと前から知っている、里緒だけの秘密だった。

 また、かつての頃のように、このクラリネットと過ごす日々がやって来る。


(……明日も、よろしくね)


 思いを込めて、クラリネットに向かって笑いかけてみた。


(祈っててね。私も“めだかの学校”に入れるように)


 クラリネットはうんともすんとも返事をしなかった。それで構わなかった。

 里緒はそれからもしばらく、土手に腰かけてクラリネットを抱いたまま、都心に向かって流れ下ってゆく川面をじっと眺め続けていた。時間の経過を気にすることなく、こうして流れゆく世界に身を委ねるのが、里緒は好きだった。





 ◆





「すごーい! これが里緒ちゃんのものなんだぁ」


 教室に着いて早々、急かされて箱を開いてみせると、花音はいたく感激したようにしげしげとクラリネットのパーツを眺め始めた。


「なんかあれだね、カッコいいね! ねぇ、里緒ちゃんの名前とか彫ってないの?」

「……う、うん」


 花音の声は本当に目立つ。周囲の視線が否応なしに集まるのを気にしながら、里緒は小さく首を振った。名前を彫ろうとしたことはない。仮に彫ってあったとしたって、それは前の持ち主である瑠璃の名前のはずである。


「へー、これAクラ? 珍しいなぁ」


 花音の隣から興味深そうに覗き込んで来たクラスメートが、ふと、首を傾げた。


「これってどこのメーカーのやつ? 金色のキイなんて見たことないよ。おまけになんか変なキイまで付いてるしさ」


 キイというのは、クラリネットの管体を這うように巡らされた金属部品の呼び名である。広範な音域を実現するために多数の音孔(トーンホール)を持つクラリネットでは、指でトーンホールをじかに(ふさ)ぐのが難しく、代わりにキイを用いることで確実に音程を変えられるようになっているのだ。里緒のクラリネットではドイツのフルート奏者、テオバルト・ベームによって開発された『ベーム式』と呼ばれるキイシステムが採用されている。

 しかしメーカーなんて聞いたこともない──。かつての吹奏楽部でも銀色のキイしか見かけなかったのを思いながら、里緒は小さな声でやっと答えた。


「わ、分からないです……。メーカーとか気にしたことなくて」


 花音以外の人を相手にすると、まだ必要以上に緊張してしまう。クラスメートは目を丸くした。


「え、そうなの? 買う時に比べてみたりしない?」

「でも、もらい物だから……」

「もらい物だとしたって説明くらいされててもいいと思うけどなぁ」

「大丈夫だよー! 私もメーカーひとつも知らないし!」


 小さくなる一方の里緒を見かねたのか花音が強引に横入りしてきたが、花音が知らないのは当たり前である。その隣からケースを覗き込んだ別の子が、これも不思議そうに眉をひそめた。


「うーん。でもほんとにメーカー名もブランド名も何ひとつ描いてないね。普通はベルのとこに描いてあったりするもんじゃん」

「材質は普通の(グラナディラ)みたいだけど」

「変わってるよね。A管にしては管体が長すぎる気もするし……」


 二人は目線を(まじ)えてうなずいた。

 彼女たちも吹奏楽の経験者なのだそうだが、昨日の見学では顔を見かけていない。上手い人はよその学校や外部団体に行ってしまうとはじめは話していたが、こうしてみるとその事情が少しばかりリアルに感じ取れるように思った。

 花音が無邪気に尋ねた。


「どんなメーカーのがいいの?」

「んー、有名どころだとフランスのビュッフェ・クランポンとか、セルマーとかだよね。国内メーカーだったらYAMAHA(ヤマハ)かな」

「メーカーによって吹きやすさとか音色に違いがあるんだよ。あたしがピッコロ選んだのは中一の時だったけど、先生がいろんなメーカーのやつを持ってて吹き比べさせてくれたんだー」

「うちは姉ちゃんがPearl(パール)ってメーカーのを()してくれたから、そこの作ってるフルート選んだよ」

「ふーん……。なんかこう、ヴァイオリンのストラディバリウスみたいな銘器ってないの?」

「聞いたことないかも」


 なんだ、と花音はがっかりしたような顔をした。

 その目からみるみる金色が消えていくのを見て、里緒の身体はたまらない安堵に包まれた。花音は考えていることが片っ端から顔に出る。基本的に期待を裏切ることはない。そういう意味では、不器用な里緒にもちょっぴり安心して話すことができるのだ。

 その花音から、ようやくクラリネットを返却された。教室を漂う暖房の気流に管が温められたからか、受け取った管体は先刻(さっき)よりもいくらか軽く感じられた。

 改めて管体を眺め回してみたが、確かにそれらしき名前やロゴが刻まれている様子はない。強いて言うなら、留め金(リガチャー)の下辺りに太陽のような形をしたマークと、『10-10-2009』という番号が彫り込まれている。

 将来的に整備が必要になることもあるだろう。自分のクラリネットのことくらい、もっと知っていた方がいいのかもしれないけれど。


(そうは言っても、説明書も何も渡されてないしな……)


 (つや)のある管を撫でながら、何となく心が細くなって視線を落とすと、机で跳ね返った花音の声が顔面を直撃した。


「あ! そうだよ、せっかくだから何か吹いてみてよっ」

「え…………」

「いいじゃんー、だってまだ一度も聴いたことないんだもん」


 里緒はたちまち顔を引きつらせたが、なおも花音は『そんなの簡単でしょ?』と言わんばかりの顔付きで迫ってくる。一度も聴いたことがないなんて当然である。だって今日、初めて持ってきたのだから。


「うちらも聞いてみたいなー」


 傍観者だったはずの二人まで割り込んできた。味方を失い、困り果てた里緒はもごもごと反論した。


「でもここ、教室だし……。みんなの迷惑になっちゃうから」

「大丈夫だよ! 始業前で人も少ないよ」


 言われてあたりを見回せば、朝八時前のD組の教室にはわずか十人程度の生徒がたむろしているばかりである。

 もう反論のネタがない──。里緒はいよいよ逃げ場を見失った。


「……何でもいい? その、選曲で笑わない……?」

「何でもいいし、笑わないよ!」


 花音は自信たっぷりに断言した。

 (なか)自棄(やけ)を起こしたような気持ちで、里緒は楽器ケースの中に突っ込んであった初心者用の楽譜を取り出した。どれも童謡ばかりで単純だが、よく知りもしないクラシック曲に手を出すよりはましな結果になるだろうと思った。昨日、河原で吹いた〈めだかの学校〉の楽譜を見つけ、それを机の上に置いたカバンに立て掛ければ、簡易譜面台の完成である。おおー、と薄っぺらな歓声が耳元を舞った。

 ネックストラップを取り付けて首にかけ、クラリネットを持った里緒は、目を閉じた。花音も、クラスメートも、自分を(まど)わすものはこうして知覚の世界から消える。


 思い出せ、私。昨日のあのきれいな川の景色を──。

 念じた刹那、まるでその口から引き出されるように、喉が息を送り出した。









「私だって、泳ぎたい。私だってみんなと一緒に泳ぎたいよ」


▶▶▶次回 『C.013 披露』

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