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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第四楽章 蒼の涙とアイネクライネ
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C.115 招聘の電話

 




 ほとんど一方的に臨時校内合宿の開催を決めた管弦楽部の生徒たちは、京士郎にさらなる要求を突きつけてきた。


 ──『先生、芸文の矢巾先生とお知り合いなんですよね。一日でいいんです、合宿にいらしていただけないかどうか頼んでもらえませんか』


 とんでもないといって断りを入れようとした。知り合いといっても恩師と教え子の関係であって、立場が弱いことに変わりはない。だが、結局は押し切られ、京士郎は矢巾に電話をかけて伺いを立てる羽目になった。果たして合宿中も、こうやって便利屋扱いを受けることになるのだろうか。ため息を胸元に忍ばせ、スマホの電話帳から矢巾の番号を見つけ出す作業に取りかかった。

 並ぶ頭文字順の名前をひとつひとつたどってゆくと、ふと、数年来の懐かしさが顔を出して、少し茶けた画面の隅に潜り込んだ。

 芸文の学生だった十年前も、こうして連絡を取るために電話帳の末尾を探し回っていたっけ。単位の相談をしたこともあったし、進路の悩みを持ちかけたこともあったし、上手くいかない演奏を電話口で聴いてもらったことさえあった。

 今はお互い、指導者の身。

 まだまだ対等にはなれそうもない。

 苦笑が口をついた時、画面をスクロールしていた親指が【矢巾千鶴】の名前を捉えた。




 ──『へえ。合宿をやることになったの』


 矢巾は受話器の奥で驚きの声を上げた。


 ──『ずいぶん急じゃない。夏休み以降にやるつもりだって、前の練習の時に聞いていたんだけど』

「やむを得ない事情が重なったんです」


 里緒の名前を出さないように、見かけの理由を繕って説明した。矢巾が里緒の事件をどれだけ知っているのか、どれだけ理解してくれるのか、何とも予想がつかなかったから。


「そちらは今ごろ吹コンの出場準備でお忙しいところでしょう。日程的に厳しいようなら、そう言っていただければ生徒に伝えます。無理なお願いをすることはできませんし」


 そうね、と恩師は笑った。


 ──『それじゃあ十二日にでもお邪魔しようかしら』

「いいんですか、顧問の方は……」

 ──『うちは三人も顧問がいるもの。それに一人が一日くらい抜け出したところで、うちの子たちはどうってことないわよ。そんなヤワに育てていないからね』


 清々しいほどの言い切りに、京士郎は舌を巻きたくなった。たいそうな生徒への信頼だ。この人は日頃からいったい、どんな指導を生徒たちに施しているのだろう。


「顧問がいなくても大丈夫なのは、うちの管弦楽部も同じなんですがね……」


 思わず、ぼやいた。まだ通話中だったことに気付いて慌てて取り消そうとしたが、すでに時遅し。矢巾の声色が低くなった。


 ──『さてはまだ、部の子たちと距離を取ってるのね』

「いっいや! そんなことはっ」


 大有りだった。そこに本人がいるわけでもないのに、睨む矢巾の目付きが脳裏にこびりついて、京士郎はすごすごと身を小さくした。

 管弦楽部の生徒たちとはもう何年も心を閉ざし、閉ざされてきた関係なのだ。今さら一日や二日で変われるわけがない。部長のはじめや天童に何を言われようと、合宿に付き合うことを求められようと。

 矢巾が吐息を漏らした。


 ──『須磨くんの事情を私は知らないけど、これだけは言えると思うのよね。……あなた、自分の生徒のこと、信頼してる?』

「信頼、ですか」

 ──『放任じゃないわよ。信頼』


 どうだろう。していないし、できていない気もする。だいたい生徒を信頼するというのは、何に関してのことなのか。

 私はしてるわよ、などと矢巾はこともなげに言った。口にする一粒一粒の声の味わいが、京士郎のそれとは天と地ほど違っていた。


 ──『高校生って、私たちが思っているよりもたくさんのことができるのよ。だらしなく見えても、やるべきことを見据えればきっちり努力を重ねられる。お互いの距離の取り方を学んで、見つけて、上手く組織を回してゆける。それこそ顧問がいなくたって部活動を続けていけるくらいにはね』

「……顧問がいなくたって、ですか」

 ──『勘違いしないようにね。顧問がいなくてもいい、ってことじゃないの。高校生活の三年間は、あの子たちにとっては独り立ちの準備期間なんだと思う。庇護してくれる大人のもとを巣立って、自分たちの力で生きていけるように、日々、もがいている。それが大人の目には反抗とか反発に見えることもあるけれど、それは決して悪いことじゃない。反発を受けても笑って流して、頼られた時は黙って頼らせてあげて、だんだん大きくなってゆく彼らの背中を静かに見守る。それが私たち、高校生を受け持つ教育者の、いちばん求められている姿なんじゃないかしら』


 長い話を一気に語り終えた矢巾が、電話口の傍らに湯呑みを持ってきて中身を啜った。その雅な響きに耳を傾けながら、京士郎は自分の机に並ぶ本たちの背表紙へ、何気なく視線を放った。

 よい指揮者になるための本。

 よい指導者になるための本。

 管弦楽部との関わりを断つまでは、いつ何時も手放すことのなかった愛読書が、ねずみ色のほこりをかぶりながら眠りについていた。

 よい指揮者、か──。伸ばした指を背表紙にかけ、京士郎は本を引き出した。


(指揮者は奏者を、奏者は指揮者を信頼しなければならない。そんなことも書いてあったな)


 該当のページを見つけるのに苦心は必要なかった。冒頭、指揮者の心構えを説く項目に、いきなりその文句は載っていた。指揮者は奏者の信頼を受けなければならないし、奏者のことを心から信頼しなければならないと。

 そうでなければ、たった一本の細い指揮棒(タクト)で数多の奏者たちを整然と動かし、律することはできない。指揮者の思惑は奏者に伝わらない。そこに都合のいい以心伝心を期待してはならないのだ。


 ──『思春期の子たちを相手にするんだもの。難しいこと、苦労すること、それこそ山のようにあるでしょう。だけど、どんな時にも生徒たちを信頼することだけは忘れないであげなさい。生徒たちは生徒たちなりに、手探りで生きる道を模索しているところなんだから』


 矢巾は畳みかけた。


 ──『信頼されることで、人は成長していくのよ』


 思えば、部員たちが勝手に合宿の実施を決めたのも、それが管弦楽部にとって最善の判断になると考えてのことだった。合宿が本当に何かしらの成果を上げられるのかと言われれば、それはやっぱり未知数に過ぎない。それでも彼らは自分たちの進む道を自分たちで考えて、隣にいてもらえないかと京士郎に自ら頼み込んできた。

 ここで誠意を見せられるかどうかが、自分の教育者人生を大きく左右するのかもしれない。生徒を信じる道を選ぶか、疑う道を選ぶか──。


「……そうですね」


 やっと返すことができた返事はあまりにちっぽけで、情けなくなって本の背表紙から指を離してしまった。放物線を描いた本は棚の奥に姿を隠して、京士郎は胸に膨らんだ息を静かに飲み込んだ。


 ──『十二日は午前中から行けそうよ。お昼を跨いで夕方までは大丈夫だって、あの子たちに伝えておいてね』


 矢巾の声に丸みが戻った。柔和な音色にも険しい音色にも自在に変えられる、彼女の声はピアノみたいだと思う。

 分かりましたと応じて、広げた手帳にメモを書き込んだ。十一日から十四日までの期間には、すでに予定の記載がある。里緒の追試の試験監督と、管弦楽部の臨時合宿である。


「忙しくなるな……」


 つぶやくと、


 ──『忙しいくらいがいちばん楽しいじゃないの』


 耳元で矢巾が笑った。








「……情けない父親と思われるでしょうけど」


▶▶▶次回 『C.116 苦悶の取材』

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