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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第四楽章 蒼の涙とアイネクライネ
120/231

C.113 思わぬ出会い【Ⅰ】

 




 目が覚めると時計は九時頃を指していた。

 花音や紅良はとっくに家を出て、弦国で一時間目の試験科目を受検している時刻だった。青柳家に来て以来、日ましに寝覚めの時が遅くなっている。至れり尽くせりの生活では自堕落にもなるはずだ。

 泣き腫らしたままの目で居間へ下りてきた里緒に、千明は余計な詮索を入れることもせず、ただ、優しく言葉をかけてくれた。


 ──『頑張ったのね』


 そっと穏やかな手つきで頭を撫でられ、仏のような微笑みを真正面から食らって、里緒はまたしても喉に嗚咽を詰まらせかけた。花音や紅良といい、千明といい、それから晴信といい、どうして自分のような価値のない人間にもこんなに優しく接してくれるのだろう。接することができるのだろう。それこそ花音の叫んだように、里緒のことが好きだからか。

 ともあれ。

 これでもう少しばかり、この世界に住む人々のことを信じていられそうだった。


 ──『泣いたら少しはすっきりしたでしょう。今日からまた、頑張って生きていこうね』


 千明の励ましに、はい、と里緒は首をたれた。頑張らねばならないことは山積みだ。追試に向けた勉強もしなければならないし、相変わらずクラリネットも吹けないまま。頼れる二人の友人の存在を除けば、今の里緒には、何もない。


(できることから一つ一つ、やっていこう)


 心に決めた目標を落として見失わないように、顔を洗って朝食を食べ、それから花音の部屋に戻って教科書やノートを借り受けた。本当は食卓の清掃や食器洗いを手伝いたかったのだけれど、手を出す前に千明がみんな済ませてしまったので、仕方なく、いそいそと居間に下りて教材類を机に広げた。

 窓の向こうは(まぶ)しいほどの快晴である。

 あの陽だまりを描く太陽のように、いつか笑って未来を生きられるように。

 クラリネット吹きの女子高生・高松里緒の再起への道は、今日、ようやく始まりの鐘を高らかに鳴らしたばかりだった。




『里緒にはクラリネットしかない』というのは悲しいかな、歴代の通信簿を見れば一目瞭然の事実であった。弦国の難関な入試を辛うじて突破したとはいえ、勉強はそもそも得意ではないし好きでもないのだ。得意科目は英語のみ、それも人並みよりほんの少しテストで点を取れるだけ。中学一年生の時に英語検定の四級は取得していたが、弦国に来て周囲を見渡せば、そんなものは周囲の誰もが当たり前に取っていた。

 ただでさえ苦手教科が多いというのに、頼みの綱と思って開いた花音のノートには書き込みや板書の写しがほとんど見られなかった。いきなり里緒は勉強の出鼻をくじかれた。無論、紅良は登校しているので、分からないところを質問することもできない。孤独な試験対策は大苦戦を強いられた。


(昨日までの間に勉強しておけばな……。西元さんにいろいろ質問できたのにな)


 そんなことができたはずはないと分かっていながら、ついつい、愚痴が口をつく。時計の針が昼下がりの午後二時半を指す頃にはすっかり頭が煮詰まって、里緒は机上へ広げた数学Ⅰのテキストにペンを放り出した。窮屈な花音の服を着ていては、満足に伸びもできなかった。

 休憩すべきか。

 時間も残されていないことだし、無理やりにでも頭に詰め込むべきか。


「はぁ……」


 ノートに吹き付けた吐息の音を耳聡(みみざと)く聞き付けた千明が、洗濯物でいっぱいの籠を手にしながら寄ってきた。


「大変そうねぇ」

「その、私、勉強は苦手なんです。中間テストの点数も高くなくて……」

「うちの花音()ほどじゃないなら心配いらないでしょ。焦らないで、ゆっくり取り組めばいいの」


 さらりと千明は言ってのける。抱えられた籠の中身は、台風の間に溜まった洗濯物の第二弾か。今度こそ手伝おうと里緒は腰を上げた。


「あ、あの……それ」

「気分転換にお出掛けでもしてきたらどう?」


 千明はまるで聞く耳を持ってくれなかった。中途半端な姿勢のまま、「お出掛けですか」と里緒は首をすくめた。確かに絶好の行楽日和ではあるけれども。


「外の空気を吸うだけで気持ちもずいぶん切り替わるものよ。はい、これ。使っていいからね」


 言いながら千明は財布を出してきて、里緒の手に千円札を二枚も乗せた。慌てて返そうとしたが、受け取ってくれない。里緒の手をするりと抜けて、財布をしまいながらベランダに向かってしまった。


「…………」


 置き去りにされた里緒は、今度こそ、肺の奥底から大きなため息をついた。

 今はまだ、守る手のない世界に踏み出すというだけで、ちょっとした試練だというのに。




 国立の街にはまったく土地勘がない。いまだに多摩初心者の里緒には、出かける先といっても馴染みのある立川くらいしか思い浮かばなかった。

 とにかく花音の私服からは逃れたくて、久方ぶりに学校の制服に袖を通した。丁寧にアイロンのかけられたワイシャツの質感にぎこちないものを覚えつつ、最寄りの谷保駅まで歩いて南武線に乗る。午後一番の電車は空いていて、余った席の端に里緒は控えめに腰を下ろした。あれからいじめの報道がどこまで掘り下げられているのか、里緒は知らない。せめて周りの人には、自分が高松里緒であることだけでも気付かれないようにしたいと思った。

 昨夜の台風の被害だろうか。屋根瓦にブルーシートをかけた家の景色が、瞬く間にいくつも車窓を駆け抜けてゆく。


(私の家、大丈夫だったのかな。風が吹き込んでめちゃくちゃになってたりしないかな)


 むやみに胸がざわつく。外をあまり見ないようにしようと思ってスマホを開くと、ちょうど、花音からのメッセージがポップアップに表示されて画面に浮かび上がったところだった。


【十一日から校内合宿やることになった!!! 里緒ちゃんどうする~~~~??\( 'ω')/】


 合宿、と声が漏れた。

 まさしく寝耳に水だった。合宿はもっと後の時期に開く予定だと聞いていたのに。

 だいたい追試の期間とも(かぶ)っているはずだ。カレンダーのアプリを開いて予定を確認しながら、壁の薄い胸の奥で不安な気持ちが一気に膨らむのを里緒は感じた。そんなに急に決められても、参加費はどうしよう。着替えは、楽器は、どうやって取りに行こう。大祐にはどう伝えればいいのだろう。だいいちクラリネットも吹けないままなのに、合宿なんかに参加して何の意味があるのか。

 ──それに、花音以外の部員たちは、果たして里緒が参加するのをよしと思ってくれるのか。


【ごめんなさい。まだ、決められない】


 悩んだ末にそう送り返した。メッセージの返信ごときで大仕事を果たした気になって、膨れ上がった虚しさが口からこぼれると、緩やかに左カーブを曲がった電車の車窓は立川駅の構内に切り替わった。

 見知った光景に安堵を覚えながら改札を出て、駅の南北を結ぶ広大な自由通路に立った。平日の昼間にもかかわらず、立川の街は買い物客であふれている。何となく、自宅のある南口を避けたくなって、北口の方へ爪先を向けた。適当に歩いていれば適当に気晴らしができるだろうと思って、広いペデストリアンデッキをとぼとぼと歩いた。


(合宿か……。私、どうしようかな)


 堂々さの欠片(かけら)もない足の運びを見つめ、花音の言葉を反芻した。心のなかは管弦楽部のことでいっぱいだった。勉強のことを頭から振り払えたのはよかったが、これでは結局のところ頭を悩ませているのに変わりはない。


(コンクールの練習にもいつかは戻らなくちゃいけないし、野球部の応援だってもうじき始まっちゃうし……)


 あまりにも部の迷惑になるようなら、いっそのこと、管弦楽部そのものを辞めた方がいいのかもしれない。しかしそんなことをしたら、もう二度とクラリネットを触る気にもなれない気がした。かといって、管弦楽部の足を引っ張る存在のままではいたくないし、復帰のためには勇気がいる。美琴や舞香のような、里緒に好感を抱いていないであろう人たちの(うごめ)く管弦楽部に戻るのには、とてつもなく膨大な量の勇気が要る。

 考えごとをしていたら現在地が分からなくなった。顔を上げて周りの建物を見回すと、『プリズム楽器』の看板が里緒の頭上に身を乗り出していた。


「……ここって」


 里緒は独り()ちた。以前、〈クラリネット協奏曲〉のCDやリードを探して迷い込んだ店である。

 開いた自動ドアに促されて、中へ入ってみた。店内は空いていて、外と比べると人目の数も少ない。今の里緒にはあつらえ向きの環境だった。


(ここで西元さんに会って、それから公園でお話したんだっけ。……神林さんも一緒に、三人で)


 高く積み上がるCDの棚を見上げ、モーツァルトの名前を目で追うと、懐かしい感慨が横隔膜を押し上げて(ぬく)もった。深呼吸をひとつ落とした里緒は、そっと口角を持ち上げてみた。

 まだ、上手く笑うことはできない。けれども一生懸命に譜面の音符を追いかけてクラリネットを取り回していた頃の記憶は、どうやら絶望の淵に沈んでいた間も忘れ去らずに済んでいたようだ。

 それが確かめられただけでも幸せだと思った、その瞬間。

 どん、と膝が何かにぶつかった。


「ひゃっ!?」


 悲鳴を上げて里緒が飛びのくと、そこには不愉快な顔付きの少女がこちらを睨みながらしゃがんでいた。最悪だ、脚立か何かかと思ったら人間だった。怒りの視線を浴びた里緒はいよいよ真っ青になった。


「どこ見てんの。ちゃんと前見て歩いてよ」

「ごっごめんなさいっ……! 私、ほんと不注意で……っ」


 首がもげて落ちるかと思うほど、何度も何度も頭を下げて謝った。ついでに自分を(ののし)ることも忘れなかった。このバカ、私のバカ──。せっかく遠ざかっていたはずの自虐心がふたたび顔を覗かせてしまったではないか。

 壊れたロボットのように平身低頭する里緒を、セーラー服姿の少女は胡散臭げに眺め回す。

 それから、ふと、口を開いた。


「……弦国の制服だよね、それ」


 どうして分かったのだろう。たちまち里緒の心臓は(せわ)しなく縮み上がった。

 知り合いがいるからさ、と少女は早口でつぶやいた。言い訳めいた声色だった。


「何年生?」

「い、一年です」

「そう。弦国(あそこ)って今はテスト期間じゃなかったっけ。もう終わり?」

「えっと、あの……。私、テストを正規日程で受けられなくて、後から追試で受検するんです。だから……」

「ふーん」


 頬杖をついた少女は、目線を床に落とした。


「色々あったんだね」


 詮索しないでくれるようだ。今の里緒には、その心遣いはありがたい。

 このままUターンして立ち去るのも気が引けた。棚に指を這わせながらCDの行列に目を戻した少女にならい、その隣に恐る恐る、しゃがみ込んでみる。いつの間にかモーツァルトの棚からはずいぶん離れていた。







「『あの頃、西元が言おうとしてたこと、ようやく少し分かった気がする』ってさ」


▶▶▶次回 『C.114 思わぬ出会い②』

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