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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第四楽章 蒼の涙とアイネクライネ
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C.114 思わぬ出会い【Ⅱ】

 




「期末試験、うちはまだ先だな」


 忙しなく視線を動かしながら少女は独り言ちた。こうして間近で観察してみると、彼女のセーラー服にはどことなく見覚えがあるように思った。


「もっと大変な試験がこないだ終わったばっかだし。期末のことなんて考えたくもない」

「もっと大変な……?」

「私、吹部なんだけどさ」


 少女はあごをしゃくった。見ると、彼女の横にはクラリネットのものらしき楽器用ケースが腰かけて、持ち主の買い物に従順に付き合っている。

 私と同じ楽器だ──。里緒はまたも、心の奥で熱が弾けるのを覚えた。


「ついこないだ、吹コンのAに出る人を決めるオーディションがあって。うちの吹部は人が多いからさ、どうしてもオーディションやんないと決めらんないんだよね」

「そ、そうなんですか……」

「私は落ちた。B行き」


 ためらいを挟むこともなく言い切った少女の指が、一枚のCDを掴んで引き寄せた。服ごと少女に引き寄せられたみたいに胸が歪み、反動で里緒は息を呑んでしまった。

 AやBというのは、吹奏楽コンクールにおける出場部門の種別のことである。大編成部門とも呼ばれる花形のA部門には全国大会があり、勝ち進むことで多くの審査機会を得られるが、B部門には普通、都道府県大会までの未来しか用意されていない。今、目の前の少女はずいぶん簡単に『落ちた』と言ってのけたが、それは彼女のクラリネットが全国大会で輝くチャンスを取り落としたことと同義なのだ。


「そんな……。あっあの、敗者復活とか、そういうのはないんですか。こっそり吹いたりしたら……」


 必死になだめる言葉を思い浮かべて片っ端から繋ぎ合わせたら、なんだか支離滅裂な台詞(せりふ)になった。

 一瞬、きょとんと目を丸くした少女は、次の瞬間には仏頂面の端を崩して、里緒に向かって静かに噴き出した。訳もわからず、里緒は少女の挙動を見守った。


「あんたさ、部内オーディションのことなんにも知らないんだね。普通の学校じゃ、都道府県大会の時に選ばれたメンバーが固定になるんだよ。敗者復活のシステムなんてうちにはないよ、あったらこんな風に悩んだりしないし!」


 笑いながら少女は(なじ)ってきた。


「吹部か何かに入ってるのかと思ったけど、違うの?」

「な、なんでそんな風に……」

「なんとなく。声が通って聴こえるから」


 ようやく笑い終えた少女は、細く釣り上がった印象の目で、改めて里緒のことを見回した。よく聞くと、歯の間からはまだ息が小刻みに漏れている。里緒はたまらない居心地の悪さを覚えた。


「あー、可笑(おか)しかった。こんなに笑ったの久しぶり」


 少女はCDから指を離した。すとん、と音を立ててCDは棚の中へ再び収まった。


「うん、久しぶりだな。おかげでちょっと気持ちが晴れたかも。ありがと」

「そ、そうですか……」

「気にしないでよ。オーディションに落ちたのは私の努力不足のせいだし、その結果には納得がいってる。別に八つ当たりしようなんて考えてない」


 言葉のわりに彼女の顔は()えない。なぜか、鏡に浮かぶ卑屈な自分の表情と重ね合わせてしまって、里緒は慌てて脳裏から自分の顔を追い出そうとした。しかし少女が話の続きを切り出す方が早かった。


「別にそれはいいんだけどさー、やっぱ落ちた当初は多少なりとも荒れちゃって。いま、仲間と上手くいってないんだよね。お互いの演奏の悪いところばっかり言い合ったりしてさ。そんで今も私、部活さぼって時間つぶしてるところ」


 組んだ両手を前に向かって伸ばしながら、少女は少しばかり視線を下げる。すっと腑に落ちる感覚が、里緒の腹を通り抜けた。


(人間関係のトラブルだったんだ。……私と同じ)


 里緒はうつむいた。もっとも、里緒の場合はクラリネットが下手だったから失望されたわけで、こんな子と同一視されたら眼前の少女はきっと嫌がるだろうけれど。

 この少女と自分とは、同じ問題を胸に抱えている。それだけで、こうして隣に座っているのを許された気持ちになった。


「なーんか、がっかりした。部活の仲間ってもっと正直にモノを言い合えてさ、何だかんだ言ってもお互いのこと支え合って、ひとつの目標を一緒に追いかけられる仲間なんだと思ってたけど」


 ようやく伸びを解いた少女は、口元だけを歪めて笑った。瞳の色に変化がないように見えたのは、その表面に薄い水の膜が張っていたせいか。


「ほんとはただ、馴れ合ってるだけだった。お互いの顔色を窺って、それらしいきれいごとばっかり口走るくせに、ちょっと裏側を覗けば汚らしい悪口まみれ。オーディションに落ちたこと少し愚痴ったくらいで『前から下手くそだと思ってた』だの『潔く自分のレベルをわきまえろ』だの、本性現して口汚く罵ってくるしさ。そんな風に感じてたんなら初めから言えよ、って思わない?」

「それは、その……」

「あーあ。かけがえのない仲間だ、とか無邪気に信じてた自分がバカみたい。こんなことならもっと最初から自由に、気ままに、自分のやり方を貫いてればよかった」


 少女の朗らかな自暴自棄が棚から跳ね返ってくるたびに、里緒の心は紐で縛られたみたいな痛みを放つ。黙って、うなだれた。これ以上、彼女には強がりの言葉を口にしてほしくなかったのだけれど、口下手な自分ではその思いを伝えきれないと思った。

 仲間を信じるというのは、口に出すより難しい。

 そこには裏切りに遭うリスクもあれば、仲間の存在そのものに縛られるリスクだってある。

 里緒にとって、自分を取り巻く環境は、リスクを背負ってでも信じるに値するものなのだろうか。父の大祐にしても、管弦楽部にしても、学校のクラスメートや先生にしても。


(青柳さんと西元さんに心を預けられるだけ、まだ私は幸せ者なのかもしれない)


 ひどくちっぽけな充足感が足元に転がった。そのまま、しばらく黙って乾いた唇を縫い合わせていると、隣の少女が小さく鼻を鳴らした。


「あんたさ。けっこう、仲間からおいてけぼりにされるタイプでしょ」

「お、おいてけぼりに……?」

「そんな匂いがぷんぷんする」


 思わず自分の体臭を確認しようとしてしまった。「比喩だよ」と少女は笑った。今度は目も笑っていた。


「悩んでるなら忠告しとくけど、信じる仲間はきちんと選んだ方がいいよ。ホンモノの仲間とニセモノの仲間はちゃんと区別して、ホンモノだけを信じたらいい」


 そんな区別ができるなら、里緒だってこうして頭を悩ませずに済んでいる。


「……どうやって選べばいいですか」


 尋ねると、少女はCDの棚に向き直って、ふっと息をこぼした。


「私だって失敗した矢先なんだから、そんなの正しいことなんて分かりっこないけど。ま、嘘ついたり答えをはぐらかそうとしない人のこと、ほどほどに選べばいいんじゃない?」

「嘘ついたり、答えをはぐらかそうとしない人……」

「ホンモノの仲間には嘘も虚飾も要らないでしょ。思ったこと、感じたこと、胸に浮かんだそのままの言葉で語り合って共有できる。同じ波長のなかで生きていける。それが本当の意味での仲間だと思うけどな」


 言葉尻ではなく、自分と向き合う時の態度で判断しろと彼女は言いたいのだろう。それならどうにか自分にもできるように思えて、里緒は何度か、受け取ったその言葉を無言で反芻した。

 嘘をつかない人。

 はぐらかそうとしない人。

 どちらの条件も自分にはまったく適合していない。過去や自己の開示を求められた時、里緒は決まって嘘をつき、はぐらかすことで場をやりすごしてきた。もしかすると部の仲間たちも同じ基準で自分のことを見ていたのかもしれないと、今ごろになって里緒は気付かされた。


「言っとくけど私は嘘、大っ嫌いだから。さっきから一言も口にしてないつもり」


 いたずらっ子の目付きで口を添えた少女が、立ち上がって思いきりよく伸びをした。短く折ったスカートの(ふち)(まぶ)しい肌色がにじんで、恥じらった里緒はとっさに目を背けた。このくらい大っぴらに自分の内側をさらけ出せたらな、なんて、ささやかな願いが胸の中に芽生えた。

 そうしていつかは信じてみたい。胸を張って誰かを頼り、誰かに頼られ、揺るぎない自分の存在意義(アイデンティティ)を抱きしめて生きてゆける未来が訪れるのを。

 後ろ手に握られたクラリネットのケースが、軽い音を賑やかに跳ね上げる。少女は嘆息した。


「せっかく部活サボったのに楽器店に来て自由曲のCD探しちゃうあたり、私、まだ諦められてないんだろな。色々と」

「さっきのCD、自由曲だったんですか」

「そこの天野(あまの)正道(まさみち)って人の作品(やつ)。知ってるでしょ。面白い曲だよ、めっちゃ難しいけど」


 指を差されるままにCDを抜き取って、里緒はジャケットを眺めた。天野正道。吹奏楽曲の製作を中心に活動し、アニメや映画の劇伴、現代音楽に至るまで幅広いジャンルの曲を手掛ける、界隈では有名な作曲家である。さすがの里緒でも中学の時、吹奏楽部で名前くらいなら聞いたことがあった。

 篆書風味のレタリングで描かれた作曲家の名前をぼんやりと見つめていると、あのさ、と少女が尋ねてきた。


「弦国の一年なんだよね。西元紅良って知ってる?」

「えっと、知ってます……。クラスメートです」

「ちょうどいいや。今度また会うときがあったら、芸文附属の守山(もりやま)から伝言があるって言っといてよ」


 少女は通学カバンを担いだ。


「『あの頃、西元が言おうとしてたこと、ようやく少し分かった気がする』ってさ」


 里緒は目線を上げて少女の行方を追った。

 立ち上がったその場所から、彼女はまっすぐな眼差しで里緒の胸を見下ろしていた。──まばらに雲の散らばる青空のような、晴れやかで、けれどもどこか寂しい色の顔をしながら。








「忙しいくらいがいちばん楽しいじゃないの」


▶▶▶次回 『C.115 招聘の電話』

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