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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第四楽章 蒼の涙とアイネクライネ
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C.121 夜半の窓辺で【Ⅱ】

 




「私と……?」


 里緒は目をしばたかせた。一瞬、この部のなかに自分以外の“高松”がいるのではないかと錯覚しかけた。里緒であるはずがない。

 しかし「うん」と緋菜は応じて、照れたように視線をグラウンドの方へ落とした。


「クラがどうとかじゃなくて、普通の他愛ない話がしてみたくって。ほら、セクション違う人とはなかなか話す機会を持てないでしょ。それに私も、そんなに自分から誰かに絡みに行けるタイプじゃないから」


 セクションの違う出水(いずみ)さんとは仲良く話してるのに──。胸に浮かんだ疑惑の感情は、なんだか嫉妬と同じ不快な臭いにまみれていて、里緒はそれを口にすることなく闇へ葬った。無言の間は作りたくなかったので、慌てて応答の文句を考えた。


「わ、私も……。低音セクションの人と話したこと、あんまりないや」

「三人しかいないもんね」


 のんびりと緋菜が応じてくれる。

 初めて低音セクションの練習風景を里緒が目の当たりにしたのは、コンクールで演奏する〈クラリネット協奏曲〉の練習が始まったときだった。肩がくっつきそうな距離に並んで、譜面台を覗き込みながら巨大な木管楽器(ファゴット)を操る緋菜と二年の智秋の姿が、あのときずいぶん印象的だったものだ。菊乃の圧政下にある木管セクションの片隅で、美琴や舞香の視線を気にしながらせせこましくクラリネットを吹いていた里緒には、その仲良しな姿はとても新鮮に思えたのだった。

 チューバを吹く三年の本庄詩ともども、普段からあの距離感で付き合っているのに違いないと思っていた。


「……その、低音セクションの人たちって、すごく仲良しだよね。コンクール練の時の姿しか見てないけど」


 恐る恐る尋ねてみた。緋菜は三つ向こうの教室を見遣って、二つ向こうの教室を眺めて、そっと苦笑いを浮かべた。


「八代先輩のこと? そっか、やっぱり仲良しに見えるんだなぁ」

「ち、違うの」

「八代先輩、やってる音ゲーのこと勧めてくれたり、いつも話しかけてきてくれるいい人なんだけど、その……」


 緋菜の視線が迷った。


「……『膝枕してもらって頬擦(ほおず)りしたい!』とか『肌めっちゃ柔らかそう!』とか、ときどきセクハラぎりぎりのこと言うのはちょっと困ってるかも」


 気軽に“仲良さそう”などと口にしたのを里緒は後悔した。そんな事情があっただなんて初耳だ。

 後悔すると心臓がキリキリと縮む。うつむいて涙をこらえたら、泡を食った緋菜が「あのね」と繕いの言葉を挟んだ。


「基本は仲良いんだよ、基本は! 変な空気になっても本庄先輩が仕切り役になってくれるし、八代先輩も私が無言になったり本庄先輩に注意されればちゃんと謝ってくれるしっ」

「そ、そうなんだ……」

「うん。しかも土下座で」


 里緒は目をしばたかせた。今、ずいぶん物騒な単語が緋菜の口を飛び出した。

 可笑しそうに緋菜は肩を揺らした。


「なんかね、あのひと土下座するのが趣味なんだって。俺は土下座芸人なんだ! って口癖みたいに言ってる」


 そんな芸風は聞いたことがない。呆れるやら、一周回って感心するやらで、里緒はへんてこな顔なのを自覚しながら緋菜の言動を見つめた。

 困らせられている割に緋菜の顔は不快そうではない。そこには、智秋に対する大きな信頼の蓄積が見て取れるように思った。きっと智秋は普段、積極的に緋菜の信頼を勝ち取りに行っているのだ。だからこそ、多少のことがあってもこうして緋菜に笑って許してもらえている。そうでなければとっくに三人の関係にもガタをきたしているはずである。

 例えるなら詩が姉、智秋が真ん中の兄、そして緋菜が妹のような存在か。わずか三人の低音セクションを包み込む、きょうだいにも似た独特の空気感を、里緒もようやく少しばかり嗅ぎ取れた。

 たちまち、(はかな)い羨望が弾けた。


「私も低音がよかったな……」


 つぶやくと、「なんで?」と緋菜が尋ね返してきた。答えに迷った里緒はうつむいて、ところどころ(おぼろ)な照明の(とも)るグラウンドに目をやった。その問いに応じるためには、里緒の息苦しい胸の内を嫌でも明かさねばならない。

 彼女は信頼に値するのだろうか。

 正直な思いの丈を口にする相手として、果たして緋菜は相応(ふさわ)しいのだろうか。


 ──『嘘ついたり答えをはぐらかそうとしない人のこと、ほどほどに選べばいいんじゃない?』


 いつか芸文附属の子に教えてもらった基準を、物差しの要領で緋菜にも当てはめてみる。彼女は嘘もつかないし、答えもはぐらかさない。里緒の方がよほど“信頼できない人”の要件を満たしているくらいだ。


「ファゴットなんて本来は木管楽器の仲間だし、私は木セクの人たちにも憧れるけどなー」


 窓辺に体重を預けながら緋菜がぼやいた。里緒も真似をして、体重を載せてみる。少し軽くなった身体の分だけ、心は重たくなった。自然と思いが言葉に換わって、錠前の外れた口から漏れ出した。


「その……。私、木セクの人たちにとっては腫れ物みたいな存在だと思うんだ。いちばん協調性を求められる楽器をやってるのに、ちっとも協調性ないし。持ってる楽器も他の人たちのと違うし、練習も聞き込みも足りないから独奏(ソロ)やってもさんざんだし、おまけに今度は吹くことさえできなくなっちゃうし……」

「…………」

「低音の人たちみたいに仲良くできてたなら、ここまで孤立感をこじらせることもなかったのかな……って。こんな私じゃ、低音の人たちに混ざったって、きっと上手くはいかなかったと思うけど……」


 口にした端から心のなかが整理され、複雑に絡み合った無数の感情が分かりやすい言葉に置き換わってゆく。そうだよね、と胸に問うた。たとえクラリネットを吹けるようになったところで、里緒の前に山積みの課題が残されていることに変わりはないし、この心を痛め付ける劣等感が拭い去られるわけでもないし、木管セクションでの居心地の悪さがきれいに清算されるわけでもない。

 緋菜はしばらく黙ったまま、うなだれる里緒の横に立ってどこかを見つめていた。

 吹き寄せた夏の夜風が前髪を掻き上げ、洗い、心地よい刺激を頭皮に残して去る。さらさらと爽やかなその音を聞いていると、「分かるなぁ」と緋菜が口を開いた。


「うん。すっごく分かる……。腫れ物扱いされるみたいな感覚、私にも分かる」

「……分かるの?」

「ほら、私ってファゴット奏者でしょ。あのでっかくて目立つ楽器、中学の吹部で見かけたことってあった?」


 中学のことなんて思い出したくもないが、いなかった気もする。里緒は曖昧に首を動かした。

 ファゴット。英語圏ではバスーンとも呼ぶが、名前の由来はイタリア語で“薪の束”。その名の示す通り、大きな薪を束ねたような姿をしていて、全長は並の女子高生の背丈の八割ほどに達する楽器である。その長い管長ゆえ、あらゆる木管楽器のなかでもっとも低い音を吹くことができ、演奏可能な音域の広さも随一だ。ついでに、ただでさえ巨大なうえに管体が鮮やかな明るい木の色をしているので、大人数の楽団に放り込まれてもひときわ目立つ。


「私ね、中学の吹部ではずっと独りぼっちだった。同じパートの仲間がいなかったから」


 窓サッシから離した手を重ね合わせ、緋菜は力いっぱい伸びをした。どんよりと曇る夜空がその目に映って、瞳の色が少し、揺らいだ。


「ファゴットって、大きいくせにけっこう繊細な楽器なんだよね。木管の部分に水が流れ込んだら腐ってダメになっちゃうし、わけわかんないくらいキイついてるし。保守の手間が大変な割に、そんなに重要な楽器ってわけでもないから、多くても一つの吹部に一、二本くらいしかないんだって。私のところは一本だけで、同じ楽器吹いてる先輩なんてもちろんいなかったし、練習も楽器のメンテもぜんぶ独学でやらなくちゃいけなかった」

「そ、そんな大変な楽器、どうして……」

「迷ってる間に他の楽器みんな取られちゃって」


 緋菜は情けなさげに笑った。入部した時、一年生全員の信任で学年代表に任命された緋菜の本質を、その照れ笑いの向こうに里緒は見た気がした。

 緋菜によれば、智秋も中学で同じような経験をしてきたのだという。『どうせならマニアックな楽器をやりたい!』といってファゴットを選んだはいいものの、頼る相手もおらず、出番も乏しく、大人数の部の中で孤立してしまった。そのときに仲良くしてくれたのがホルン二年の郁斗なのだそうで、以来、今も二人は親友同然の関係を続けている。


「中学ではほんっとに居場所がなかった。同じダブルリード楽器のオーボエの子たちとかと仲良くしながら、あの大きくて目立つ楽器を抱えて隅っこでぼそぼそ吹いてた。いっつも寂しくて、人の目ばっかり気にしてたな」


 だからね、と続けて、緋菜は背後に目をやった。静かな寝息が途切れ途切れに届いている。


弦国(ここ)の管弦楽部なんて、私からしたら天国みたいな世界なんだ。同じ楽器の先輩もいるし、活躍の機会だってちゃんともらえる。もう厄介者扱いされないで済むんだもん。吹奏楽部がないって知った時はびっくりしたけど、私、選んで入ったのが管弦楽部でよかったなって思ってる」


 吹奏楽ではなく管弦楽の道に進むことで、緋菜は救われたのだろう。その時、胸に重たく残っていた疑問の解が不意に浮かんで、思わず里緒は尋ねた。


「もしかして、よくヴァイオリンの出水さんとしゃべってるのって……」


 吹奏楽部の普及率の高い日本の中学校では、弦楽器はファゴット以上に居場所のない楽器のはずである。うん、と緋菜は首を振って微笑んだ。


「お互いシンパシー感じてるとこ、あると思うな。少なくとも私は感じてるよ」


 ちっとも知らなかった。ファゴットのこと、緋菜のこと。話した経験がまるでなかったのだから当たり前だけれど、その当たり前を誇ってはいけない気がして、里緒は窓のサッシに身体を預けながらそっと唇を結んだ。嫉妬なんて覚える必要はなかったのだと、今になってようやく理解した。

 緋菜から見た里緒も、もしかすると里緒から見た緋菜と同じような姿をしているのかもしれない。


(昔のこととか、独りぼっちだったこととか、話してこなかったのは私も同じだ)


 じっと黙り込む里緒の隣で、「ね」と緋菜が笑った。


「知ってる? ファゴットとクラって、すっごく相性のいい楽器なんだってよ。有名な奏者さんたちもみんなそう言うんだって」

「ファゴットとクラリネットが……?」

「チェロとヴァイオリンみたく、低音と高音の役割分担ができるからじゃないかな。私たちの楽器は低い音で曲の(ベース)を担うのに向いてるし、高くて明るい音の出るクラは主旋律(メロディ)向き。どっちの楽器もそんなに主張が激しくないし、何となくバランスよさそうでしょ。フルートなんかよりよっぽど、ね」


 中空を指しながら緋菜は得意げに語る。最後の一言など、菊乃が聞きつけたら譜面台を投げつけてきそうだ。鬼の先輩の挙動を想像して首をすくめながら、それもそうかもしれないと里緒は思った。

 考えてみれば、吹奏楽では珍客扱いのファゴットが、〈クラリネット協奏曲〉では二本も用いられて低音を引き受ける。作曲者のモーツァルトはクラリネットに造詣の深い人物だったはずである。クラリネットとファゴットの放つ柔らかな音の重なりが、調和の取れた耳心地のよい調(しら)べを作り出すことに、当時、モーツァルトは同世代の作曲家たちに先駆けて気付いていたのかもしれない。


「コンクールがどうなるのかも不透明だし、今度の応援応援ではスーザフォン吹くことになっちゃったし、いつ、また一緒の舞台に立てる時が来るのかは分からないけど。クラパートの人たちとはこれからも仲良くしていきたいな」


 歌うように緋菜は言った。それから忘れたように後ろを伺って、付け加えた。


「たぶん私のパートだけじゃないよ。みんな、そう思ってる」

「……そうなのかな」


 里緒は窓のサッシにしがみついた。舞香も真綾も、先輩たちも、里緒には一言の声もかけてきてはくれないのに。

 里緒の葛藤をすべて見抜いたそぶりで、それでも緋菜は首を縦に振ってみせる。


「今はまだ、みんな話しかけ方が分からなくて戸惑ってるだけなんだと思うな」


 どうしてそこまで言い切れるのかは聞かせてもらえなかった。

 話したかったことを一通り話し終えたのか、緋菜はまた目をつぶって腹式呼吸の練習に戻っていった。青白い月明かりの照らす窓のたもとで、ただ、満足げに佇みながら呼吸を繰り返す(たお)やかな緋菜の横顔を、しばらく里緒は惚けたように眺めていた。他人のことを言う資格はないと思いつつ、不思議な子だ、と思った。


(私なんかと話してみたかった……なんて)


 せめて、その期待にはせいいっぱい応えたい。()いた願いに背中を押されて、里緒もブレストレーニングを再開した。風の吹き渡る夏の夜空は涼しい。薄く冷えた空気が肺に染みて、溶けて、胸のなかに甘い感覚を静かに紡いでいった。








「私と高松さんの秘密だもん。ねっ、高松さん」


▶▶▶次回 『C.122 朝日と笑顔』

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