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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第四楽章 蒼の涙とアイネクライネ
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C.119 目覚めないひと

 




 スライド式のドアを開くと、そこには見慣れた病室の風景が寂しげに広がっていた。

 窓際にベッドがひとつ。床頭台がひとつ。点滴や心電図のベッドサイドモニターにうじゃうじゃと繋がれた無数の管。そして、無機質な色の管をまとってベッドに横たわる、ひとりの男。

「パパー」と無邪気な声をあげながら、拓斗がベッドに駆け寄った。男は身動(みじろ)ぎもしない。つまらなさそうに拓斗が身をよじるのを横目に見つつ、案内してくれた看護師に紬は声をかけた。


「……夫は、どうですか。最近」


 胸に留めた名札の位置をいじり、専属看護師(プライマリーナース)の彼女──岡崎(おかざき)は複雑な表情を浮かべた。


「のちほど担当医からも説明があるかと思いますが、前回いらした時から特に容態が変わったということはありません。梗塞を撮影したMRIの所見に特段の変化は認められていませんし……、目を醒ましてくださることもないままです」


 そうですか、とつぶやいた。そんなことだろうと思ってはいたのだが、こうして現実を目の当たりにさせられると、沈みゆく気持ちの逃がし方が見つからない。

 戻ってきた拓斗がシャツの裾にしがみついた。


「ママ、パパまだ寝てる」

「そうだね。まだまだ眠たいみたい」

「いつ起きるの?」

「ママにも分かんないの。たぶん、もうちょっと先になるかしらね」

「えー……」


 拓斗のいとけない抗議にほどほどに付き合いながら、自らもベッドに歩み寄って、真っ白なシーツのなかに沈み込む顔を眺めた。

 穏やかな寝顔だった。まるで、こうして面会に来るのを予期した誰かが、顔を整えてくれたみたいだった。

 彼はもう、自発的に表情筋を動かしてくれることはない。

 自然と納得できている自分は冷酷だと思った。

 ばたばたと廊下に足音が響いた。振り返ると、電子カルテのタブレットを手にした中年の男性が、長い白衣を翻してドアの前に現れたところだった。


「──どうもお待たせしました、益田(ますだ)です」

「お世話になっております」


 拓斗の頭を押し下げながら、自分もお辞儀をした。「岡崎から何か話はされましたかね」と尋ねられたので、首を振った。まだ、ちょっとだけ。

 益田医師は岡崎看護師に目配せをして、二人の前に椅子を用意してくれた。


「お疲れでしょう。さ、座ってください。今から(じゅん)さんの経過報告をいたしますので」


 言われるままに腰かけた。椅子が高くて拓斗には座りにくそうだ。エタノールの匂いがつんと鼻に来たが、顔色ひとつ変えることなく彼はベッドのなかで眠っていた。




 神林(かんばやし)(じゅん)

 紬の夫であり、失職前の仕事は大手自動車メーカーの営業マンだった。

 ひとつ年上の彼は優しくて、気配りができて、料理の上手な人であった。手先が器用なのが僕の美徳だな、なんて口癖のように言っていた。いつもにこやかな笑顔を絶やさなかったし、紬が仕事でへまをして半泣きで帰ってきても、その大きな腕でそっと抱き止めてくれた。傍目には悩みなんて何もないように見えたし、だからこそ紬も安心して頼ることができたものだ。──その思い込みが、きっと(おご)りに繋がったのだろう。実際のところ彼が“何もない”どころではない状態だったことに、長年にわたって紬は気付けなかったのだ。

 過労のために彼がうつ病を発症したのは、今から四年前のことだった。そこからあっという間に身体が弱くなり、会社を退職し、なだれ込むようにここ『玉州会立川ゆめのき病院』で入院生活へ突入した。さらに、あろうことか入院中に脳梗塞を起こし、意識を喪失。今は呼びかけても反応のない植物状態にあり、脳神経外科の益田(ますだ)完司(かんじ)医師の下で意識回復の治療に当たっている。

 立川駅の北口、広大な再開発地区の北端に数年前に建ったばかりのこの病院は、紬の勤める支局のビルから至近の場所にある。紬は時おり、こうして拓斗を連れて見舞いに訪れていた。訪れたって何かが変わっているわけではないのだけれど、それでも無事なのか、様子はどうなのかが気になって、つい寝顔を拝みに来てしまう。

 今日も今日とて、こども園から拾い上げてきた拓斗の手を引いて、モノレールに乗って病院(ここ)までやってきた。


 ──『ゆめのき病院いくの? いくいく! パパのところいく!』


 病院へ行くことを告げると、拓斗は喜んで紬の手を握ってくれる。罪のない笑顔が夕陽色に輝くたび、罪状まみれの我が身に刻まれたしわの深さがいっそう浮き彫りになって、紬の胸は締め付けられるように苦しさを増した。

 いちばん近くに寄り添っているつもりだったのに、淳のことを助けてあげられなかった。

 そして今なお、ひとりの女子高生とその父親に、絶大な苦痛を与え続けている。

 思えば、ずいぶん罪深い人間になってしまった。




 ゆめのき病院のある街区から立川駅までの道は“サンサンロード”と呼ばれる歩行者天国になっていて、広々として歩きやすい。園児の手を引いて歩くには安全な道だ。


「あ、モノレール」


 頭上の高架線路を滑ってゆく箱形の車両を、口をぽかんと開けた拓斗が目で追う。モノレールも、線路も、建ち並ぶビルや拓斗の横顔も、今は日暮れの空と同じ青紫色。すっかり遅い時間になった。

 モノレールの尾灯が駅舎の中に消えてゆくのを見届けてから、ね、と声をかけた。


「今日はご飯食べて帰ろっか」

「うん! そうするそうするっ」


 拓斗も乗ってくれた。ほっと一息ついて、行く先の候補を脳裏に並べ立ててみる。ここは多摩最大級の繁華街、立川。その気になればどんな店にも行けるのが強みである。

 紬の側から何かを提案すると、拓斗は決まって「うん」と言ってくれる。拒否したり文句を言うことは少ない。以前、あまりにも拒まないものだから不思議に思って理由を聞いたら、満面の笑みで彼は答えた。


 ──『だってママ、「うん」って言うとにこにこしてくれるから』


 拓斗が賛成するのは自分のためではなかった。幼いながらに母親の顔色を観察して、“にこにこ”してほしい一心でうなずいていたというのである。紬は慌てて言い含めたものだ。


 ──『そんな、気なんか遣わないでいいんだよ。やりたくないって思ったら「いや!」って言えばいいの』


 それでも今なお、拓斗は「うん」と賛同するのをやめようとしない。幼い我が子に変な気遣いをさせたくはないし、紬としては正直に自分の気持ちを言える子に育ってほしいところなのだけれど、何事も自分の思うようには上手く転がってくれないものだった。

 駅前の大型デパート群が見えてきた。「なに食べたい?」と尋ねると、威勢よく「ハンバーグ!」と答えが飛んできた。よかった、それならば高額の出費にもならないで済みそうだ。ひとまず近くのファミレスを目指すことにして、スマホの地図を開いて営業時間を確認しながら、


(この子にはのびのび育ってほしい)


 なんて、胸の内に隠した思いを再確認した。

 不便なんてかけたくない。好きなものを好きと言えて、思いのままに描いた夢を追いかけられる子に育ててあげたいと思う。けれども一人親(シングルマザー)の自分では、どうしても仕事と家事にかかりきりになってしまって、拓斗とゆっくり向き合う時間を捻出するのは本当に難しい。

 片親の家庭を維持するのがこんなに難儀なことだなんて、最初のうちは夢にも思わなかった。


(うちの子よりもずっと大人とはいえ、きっと高松さんも苦労してきたんだろうな……)


 ため息をついて、空を見上げた。お世辞にも透き通っているとは言いがたい、ちぎれた雲がいくつも浮かんだ夏特有の空模様。まだらに燃えるオレンジの光が西陽の余韻を教えてくれている。


 里緒はどうしているだろう。

 あの夜空が山に沈んで、ふたたび太陽が昇ってきたとき、里緒は笑っているだろうか。

 それとも怖がりながら、苦しみながら、この広い街のどこかでまだ泣いているだろうか。

 当人にこんなことは言えないが、同じような心配を大祐に対して抱いたことはない。里緒は紬のなかでも特別な存在だった。あの大きなクラリネット、それを吹きこなす凄まじい実力。そして、その実力にあぐらをかくことなく、笑顔で拓斗と(たわむ)れてくれる優しさ。純情さ。そんなところが好きになった。

 その想いはどこか、淳と出会ったときのそれに似ていたのかもしれない。


(ねぇ、淳)


 目を閉じて、問いかけた。まだ天国に行ったわけではないから、問いかけたいときはこうやって尋ねるようにしていた。


(私はこれでいいのかな。新聞記者の私にしかできないこと、一生懸命に取り組んでいれば、いつかあの子の信頼も取り戻せるかな。……あなたのときみたいに、手遅れにならずに済むのかな)


 答えが返ってくることはない。聞こえるのは雑踏と、話し声と、モノレールや車の走る音と、それからビルの谷間を吹き渡る風の()き声ばかりだ。

 紬は目を開いて苦笑いした。

 答えが返ってこないのも当然だった。言うべき口を彼から奪ったのも、この自分なのだから。


「明日も、頑張ろ」


 階段に足をかけると、自然と言葉が口からこぼれ落ちた。なに頑張るの? とでも問いたげに拓斗が首を(かし)げたので、楽器を胸に抱える仕草を示した。


「またクラリネットのお姉ちゃんが土手に来てくれますようにって、お祈り」

「ぼくもおいのりするっ」

「そうね。パパと三人でお祈りしよっか」

「するー!」


 デッキへの階段を上りきった拓斗が嬉しそうにはしゃいだ。目指すファミレスの近くまで来ているのを確認しながら、これ以上の(うれ)いを顔に出すことのないように、紬は頬をそっと叩いて悲嘆を追い出した。








「私ね、前からこうやって、高松さんとゆっくり話せる機会ないかなーって思ってたんだ」


▶▶▶次回 『C.120 夜半の窓辺で【Ⅰ】』

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