C.120 夜半の窓辺で【Ⅰ】
午後六時、練習終了。休憩を挟んで午後七時に学食で夕飯、午後八時に部員総出で銭湯へ。午後九時から三十分のミーティング、午後十時には名目上“消灯”。
事前の案内通り、合宿初日の夜は練習のない隙間だらけの日程だった。しかし里緒には、その隙間がたまらなく苦痛でならなかった。
なぜって、一年生の空気は異様なまでに重いのだ。基礎練習や合奏の疲労が蓄積されていたためもあろうが、元気にしゃべっていたのはわずかに花音や元晴くらいのもので、夕飯を囲むときも黙って箸を動かすばかり、大浴場のなかでもひたすら沈黙、寝る前のあれやこれやも一切なし。花音だけは普段と変わらない勢いで里緒に話しかけてきてくれるが、そのせいでかえって里緒だけが周囲から浮き上がっている有り様だった。
「それじゃ、消すね」
照明のボタンに指をかけた学年代表の緋菜が問うと、眠たげな賛同の声がまばらに返ってきた。午後十時半、一年女子の宿泊部屋は真っ暗に灯りが落とされ、やがて広い教室のなかには静かな寝息が漂い始めた。小一時間も経つ頃には、目を覚ましているのは里緒だけになったように思われた。
右を向けば、花音が布団から思いっきり上半身を出して眠っている。左を向けば、いかにもスマホをやりかけのまま寝落ちたといった風体の舞香が、右手に絡まったイヤホンを不快そうに掴んでいる。
里緒は布団のなかで身体を丸めた。昔から、慣れない布団だとなかなか寝つけない質だった。よほど疲れていたり寝不足が続いているのであれば別だが、あいにくと今日の里緒は疲れてさえいない。
もっとも、気持ちの上ではくたくたに疲れているのだけれど──。
美化係の仕事中さえも口をきいてくれなかった舞香の脱力しきった横顔に、思わず、はたと息が漏れた。里緒がいるとみんな押し黙ってしまう。舞香も、真綾も、緋菜も、小萌も、忍も。男子たちだって、先輩たちだってそうだった。完全なプライベートで話しかけてきてくれるのは花音だけ。
芯から身体の冷える感覚が脊髄を走り抜ける。里緒は布団の端を握りしめた。目頭が熱くなった。
(やっぱりみんな、私のこと……)
いけない、否定的に考え始めたらきりがない。頭をぶんぶんと振って汚ならしい思考を追い出そうと試みたが、そうは言ってもマイナス思考は里緒のお家芸である。次から次へと一年の仲間たちの顔が脳裏に浮かんでは、里緒に向かって舌を出しながら消えてゆく。
「…………」
しばらく無言で耐えてから、布団を払いのけて里緒は立ち上がった。
それから、南向きのガラス戸に手をかけて、窓を開け放った。
外の空気を吸えば、頑固な自己否定の思考も少しは切り替わってくれるかもしれないと思った。
見下ろす夜のグラウンドには虫の歌声が満ちている。電車の走る音が遠く響いている。どこからか賑やかな笑い声が弾けた。見ると、二つ隣や三つ隣の教室にはまだ灯りが煌々と点っている。それぞれ三年女子と全学年男子の宿泊部屋のはずだが、まだ夜更かしに励んでいるようだ。
里緒は窓のサッシに手をかけた。金属の肌触りが冷たくて、快感混じりの身震いが肌を駆け抜ける。
ふと、思い立った。
(……ブレストレーニングでもやろうかな)
ブレストレーニングは意外に体力を消耗する。眠気が起こるまでの時間つぶしにもなるし、寝付けるだけの疲労もほどよく稼げるだろう。
寝巻き代わりの体操着をめくって、肌着越しに腹の輪郭を感じる。息を吸って、吐く。器用に腹は膨らんで、それから元に戻った。草いきれの満ちた、むっとするような夏の夜の匂いが、鼻の内側にこびりついて芳しく膨らんだ。
香織の見立て通り、腹式呼吸は満足にできているようだった。吸って、吐いて、そのサイクルを何度も繰り返しながら、里緒はちっぽけな自信が胸のなかで育ってゆくのを眺めた。とても素直に喜ぶ気にはなれなかった。
(腹式呼吸のカタチだけができたってダメだ。もっと肺の容量を増やさなきゃ。吸った息のこと、上手く扱えるようにならなくちゃ)
明日の自分や明日の香織を失望させないために、できることはやっておかねばならない。自信に叱咤をかけて、また腹式呼吸を繰り返した。
夢中でトレーニングに励んでいると、時間や空間の感覚は呆気なく虚空に溶ける。何十回目かも分からなくなった息を吸って、吐いて、次の空気を肺に入れようとした瞬間。
肩に吐息がかかった。
「高松さん?」
「ひゃあ!」
里緒は腹の底から叫びかけた。
危ない。腹式呼吸のまま悲鳴なんて上げようものなら、寝静まっている子たちをみんな叩き起こしてしまう。すんでのところで掠れきった悲鳴で済ませると、声の主は「脅かしてごめんね」と笑った。
隣に立っていたのは緋菜であった。目もこすっていないところを見ると、彼女も眠れずにいるのか。先に寝ているとばかり思っていた。
「こんな夜中に何してるの?」
「ぶ、ブレストレーニング……。足りてないと思って……」
「私もやろっかな。隣、いい?」
とんでもない、里緒に拒否権などあるわけがない。がくがくと首を縦に振ると、パジャマ姿の緋菜は隣の窓に手を掛けて、よいしょ、と引き開けた。癖っけのあるボブカットの髪が風に揺れる。思わぬ事態にどぎまぎしながら、里緒は緋菜の一挙一動を見守った。
一年生の学年代表にして、中学からのファゴット奏者。普段は低音セクションで過ごしている子である。例によって、里緒にとってはあまり話したことのない相手だった。というよりも、クラスメートである花音とお掃除組仲間である舞香以外の一年生とは、基本的に面識がないも同然だった。
(どうしよう……。話題、見つからないよ……)
さっそくトレーニングに入ってしまった緋菜を前にして焦燥感を深めながら、仕方なく、里緒もトレーニングを再開した。
一口に呼吸トレーニングといっても色々で、なにも腹の膨らみ具合を確かめるのばかりが練習ではない。壁に当てたティッシュに息を吹きかけて落下しないように維持したり、吐いた息で風船を膨らませてみたりと、アプローチの仕方はいくつもある。体力作りのランニングや腹筋同様、吹奏楽器の奏者には欠かすことのできない日常的なトレーニングのひとつだ。
そのまま、五分ほどの時間がゆるやかに経過した。少し上がった息を肩でなだめながら、緋菜は窓辺に寄りかかった。
「けっこう疲れるね、これ。お風呂入った後なのに暑くなってきちゃった」
「そ、そうかな。私はまだ……」
里緒は吃ってしまった。貯め込んだ疲労の量が違うせいか、里緒の方はさほど疲れを覚えていない。
たはは、と緋菜が小さく声をこぼす。
「高松さんが言うと重み違うなぁ」
里緒の胸にはたちまち鋭い痛みが走った。そんな、重みが違うなんてことは有り得ない。今の私は青柳さん以下の存在でしかないのに──。
懸念をかき消すように、三つ向こうの教室で盛大に笑い声が上がった。勝ち誇ったように何事かを怒鳴っているのは、パーカス三年の徳利か、それともホルン二年の郁斗か。「元気だね」とつぶやいた緋菜は、手すりに両腕を乗せたまま里緒の方を見て、円やかに口角を持ち上げた。
「なんか嬉しいな。私ね、前からこうやって、高松さんとゆっくり話せる機会ないかなーって思ってたんだ」
「今はまだ、みんな話しかけ方が分からなくて戸惑ってるだけなんだと思うな」
▶▶▶次回 『C.121 夜半の窓辺で②』