C.122 朝日と笑顔
東の都心をかすめて上る太陽が、合宿二日目の朝を連れてきた。
午前七時、朝食である。学食のある一階を目指してガラス張りの渡り廊下を歩くと、唇が裂けそうなほどの大あくびが里緒の口を突いて出た。
眠すぎる。
思考も感情も思うように働かないし、平衡感覚さえおぼつかない。どう考えても、原因は昨夜の夜更かしだ。
(今日もまだ追試あるのに……)
せめてテスト前に顔でも洗ってやり過ごすしかない。跳ねたままの髪を左手で強引に撫でつけ、痺れの残った右手で危機感を玩んでいると、「眠いね」と緋菜が話しかけてきた。擦られすぎた寝ぼけ眼が赤く染まっている。
「……うん」
「あんなに夜更かししたの久しぶり……。頭がガンガンするよ」
「その、ご飯食べたら、ちょっとは目が覚めると思うんだけど」
「えへ。私もそれ期待してるところ」
一年女子グループの最後尾を隣り合って歩きながら、緋菜は相好を崩して前を向いた。よほど疲れが残っているのか、それともまだ気まずいのか、他の子たちは一言も口を利いていない。唯一、朝っぱらから元気に彼女たちへ話しかけて回っていた花音は、ハンカチを忘れたといって今しがた教室へ引き返したばかりだった。
四日間の合宿が終わる頃には、この重苦しい沈黙に支配されることもなくなっていてほしい。すべては自分次第、運次第だ。ちょっぴり苦いつばを飲んで、里緒は前を歩く子たちの背中を見つめた。
ふらふらと危なっかしく歩いている子が映った。
「もえちゃんも寝不足仲間?」
緋菜が声をかけた。ところどころ乱れた髪を掻きながら振り向いたのは、ヴァイオリンの小萌である。寝起き特有のハスキーな声で小萌は答えた。
「おかげさまで……」
「おかげさま?」
里緒と緋菜は顔を見合わせた。身に覚えがない。歩く速度を落として緋菜の横に並んだ小萌は、小首を傾げて、組んだ両手をそっと伸ばした。
「二人とも昨日、遅くまで話してたでしょ。わたし、それずうっと最後まで聞いてたから」
「────うそ!」
たちまち里緒は耳まで真っ赤になった。そんな、緋菜以外の聴衆がいただなんて聞いていない。自分の惨めな身の上話だって、小萌の話だってしてしまったのに!
「い、いつからっ」
すっかり目覚めた様子の緋菜が問い質した。小萌は事もなげに「最初から聴いてた」と答えた。
「だってふつうに声、聴こえてたし。珍しそうだったのと、面白そうだなって思って」
ということはあの夜、小萌も布団の中で静かに起きていたことになる。里緒の顔にはいよいよ血が集まった。大半の子が寝静まっていたと思っていたが、もしや、他にもまだ起きていた子がいたのではないか?
「なになに! 何の話何の話っ!」
背中に花音の叫ぶ声が殴りかかって、衝撃で里緒は前につんのめった。「どーん!」と効果音付きで背中にぶつかった花音が、亀よろしく首を伸ばして里緒と緋菜の間に割り込んでくる。ハンカチを回収した帰りのようだった。
言い訳の必要を感じて口を開こうとしたが、緋菜が口元に指を立てた。黙ってて、の意か。
「花音には教えてあげない」
「えー、そんなのなしだよ! 教えてよっ」
「私と高松さんの秘密だもん。ねっ、高松さん」
同意の問いかけが飛んできた。その顔がいたずらっぽく笑っているのを目にして、数秒遅れで里緒は緋菜の意図を察した。緋菜は昨夜の出来事を、二人だけの思い出にしようとしてくれている。
なぜだろう。
心が弾んだ。
花音には悪いが、緋菜の提案に乗りたくてたまらない。里緒が小さくうなずくと、緋菜が嬉しげに口の端を持ち上げた。
「ほらね、秘密だって」
「二人してひどい! 私に隠し事することなんてないじゃんー!」
「わたし覚えてるよ」
「ほんと!?」
「でも教えてあげない」
小萌にまでも弄されてすっかりうろたえた花音が、「里緒ちゃん教えてよー」などと里緒にしがみついて訴える。その姿があんまりにも哀れで滑稽だったものだから、少しばかり笑ってしまった。笑ってから、それが合宿に入って初めて浮かべた素直な笑顔だったことに気付いて、里緒の胸は一段と高鳴った。
そうだ。
思い出した。
笑うって、こんな風にすればいいものだった。
(可笑しくなったら笑っていいんだ)
疼いた確信は快感に変わって、里緒の身体中を電撃のように駆け抜けた。
それはあまりにも新鮮な感覚だった。楽しさや嬉しさから来る純粋な笑顔を、里緒は長らく封印し続けていたのだ。たくさんの人に迷惑をかけ、負担を背負わせ、苦痛を与え、大切な母さえ死の淵に追いやった。こんな悪魔のような少女に、笑ったり、幸せになったりする資格があるだなんて、少しも思っていなかった。
「……里緒ちゃん?」
花音の声で里緒は我に返った。「大丈夫?」と問いかけの言葉が折り重なる。首を横に振って、思い出したばかりの笑顔を恐る恐る浮かべてみる。
そう。
これでいい。
きっとこれでいいのだろう。
「朝ご飯は何かなー」
安堵した様子の花音も笑った。「何だろうね」と緋菜が律儀に応じた。先を歩く舞香や真綾たちはなおも無言のままだったが、その背中を模る肩の角が少し、ほんの少しだけ取れてきたのを、里緒は見つけた。
七月十二日。
合宿二日目の生活が、始まった。
◆
今日も今日とて、管弦楽部のメンバーたちは応援演奏の練習に没頭。その間、里緒は受け損ねた試験の受検に励行した。
自習教材の大半は紅良に貸してもらったものである。自分のノートは家やホテルに置き去りにしてきたし、花音のノートは欠損が多すぎて使い物にならなかったので、わざわざ西元家から全教科分を取り揃えてもらう羽目になったのだった。
だが、いくら執ったのが成績優秀な紅良であろうとも、他人のノートと自分のノートでは体系も重視する点も違いすぎる。前提にしている頭の出来だって違う。紅良が勉強せずとも知っているはずの公式を里緒は覚えていないし、単語や年号だってそれは同じだ。
おかげで内容の理解が思うように進まず、初日の教科は大苦戦に終わった。メッセージアプリでテストの調子を聞かれ、ちんぷんかんぷんで上手くいかなかったことを伝えると、
【じゃあ明日は教えに行く】
紅良はそんな返信を寄越してきた。
そんな、手間かけたら悪いよ──。いつものくせで固辞したのだけれど、結局、紅良は来てしまった。しかも二人も子分を従えて。
「やっほー! 合宿中なんだって?」
「差し入れのお菓子持ってきたから食べなー」
一年女子の教室を覗き込むや否や、そう言って巨大なビニール袋を差し出してきたのは、国立WO仲間の翠とつばさだった。たちまち「やったー!」と花音が食らいついた。飛び跳ねるように起き上がった舞香が、しきりに周りの視線を気にしながら花音の後ろに続いた。舞香とつばさは旧友らしい。
肝心の紅良はドアの向こうに突っ立っていた。
「その……、なんか大所帯だね」
声をかけに行くと、紅良は苦々しく吐息をこぼした。
「ついて来なくていいって言ったのに、あの人たちは……」
今日は夕方から国立WOの練習があるそうで、わけを話したら同行を申し出られたのだという。物見遊山で行くわけじゃないといって断ったが、この通り、きれいに無視された。
なんだか自分のことのように思えて里緒は複雑な心境だった。ともかく、他の子たちが差し入れに気を取られている間に、いそいそと勉強道具をまとめて紅良ともども教室を後にした。
目指すは図書館。最初の科目まで、まだ二時間近くの執行猶予が残されている。
「今日は何?」
「えっと……数学Ⅰ、国語総合、英語演習、保健」
「保健は直前の詰め込みだけでいけるな。国語総合も対策は要らない。高松さん英語は得意だろうから、英語演習は配布されてる問題テキスト使って、苦手なとこだけさっさとクリアしよう。残りの時間は数Ⅰに費やした方がいい」
廊下を歩きながら紅良はてきぱきと指示を発し、小さく折り畳まれた試験範囲の表を広げて眺め始めた。効率のいい進め方でも思案しているのか。
できる子って、違うんだな──。
ぼうっと横を眺めながら歩いていたら、不意に爪先にラバーの感覚が引っ掛かった。危ない、階段から落ちるところだった。すんでのところでバランスを保った里緒を、呆れ顔で紅良がたしなめる。
「テストよりも身の安全を優先して」
「はい……」
里緒はうなだれた。こんな些末なことで怪我をして合宿後半に加われなくなったら、今度こそ部仲間たちに向ける顔がなくなる。
紅良の厳しい勉強指導を乗り越え、前半の二教科をどうにか消化した。くたびれた頭をもたげながら学食に向かうと、そこでは本日二組目の客が里緒のことを待ち受けていた。
「あら、テスト終わったのね。お疲れさま」
「や、矢巾先生──」
先んじて声をかけられた里緒は、とっさに名前を喉に詰まらせた。二年生部員の輪の中に混じってテーブルを囲み、昼食を摂っていたのは、外部コーチとして招聘していた芸文附属の矢巾だったのだ。
「久しぶりね」
矢巾はにこやかに口角を上げた。今日の装いは花柄のシフォンドレス風ワンピースに青色のカーディガンか。ジャージや体操服で練習に臨んでいる部員たちの中にいると、彼女だけが露骨に浮いて見える。
「須磨くんから聞いたわ。色々、あったみたいじゃない」
「えっと、その、はい……」
「頑張りなさいね。私たち大人も、ちゃんとついていてあげるから」
うろたえてしまって里緒はろくな言葉を返せなかった。励ましてくれるのはありがたいのだが、受け止める心の準備がまだ済んでいない。ぺこぺことあいさつをしながら矢巾の前を通り過ぎ、気忙しく自分の席に向かった。
見ると、矢巾はもう二年生たちとの会話に戻っていた。昼食のカレーライスを口に運ぶのもそこそこに、譜面を手にした菊乃や佳子が質問をぶつけている。交わされるやり取りの声が、豪華な照明のぶら下がる高い天井に反響して複雑な波紋を描いた。
「ちづ先生、芸文附属から逃げてきたんだってよ」
隣の花音がスプーンをくわえながら教えてくれた。
「芸文附属の吹部、こないだ何かのオーディションやって、それがもとで部員同士がすっごくギスギスしてるんだって。弦国は息抜きにちょうどいいわーって言ってた」
里緒はすぐに事情の裏を察した。それはもしや、楽器屋で会った芸文附属の子が話していた、吹コンA部門出場者選抜オーディションのことか。
(あの人だけのことじゃなかったんだ)
なんだか遠い世界の事件のように思えて、いまいち実感が湧かない。自分なら、同等以上のレベルの奏者が現れてくれたなら、いつでも独奏パートなんて代わってしまうのに。テーブルに列をなして並ぶ食器を眺めながら、決して発することのできない本音をカレーに絡めて口へ運ぶと、スパイスの効いた辛みと熱さが舌いっぱいに広がった。
「てか花音、さっきから矢巾先生に低レベルな質問しすぎだからね。音楽記号が読めないだとか音階が分からなくなっただとか……」
コップを握りながら舞香が注意を発すると、すぐさま花音も鼻息荒く言い返した。
「初心者だから許されるもん! それに大先生に教えてもらった方が頭に残りやすいでしょっ。エピソード記憶ってやつ」
「そんなことのために先生を占領しないでよ! わたしたちだって色々と聞きたいことあるんだよ」
「ふーん。私、見ちゃったもんね。まいまいがト音記号とヘ音記号間違えて注意されてるとこ」
なっ──、と舞香は絶句した。鮮やかな意趣返しの締めくくりとばかりに、涼しい顔で花音が決め台詞を放った。
「花音様は何でもお見通しなんだから」
漫才さながらのやり取りに耳を傾けながら、彼女たちに露見することのないように里緒は嘆息した。……なんだかんだといって舞香も、午前中の練習を経た今はこうして普段通りに周囲の仲間と会話を交わしている。朝と比べれば遥かに饒舌である。真綾も、忍も、男子たちも。
そこに里緒さえいなければ、一年部員たちはいつも通りに振る舞えるのだ。
──『みんな話しかけ方が分からなくて戸惑ってるだけなんだと思うな』
昨夜の緋菜の台詞に背中を押されて、里緒はスプーンの上に乗ったカレーを一気に喉へ押し込んだ。この期に及んで今さら、緋菜の言葉を信じられなくなりたくなかった。
「『自分たちだって野球の試合を楽しんでるんだ!』くらいの気概でいた方が、野球部の子たちにも応援の意思が伝わりやすくなると思うわ」
▶▶▶次回 『C.123 愛の込め方』