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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第四楽章 蒼の涙とアイネクライネ
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C.116 苦悶の取材

 





 振り向けば、セキュリティゲートを通過したオフィスワーカーの群れが、互いの話に興じながらビルを出てゆく。時刻は午後七時半。スクエアタワー二階のオフィスエントランス前に店を構える人気(ひとけ)のまばらなカフェには、大祐、亮一、紬、それから紬の連れてきた他の記者が揃った。


「すみません。お仕事もお休みだというのに、こんな形でお呼び立てすることになってしまって」


 開口一番、紬が頭を下げる。大祐と亮一は顔を見合わせた。今日──七月十日はラックタイムスの創業記念日で、会社は休みなのだ。なので今日は夕方にホテルを出て、帰宅の人波を横目に流しながら六本木までやって来た。


「正式な取材ですから、本当は土曜日か休日にでも場を設けるべきだったんですが……」

「私はいいですが、それより記者さんの方は大丈夫だったんですか。まだ小さいお子さんがいるんでしょう」


 ええ、まぁ──。曖昧に笑った紬を前に、大祐は溜まったつばを一息に飲み込んでから、口直しのつもりでコーヒーカップに唇をつけた。さっさと話を終わらせた方がよさそうだ。

 改めて、紬と隣の記者から名刺をいただく。自分と亮一も名刺を差し出す。受け取った名刺に刻印された【日本産業新報社】の文字に、凝り固まった肩が弱々しい痛みを放つのを覚えた。

 自分の意思で決めたことだし、相手の記者のことも見知っているとはいえ、とうとうこうして大手全国紙の取材を受けることになるとは。


高松(こいつ)だけでは頼りないんで、俺も同席させてもらいますよ」


 亮一が言った。紬の横に座る若手の男性記者も、頭を下げて自己紹介した。


「仙台支局所属の幸手(さって)と申します」


 幸手(さって)達也(たつや)。弱冠二十代後半にして、『仙台母子いじめ自殺事件』取材班の中心に立つ記者だという。わざわざ仙台から来てもらってしまったことを謝ると、とんでもないと彼にも頭を下げられた。もっと早くこうして取材させていただくべきでした、我々の落ち度です──と。


「遅くなる前に、始めさせていただきますね」


 紬が音頭を取って、場の空気を整えにかかった。一応、想定される質問を一覧にしたメモを手元に広げて、大祐は心の準備ができているのを確かめた。

 大丈夫。

 どんなことを聞かれても、まっすぐに背筋を伸ばして、記者(かれら)の目を見て、自分の話したいことや話せることだけを答えればいい。


「高松」


 (ささや)いた亮一にうなずき返して、声を張った。


「──始めてください」




 質問内容は多岐にわたった。いじめの具体的な態様はどのようだったのか。母を失った里緒はどんな反応を見せたのか。どのような経緯で仙台を離れ、上京することになったのか。里緒や大祐に身体面や精神面での影響は出ているのか。……云々。

 大祐はできるだけ事細かに、誠実に言葉を選んで、それらの問いかけに答えていった。


「私はあまり具体的なことは知りませんでした。接している時間が長かった分、そのへんのことには妻の方が詳しかっただろうとは思うんですが、あいにくと妻は死んでしまって……。娘本人から聞こうにも、本人の心情を考えるとなかなか踏ん切りがつかなくて、その……まだ聞き出せずにいます」

「妻が死んでからの三日三晩、泣き続けていました。もともと泣き虫な子でしたが、なんというか、(たが)が外れたみたいでした。いじめを受けていた娘にとって妻は大きな心の支えだったので、それだけショックは大きかったろうと思います」

「娘が『仙台の高校には行けない』と言い出したのがきっかけだったと思います。本人のことを考えると無理もないだろうというか、高校は通信制でもいいかと思っていたところだったので、それなら県外の高校に行こう、多少なりとも慣れのある東京に戻るのがいい、ということで話がまとまりました」

「私の方は、特には……。結果的には古巣の職場に戻れたことになるし。ただ、娘は今でもまれに過呼吸を起こすことがあるんです。日中であっても夜であっても、昔の記憶を思い出すと気持ちが参ってしまうみたいで」


 大祐の発した返事の一字一句、一挙手一投足までも見逃すまいとばかりに、二人の記者は目にも止まらぬ勢いでキーボードを叩き、手帳にペンを走らせる。店内を彩る穏やかなクラシックの音色に乗って響く、キータッチの音。ペン先が紙を引っ掻く音。大祐には、それらの雑音が不思議と耳障りには感じられなかった。


「その、私たちの立場でこういうことをお聞きするのは心苦しいのですが……」


 紬が尋ねる声のボリュームを絞った。


「世間を流れている報道について、どう思われていますか。憶測も含めてたくさんの情報が飛び交っていること、大祐さんはご存知かと思いますが」


 仕事として、大人として、取材対象者に向き合う紬の眼差しは真剣そのものだった。一瞬ばかり目をそらして、どう答えたものか思案した。


「……気分のいいものじゃないですよ、そりゃ」


 大祐は口角を上げた。今さら本音を包み隠したところで、何が守られるわけでもないと思った。


「せっかく苦労して、周りには秘密で東京に出てきたんだから。私も、それからたぶん娘も、これっきり仙台での悪い記憶とは縁を切れると思ってたんです。そうでなかったら、わざわざ手間かけてこんなことをやってない。……正直、日産新報さんが一件を報じているのを知った時は、驚きと失望で頭のなかが真っ白になりました」


 ですよね、などと紬が控えめな相づちを打つ横で、幸手は凄まじい勢いでキーボードに指を滑らせる。

 向こうも仕事とはいえ、かつて、こんなにも誰かに真剣に話を聞かれたことがあっただろうか。手のひらに薄くにじんだ冷たい汗を、大祐は膝に押し当てて誤魔化した。

 パワハラを受けていたのを相談した時も、東京本社への自己都合異動を申し出た時も、こんな風に丁寧に話を聞いてもらえたらよかったのに。


「報道を見聞きするだけの人間はいい身分でしょう。他人の不幸は蜜の味って言葉もある。でも、我々はそうじゃない。私も、娘も、今まさに苦しんでいる最中なんです。できることなら報道も何もかもやめてもらって、そっとしておいてほしい。自分の手で解決させてほしいと思ってるくらいだ」

「……そうですよね。やはり」

「あまり大っぴらになってほしくないので紙面には書かないでほしいんですが、お約束いただけますか」


 二人が身を乗り出した。一呼吸をおいて、大祐は言った。


「いま、仙台市を相手取って訴訟を起こす準備を進めています。弁護士の方と一緒に訴状を用意している段階です」

「おい、それって……」


 我慢ならなかったのか、それまで黙っていた亮一が口を挟んだ。大祐はうなずいて返した。


「前に訴訟の起こし方を聞いたことがあっただろ。あの頃から、提起の計略を練ってたんだ」


 たちまち亮一は納得の面持ちに変わった。「法廷で戦われるおつもりがあるのですね」と紬が尋ねた。これにも大祐はうなずいた。


「起こしたことの責任はきっちり取ってもらわねばならない。大人だったら、そんなのは当たり前のことだと思います。犯した過ちを認めることもできない人間に、偉そうに教育者を名乗る資格はないのではないですか」


 こうして口に出して誰かに説明すると、まとまった答えを持たなかった決意の姿が明瞭になる。これで後戻りはできなくなった、と思った。不安こそあれ、退路を断つことに後悔はなかった。

 まずは里緒へのいじめに関して、学校側を監督義務違反で訴える。その公判の過程で瑠璃の件に触れられるならば触れたいし、関係者の全貌が浮かび上がってきた暁には、今度は瑠璃を追い詰めたママ友たちを相手取って民事訴訟を展開する──。大祐はそんな青写真を描いていた。正直、体力がどこまでもつのか不透明だし、最後まで実現できる可能性は低いとは思う。けれども目の前の記者たちは大きな衝撃を受けたようで、何度も顔をあげて大祐を見ながら一心不乱に手元へ書き込みを刻んでいた。


「裁判を起こすと考えておられること、里緒さんはご存知なんですか」


 ペンを止めた紬が問うた。大祐はうなずいた。


「話しました。……反対されましたがね」

「反対、ですか」

「裁判なんか起こしたってお母さんは帰ってこない、と言われまして」


 答えながら、窓の外に目をやった。苦笑いを浮かべたつもりだったが、窓ガラスの向こうで夜景と重なる自分の頬に“笑い”の様子は窺えなかった。

 里緒がなんと言おうと訴訟を起こす意思に揺るぎはなかった。いじめを受けた人間にとって、唯一にして最大の対抗手段は法の裁きを求めることなのだ。生きている間に報われることのなかった、哀れな瑠璃のために。こうして生き永らえてしまった自分のために。……それから、里緒のためにも。

 大祐はこの無謀な挑戦を、何としてもやり遂げなければならない。


「金なんか支払ってほしいんじゃない。ただ、法廷闘争を通じて、先方に自分たちの責任を自覚してほしいだけなんですよ。いつかきっと娘も理解してくれると思うんですが……」

「でもお前、相変わらず家には帰ってないんだろ。どうやって理解を求めるつもりなんだよ」


 亮一の不安げな声色が耳にこびりつく。大祐が独りでホテル暮らし中であることを、亮一にはすでに白状していた。


「そのうち帰るつもりだよ。急を要するってこともないし……。里緒のことは今、あの子の知り合いの家に預かってもらってるんだ」

「預かってもらってる、って」

「……今の俺じゃ、里緒とまともに向き合うことはできそうもないから」


 渋味の増したつばを飲み込んで、大祐はうつむいた。亮一からの返答はなかった。

 実の娘と向き合う努力をしていないことなんか、亮一に言われるまでもなく自覚している。たぶん、今の自分にとって何よりも大変なのは、裁判を起こすことでも新聞社の取材を受けることでもなくて、里緒と膝をつき合って本音を交わすことなのだと思う。


「娘さんに対する今のお気持ち、聞かせていただくことはできませんか」


 怖々と紬が尋ねてきた。うつむいたまま、大祐は口の端を崩してみた。どうやっても自然な笑顔にはならなかった。


「あなた方はご存知でしょうが、妻の受けたママ友いじめの発端は娘へのいじめだったみたいなんです。娘がいじめられなければ、妻もいじめられずに済んだのかもしれない。自殺なんかしないで済んだのかもしれない。……妻は自殺の理由を書き残さなかったので、本当のところはもう、分かりませんけどね」

「……そうですか」

「娘は私のたったひとりの家族です。でも、それと同時に、妻の命を奪う原因になった存在でもあるのかもしれない。私自身にも見当がつかないんですよ。どんな風に接するのが正解なのか、どんな風に接していきたいのか」


 緩みかかった目をしばたかせて、大祐は今度こそ本当の苦笑いを浮かべた。


「……情けない父親と思われるでしょうけど」


 娘への愛情を素直に注いでやる勇気も持てず、おまけに愛情の在処(ありか)さえ分からなくなった、弱い父親。情けない父親。いくら(そし)りを受けようとも、それが自分の現状なのだった。

 里緒のことには触れるべきでないと思われたのだろう。そこから先、取材の話題は大祐自身や瑠璃に関することに絞られていった。紬も、幸手も、変わらない面持ちでペンやキーボードを叩いていたし、亮一は窓の彼方に浮かぶ六本木のビル群をぼんやりと眺めていた。








「しんどかったり逃げ出したくなっても、花音がいる。私がいる」


▶▶▶次回 『C.117 校内合宿スタート』

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