C.117 校内合宿スタート
はじめたち三年生の手によって、臨時合宿の準備は粛々と進められていった。レンタル布団の契約は完了、宿泊に使う教室や講堂の貸借手続きも済ませ、三食を賄ってもらうこととなる学生食堂にも無理を言って協力を取り付けた。合宿二日目には芸文附属の矢巾、四日目には応援部のメンバーを呼び寄せ、練習に参加・助力してもらう手はずも整った。
──『もし参加するにしても、里緒ちゃんは試験優先で大丈夫だって』
合宿準備の進捗を報告した花音は、ベッドに寝転んで単語帳をめくりながらニコニコと笑窪を作っていた。
──『お金のことも問題なさそうだし、里緒ちゃんのお父さんの許可も下りたんでしょ?』
──『うん』
不本意ながらも里緒はうなずき返した。参加費として提示された金額は思いのほか安く、わずか一万二千円に過ぎなかった。これなら、里緒の口座に入っているお金だけでも十分に負担できる。ついでに先日、合宿の件を聞き付けた千明が大祐に電話を掛けて、『参加させていい』との言質を取ってしまった。合宿参加のハードルは着実に下がってきていた。
──『でも、私、クラリネットも楽譜もみんな家に置いてきちゃったのに……』
──『まずは吹けるようになることから始めればいいの! 使いたくなったら私のバトンちゃん貸してあげる』
──『それはそうだけど……』
なおも里緒は口ごもった。花音はともかく、他の部員たちは果たして里緒のことをどう思うだろう。今さら復帰してきて図々しいやつ、とでも蔑まれるのではないか。それが怖くて、いつになっても首を縦に振ることができない。
──『行っておいでよ』
紅良からも重ねて説得された。
──『しんどかったり逃げ出したくなっても、花音がいる。私がいる。私たちがいる限り、壊れるまで追い詰められるなんてこと、有り得ないから』
膝を抱えて体育座りになりながら、うん、と里緒は呻いた。
分かってはいるのだ。今の里緒には味方がいる。里緒が勇気を出して新しい世界へ踏み出せば、頽れそうになっても二人は支えようとしてくれる。
──『あとは高松さん自身が、参加したいと思うかどうかだよ』
紅良の口調は終始、柔らかかった。押された背中がふわりと浮き上がって、その先に自分の選ぶべき結論を目にした里緒だったが、ついにそれを言葉に表すことはできず、手近にあった布団にくるまってうつむいた。
意気地なしと言われても仕方ない。
この弱さこそが、里緒の本質だから。
こうしてありのままの姿を見せられる相手がいるだけでも、里緒にとっては大きすぎる進歩なのだ。
──貸してもらったキャリーバッグの中には、体育着や着替え、肌着類、タオル、充電器、それに試験勉強用の教材なんかが詰め込まれている。立川の家に行く時間が取れなかったので、服はみんな花音や紅良からの借り物だし、居間に放置したままのクラリネットも回収できなかった。
それにしても重くて仕方がない。痺れてきた指を持ち手から離した里緒は、坂の上にそびえる大きなガラス張りの建物を見上げて、浅く濁った息を吐き出した。七月十一日、木曜日。天気は心地のよすぎるほどの快晴であった。
「着いたねっ」
花音が元気に叫んだ。
目の前にあるのは弦国の校舎である。ここはいつか、入学式の前に転んで、紅良や花音に助けてもらった場所。一息をつくのもそこそこに、車輪付きのキャリーバッグを引きずって二人は校門をくぐった。ごろごろと盛大な車輪音が壁に響き渡って、ただでさえ小さな里緒の心臓はさらに縮まった。もっと音を立てないように走れないの──と。
三泊四日の臨時合宿がいよいよ始まる。
逃げるという選択もできたのに、結局、こうして参加する道を選んでしまった。準備の整いきらない里緒の心の中は、冷たい予感と恐れに隅々まで満たされていた。
(嫌な顔されたらどうしよう。文句言われたり、怒られたりしたらどうしよう……)
四六時中そんなことばかり考えていたせいか、集合場所の音楽室までの道はいやに早く過ぎ去っていった。あっという間に階段を登り、廊下を通り、音楽室のドアの前に立った。ドアの隙間から無数の話し声やカバンの開け閉めの音が漏れ聞こえているのを聞きつけ、里緒がその場に立ちすくんでいると。
「お疲れさまでーす!」
花音が勢いよくドアを開け放った。
一斉に振り返った管弦楽部の部員たちが、そこに里緒の姿を認めた瞬間、声を失った。しん、と音楽室は不気味に静まり返り、里緒の頭と心は破裂寸前にまで膨らんだ。
(あんな目立つ開け方しなくても……!)
緊張と恐怖で今にも過呼吸に陥りそうだ。一年の子たちの顔、見たくない。先輩たちの顔も見たくない──。つかつかとこちらへ歩み寄ってくる鋭い足音を耳にして、あまりの恐怖に里緒は目を閉じた。そっと手を置かれた肩が数センチほども跳ね上がった。
「よく来てくれたね」
目を開けると、そこには部長の姿があった。
「……はい」
指名手配犯のような心境で里緒はうなずいた。声も、肩も、震えを抑え込むのに精一杯で、管楽器奏者とも思えぬ弱々しい返事になった。
はじめは部員たちを振り返り、これで全員揃ったな、とつぶやいた。飛ばされるであろう指示を先んじて理解したのか、舞香や元晴が素早く椅子に駆け寄って並べ直しにかかる。菊乃の姿もあった。ひどく悪い顔色で、ドアの方には目もくれずに椅子を動かしている。率先して作業に加わりながら椅子の並べ方を説明して回るパーカスの徳利の向こうで、クラリネットのケースを抱えたまま美琴はうつむいていた。
いつもと様子が違うにせよ、そこには見知った顔の仲間たちが勢揃いしている。
里緒はその姿を、音楽室の外に立ったままぼんやりと眺めていた。たった数日ばかりの欠席で、慣れ親しんだはずの音楽室が異世界のように思えた。
「今日の試験、いつ?」
はじめが尋ねた。慌ててスマホを開いて、カレンダーに記入した追試の日程を調べた。
「十時四十分から英語表現、十一時四十分から化学基礎、十三時十分から世界史A、十四時十分から倫理……です」
「じゃ、練習は三時頃から始めよう。明日もそんな感じ?」
「教科は違いますけど、時間は同じだと思います。……あの、」
「クラリネットはなくても大丈夫」
求めていた答えに先回りされてしまった。しぶしぶ、はじめの後について音楽室に入った。部を引っ張る先輩の大きな背中に、強い既視感が目の奥で弾けたのを覚えながら、所定の位置にカバンを置いて席についた。
おはよ、と声をかけてくれたのは学年代表の緋菜だけだった。必死に肩を窄めて腰かけた里緒は、その緋菜にすら満足にあいさつを返すことができなかった。
「──それじゃ、四日間の合宿を始めていきたいと思います」
扇形に並べられた椅子の囲む先に立った部長と副部長が、声を少し張り上げた。「はい!」と返事が音楽室に轟いた。これには里緒も、小さな声で加わることができた。
「急でいろいろ大変だったと思うけど、元気にやっていきましょう。合宿の日程と食事や風呂に関しては基本、こないだ配って回った栞の通りです」
「あ、それについて何点か変わったところが──」
手元の栞を取り上げた洸が、変更点の説明を順に始める。里緒も栞に目を落とした。こういうとき、目のやり場があるというのは本当にありがたいことだった。
変則で動く里緒を除けば、基本的には午前中に三時間半、午後に四時間半の練習。午前中はパート練が中心で、午後はセクション練や全体合奏に軸足を置くようだった。近隣の家に配慮してのことか、夜は三十分ほどのミーティングがあるばかりで練習はなし。ずいぶん自由時間の多い日程である。
気がかりなのは、最終日のミーティングが三時間にもわたって設定されていることだった。
「──というわけで、体育館のシャワールームは使えないことになりました。行きたい人だけ近くの銭湯に行くってことにしていたと思うけど、仕方がないので予定を変更して全員で行きます。それに伴ってミーティングの開始時刻も繰り延べになるので、夜九時頃から始めることになりそう。以上、かな」
洸の補足が終わった。普段だったら愚痴や文句のひとつふたつ上がってきそうなものだが、相変わらず部員たちからの反応は皆無に等しい。どことなく剣呑な空気のなかで里緒が息をひそめていると、「それと」と部長が菊乃に向き直った。
「コンクールへの参加不参加の件は、最終日のミーティングで話し合うことにしようと思う。それでいいね?」
「……だから三時間も組まれてるんですね、これ」
「そういうこと。ま、三時間みっちり話し合うことになるとは思わないけど」
菊乃は力なく微笑して、首を振った。
「分かりました。お任せします」
なんのことだか里緒には分からない。コンクールへの参加不参加? 出るのは確定ではなかったのか? ──しかしその疑問の解は、すぐに自分自身の存在によって満たされた。
(そっか。私が音、出せなくなったから……)
唇を噛み、里緒はうなだれた。このまま自分がクラリネットを吹けないようなら、独奏者として舞台に立つことはできない。美琴を代役に立てるとすると、今度はピアノが合奏から消えてしまう。里緒ひとりが抜けることの影響はあまりにも大きいのである。
里緒はまだ、この部に現在進行形で迷惑をかけ続けているのだ。つらい自覚が内側から胸を痛めつけた。
「今回、甲子園の予選が思いがけず順延になったことで、この合宿は実現しました。三泊四日の練習は原則として応援練習、それから数か月後に見えてくるであろう文化祭や地区音での演奏に向けての基礎力アップに活用してほしいと思っています」
一歩前に進み出たはじめは、ずらりと並ぶ二十四人の部員たちに視線を走らせ、「ただし」と言い置いた。口元にこそ笑みは浮かんでいなかったが、その目付きは不思議と穏やかで、里緒に特段の恐れを抱かせることはなかった。
「こないだも言ったけど、強化合宿の類いのつもりで開いてるわけじゃないってことは覚えておいてほしい。栞を見てもらえば分かる通り、練習の合間にはかなりの隙間時間があると思います。何をしてくれたって構わないからね。ちなみに私は前に八代に教えてもらった音ゲーをやり込むつもり」
マジすか、とファゴットの智秋が目を見張った。涼しい顔ではじめは続けた。
「普段と同じように練習してるけど、寝食はみんな一緒。そんな三泊四日だと思っておいてください。いいね?」
立て続けに「はい」と返事が飛んだ。揃っているようで揃っていない、いつもの管弦楽部らしい返事だった。
はじめは暗に、肩の力を抜けと伝えようとしている。
そんなこと、里緒の身分ではできるわけもないのに。
ただでさえ強張っていた肩にいっそう力が入って、鈍い痛みに耐えながら里緒は床に目を落とした。カーテンの開かれた窓から煌々と差し込んだ外の光は、生真面目に揃えた両足のつま先の手前で止まっていた。
「だから、ね。楽器と里緒ちゃんのリズムの重ね方、一緒に探していこう」
▶▶▶次回 『C.118 初めの一歩』