C.118 初めの一歩
登校拒否が十日ほども続くと、見慣れていたはずの弦国の景色もいくらか新鮮に映った。たとえ目がテスト用紙に向けられていようとも、音が勝手に違和感を集める。陽の光の目映い白亜のグラウンドに響く、大会間近の野球部員たちの声。階段を通して落ちてくる管弦楽部のパート練の音。時計の針が秒を刻む音。窓辺に集まった何羽もの鳥が、さえずり語り合う声。
欠けているのは、いつもの教室にあふれていた雑多な会話だ。
(……もうすぐ夏休みだもんね)
難解な問題に頭を悩ませ、逃げ場所がほしくなって外を眺めるたび、散りばめられた音のかけらに耳を傾けながら、里緒は一年ぶりのイベントの到来を肌に感じた。
待ちに待った、夏休み。
いじめられながら登校していた中学二年生の頃など、夏休みに入ってクラスメートと顔を合わせずに済むというだけで、どれほど嬉しかったか分からない。
けれども今度の夏休みは、素直に『嬉しい』といって受け入れることはできそうもなかった。だって、クラリネットが吹けない。応援演奏に加われるかどうかも危ういし、コンクールなんて現状もってのほか。いつまでこんな状態が続くのかさえ、まったく不透明のまま。
はぁ、と嘆息が漏れて、里緒は問題に目を戻した。問題用紙も、回答用紙も、窓の外の太陽に照らされて目が眩むほどに輝いている。こんなちっぽけなものさえ明るく光り輝かせられる、あの太陽みたいになりたい、と思った。
(冷房が効いてる教室にいるから、そんなこと思えるんだろうな……)
季節は夏。うっすらと額を覆った汗を制服の袖で払うと、採点中の答案から顔を上げた監督の先生が「あと五分」と機械的に告げた。
昼食を挟んで四教科の追試を受け、へろへろになりながら音楽室へ向かうと、そこではちょうど打楽器がセクション練に励んでいるところだった。
激しいドラムスの演奏が響いている。聴き手の心と身体を疼かせる鮮やかなタム回し、リムショット、高速で繰り出されるクローズド・ハイハットの正確無比なビート。腹部に溜まる大音響を弾かせ、心地よく奏でられていたドラムスの鼓動は、里緒が音楽室のドアを開けたとたん、驚いたように止んでしまった。目を丸くしていた打楽器セクションの二人は、ドアのところに突っ立つ里緒を目にして、胸を撫で下ろすように表情を和らげた。
「誰かと思った」
「びっくりさせやがって」
「あっ、あのあの、お邪魔してすみません……!」
里緒は飛び上がって自分のカバンのもとまで走った。一刻も早く楽器を取って、迷惑になる前に木管セクションのところへ行かなければ──。あまりにも気が動転していたものだから、自分がクラリネットを持ってきていないことにも気づかぬままキャリーバッグを必死に漁った。ない、ない。楽器の姿がない。
半泣きになった里緒の背中に、焦んなよ、と徳利が笑いかける。
「もうすぐお迎えが来ると思うぞ」
「お、お迎え?」
余命宣告でもされたのだろうか。あいにく、里緒の希死念慮は花音と紅良によって希釈されてしまったままだ。
怪訝な顔で尋ね返すや、背後で不意に誰かがドアを開き、聞き馴染みの声が耳を打った。
「試験、終わったのね」
お掃除組のリーダー、香織だった。お迎えとはこれのことらしい。跳ねる勢いで起立した里緒は、やっとの思いで「はい」と喉から弱々しい返答を搾り出した。
「勉強頑張って疲れたでしょ。練習前にちょっと休憩していく?」
「えと、いいです……。皆さんだって頑張ってるのに休んでいられないから」
スカートのひだを握りながら誘いを断ると、遠慮しなくていいのに、と香織は眉を傾けた。
「そこの打楽器だってさっきから練習と関係ない曲を叩いて遊んでるところだし、気にしないでいいんだよ」
「げ、バレてたんですか」
ドラムセットに腰掛けていた元晴が呻いた。
「その曲、私も知ってる。こないだ発売されたばっかりの【CORDELiA】の新曲でしょ」
わざと示すように微笑んだ彼女は、手にぶら下げた紅茶のペットボトルを振りかざした。
遠慮しないでいい、無理はさせられない──。そんな心からの提案なのだと分かってはいたのだけれど、里緒にはやっぱりうなずくことはできなかった。もしも怠けている姿を同学年の仲間たちに見られたら、また、嫌われる。すでに打楽器セクションの邪魔をして、元晴たちに不愉快な思いをさせたばかりだというのに。
「……頑張り屋さんだね」
苦笑した香織は、おいで、と言って里緒を音楽室から連れ出した。
練習場所に選んだのは講堂の舞台上だった。普段は合唱部の活動に用いられている場所だが、すでに合唱部は午前中の活動を終えて帰宅した後だという。ここなら声や息がよく響くので、鍛錬の成果を実感しやすそうだ。フルートを脇に置いて教本や風船を並べながら、香織は突っ立ったままの里緒を椅子に座らせた。
「この四日間の里緒ちゃんの目標は、一音でもいいからクラリネットを吹けるようになること。四日間とも私が付き合うことになるから、よろしくね」
「あの、いいんですか。長浜先輩にだって自分の練習が……」
首をすくめながら里緒は問い返したが、「いいの」と香織は遮った。
「うちのパートには菊乃ちゃんがいるから心配いらない。それに、同じ美化係で付き合いのある私の方が、何かと都合もいいだろうしね」
香織の言うことはもっともで、そして同時に里緒の求めている答えではなかった。こうして誰かに負担を強いているだけで、今にも心が押しつぶれそうだというのに──。座面に食い込んだ太ももが痛くなって、誤魔化すように里緒は姿勢を変えた。
香織は音楽準備室から予備のクラリネットも拝借してきていた。里緒のそれと比べると長さは三分の二ほどしかない、ごく普通のB♭管ソプラノクラリネットである。現状確認のつもりで管体を組み立て、香織の指示通りに吹奏を試みた。案の定、口は何の音も発しなかった。
「吹けない理由が知りたいよね」
つぶやいた香織が口の形のチェックにかかった。身体の力を抜いて、下唇は下の歯にちょっとかぶせて、リードは噛まず、上唇は歯を覆うように。……やはりアンブシュアに問題はないようだ。姿勢も、よし。
「腹式呼吸はできてる?」
「できてると思うんですけど……」
クラリネットを口から離して、すう、と息を吸い込んだ。勢いよく気管を下り落ちた吸気は肺を肋骨の下に向かって押し広げ、行き場のなくなった内臓が下腹部に押し出される。つまり下腹部が膨らめば、腹式呼吸ができていることの証明になる。
「ごめんね」と断りを入れた香織が制服の下へ手を入れて、キャミソール越しの腹に手を当てる。里緒はその場で跳ねそうになったが、突き上がる衝動を必死にこらえて腹式呼吸を繰り返した。一回、二回、三回、四回。
「ちょっぴり弱いけど膨らむね。さすが、里緒ちゃん」
香織は微笑んだ。どうして微笑むのか里緒には理解できなかった。
そのまましばらく、腹式呼吸の練習を続けてみた。クラリネットにも触れていなかったこの十日間、腹式呼吸ともずいぶん疎遠な状態が続いていたが、繰り返していると徐々に感覚がよみがえってきて、里緒の下腹部は穏やかに熱を持ち始めた。
「マッピだけで音、出してみようか」
マウスピースを取り外した香織が、それを里緒に手渡してくれた。すぐさま、アンブシュアを作ってマウスピースをくわえ、息を吹き込んだ。ぴぃ、と軽い音が迸った。
「出たね!」
香織が嬉しそうに言ったが、里緒はうなずくことができなかった。マウスピース単体で音を鳴らすのは難しいことではない。管体があるのとないのとでは、吹いたときの抵抗の大きさがまるで違う。
「その……管体ください」
「待ってね。取り付けてあげる」
里緒の手から取ったマウスピースを、香織はクラリネットの先端にふたたびねじ込んで装着する。手渡されたものはずしりと重たくて、里緒は一瞬、顔をしかめてしまった。
できない気がする──。
不快な予感を振り払うつもりでクラリネットをくわえた。だが、いくら息を吹き込もうとも、やっぱりクラリネット独特の柔らかい音が響くことはなかった。
「うーん」
後ろ手をついて座り込んだ香織が唸った。
「なんでダメなんだろう」
嘆きたいのは張本人の里緒も同じだった。アンブシュアも姿勢も合っていて、腹式呼吸だってできているのに、音が鳴らない。普通に考えれば、そんなことがあるはずはないのだから。
重たいクラリネットを握りしめるたび、心が重たく沈み込む。
(私、ほんとに吹けなくなったんだな……)
泣きたくなった。いっぱいいっぱいの胸がはち切れそうに膨らんで、そこから送り出された呼気がクラリネットの手前で虚しく漏れるたび、銀色のキイに反射する自分の顔が憎くなった。惨めに思えた。自己嫌悪と悲観が募った。それでも懸命に涙をこらえて、繰り返し、繰り返し、握りしめたクラリネットに息を吹き込んだ。
泣いたらダメ。
泣いたらおしまいだ。
無力な自分を認めるわけにはいかないのだ。まだやれる、どこかに希望はあるって、信じていたいから──。
「けほごほっ」
汚い音が弾けた。「噎せたね」と笑って手を伸ばした香織は、ゆっくりと円を描きながら、うずくまって咳をする里緒の背中を撫で回してくれる。里緒は蚊の鳴くような声で喘いだ。
「ごめんなさい……。私、ちっとも……」
「まだ四日間もあるんだから。焦らないで、ゆっくりやろう」
香織はささやいた。いつかの千明を思わせる、優しい声色だった。
「ね。〈クラリネットをこわしちゃった〉って童謡、知ってるでしょ」
何のことだか分からなかったが、里緒はうなずいた。知らない日本人は少数派のはずである。サビの不可解なカタカナ語がコミカルで愉快な、独特のリズム感を持つ童謡だ。パパからもらったクラリネットをこわしちゃった、音が出ないといって、歌詞中の主人公は楽器の持ち主の父に怯えている。
「あれってフランスの童謡が元になってるんだけどね。原曲の歌詞、日本語とはずいぶん違うんだよ」
香織は目を閉じて諳じた。
「“僕のクラリネットの「ド」の音が出なくなっちゃった。ああ、もしもパパがこのことを知ったら、きっと「おや!」って言うだろう”」
「壊してないんですか」
おずおずと尋ねると、香織はちょっぴり得意気に口角を上げた。香織がそんな表情を浮かべるのは初めてのことではないかと里緒は思った。
「そういうこと。原曲はね、クラリネットを上手く吹けない子のことを、お父さんが優しく指導してあげる歌なの。“一歩一歩、リズムに合わせて吹いていこう。大切な仲間よ”……ってね」
サビのカタカナ語“Au pas, camarade”の解釈は人によって大きく分かれるが、“Au pas”の原義は『規則正しくステップを踏む』。そして“camarade”は『仲間』や『同志』。そこから、『父親がリズム感のない我が子に演奏の手ほどきをする曲』という解釈が生まれた。ナポレオン施政下のフランス軍で歌われていた行進曲の歌詞を改変したことで生み出されたといわれるこの曲は、実際には楽器を壊した子供の悲嘆を歌ったものではない。我が子に寄り添い、鼓舞する親の歌なのだ。
リズム、と里緒はつぶやいた。他人のテンポに合わせるのが苦手な里緒にとって、その単語はずんと重たい響きを伴いながら胸のなかに落ちてきた。
「リズムが合わないと合奏って成り立たない。理論的な裏付けは何もないけど、楽器も同じなんじゃないのかなって私は思うの。息の流し方を調えたりリードを変えてみたり、そうやって細かな調律を繰り返すことで奏者と楽器のリズムがぴったり一致したとき、そこに音が結ばれる。きれいに一致していればいるほどきれいな音が出る。いまの里緒ちゃんに必要なのは、上手く噛み合わなくなってしまったそのリズムを、もう一度きれいに整えてあげることなんじゃないかな」
香織は気恥ずかしそうに微笑した。
「私の持論だけどね」
里緒は握りしめたクラリネットに目をやった。見慣れた金色のキイも、首から管体を吊り下げるネックストラップの姿も、そこにはない。ひんやりと冷たいクラリネットの管体からは、なんの脈も感じ取ることはできなかった。もしかすると、昔は無意識にそれができていたのかもしれない。
抽象的だけれど香織の言葉には説得力がある。そして、それは同時に、抗いようのない失望と絶望の雨を里緒の頭上に降らせていった。
(そんなの、どうやって取り戻したらいいのかも分からないよ)
アンブシュアも作っていないのに、いつもの癖で下唇を噛んでしまった。悲しくて、情けなくて、小刻みな震えが止まらなかった。
焦らないで、と香織は繰り返した。甘くて暖かい声だった。
「どんなに吹けなくたって私は里緒ちゃんを見放さない。ずっとここにいて、音を聴いてる。だから、ね。楽器と里緒ちゃんのリズムの重ね方、一緒に探していこう」
里緒は香織の方を見られなかった。三年生の醸す包容力はあまりにも大きくて、足首の下から見る間に全身が飲み込まれてゆくのを覚えた。
ぽたり。
こらえきれなかった涙が舞台に弾けて割れたが、香織は何も指摘することなく、クラリネットを噛みしめる里緒の隣に黙って寄り添ってくれた。
「私はこれでいいのかな。あなたのときみたいに、手遅れにならずに済むのかな」
▶▶▶次回 『C.119 目覚めないひと』