C.011 出会い
立川市初の幼保連携型認定こども園『立川アネモネこども園』は、多摩川北岸の土手裏、多摩都市モノレールの線路から数十メートルほどのところに立地している。
文部科学省所管の教育機関である“幼稚園”と、厚生労働省所管の一時預かり施設である“保育所”、それら双方の機能を兼ね備えているのが幼保連携型の特徴である。幼稚園のような学習機会を持ちながら、遅い時間まで保育も受け持ってくれるので、特に仕事終わりの時間の定まらない多忙な親にとって、この施設はありがたい存在だった。
そんな認定こども園でも陽の傾く頃になると、迎えに来た親たちが続々と子供を連れて帰途についてゆく。時刻は午後五時半。夕暮れ色の光を浴びながら、なおも賑やかさを失わない園の入り口に、スーツを着た一人の女性が駆け込んできた。彼女はカバンを脇に抱え、園の建物の前に立っていたエプロンの女性に声をかけた。
「先生遅くなりました、神林です! うちの子はどうしてますか?」
エプロンの女性は園の先生である。息せき切った様子の彼女を一目見て、「あぁ」と微笑んだ。
「拓斗くんですね。ちょっと待っていてね、いま呼んできますから」
彼女──神林紬は大きくうなずいた。途端、駅から園まで駆けてきた疲労がどっと流れ出して、傍らのベンチに崩れ落ちそうになった。
「拓斗くんー、お母さん来たわよー」──。先生が我が子の名前を呼んでいるのが遠く聴こえた。一分後、身支度を整えた息子が、元気に玄関から走り出てきた。
「おそいー! 二十分チコク!」
「はいはい。ごめんね」
苦笑しながら紬は拓斗を抱き止めた。先生が隣で、どこか誇らしげに口を開いた。
「拓斗くん、今日はすごく頑張ってたんですよ。ねっ、拓斗くん」
「うん! あのねお母さん、ぼくね、シンバルばっちりたたけるようになったんだよ! 先生にかんぺきって言われた!」
「ほんと! 頑張ったねぇ」
紬も笑顔を作って、息子の頭を撫でてやった。「へへー」と拓斗は快さげに身悶えをした。
今度の発表会で拓斗の組は合奏をやることになっているそうで、拓斗は見事、圧倒的多数が鍵盤ハーモニカに回される壮絶な役決めじゃんけんを勝ち抜き、花形のシンバルを射止めたのだ。曲目はモーツァルト作曲の〈トルコ行進曲〉だという。たいそうシンバルの鳴らし甲斐のありそうな曲である。
身体にしがみつきながら拓斗は懸命に紬を見上げ、その日の報告をしようとする。親の欲目を抜きにしても、実に可愛らしいものだと思う。いつまでこんな風に甘えてくれるのだろう。反抗期が来るまで何年の余裕があるものか。一人立ちしたら、親離れしたら、自分は。──ふとした瞬間に思い悩んでしまう。
「拓斗くんは本当に頑張り屋さんの子に育ちましたね。私たちもね、けっこう助かってるんですよ」
「そうなんですか……。家では未だにけっこう、私にべったりなのにな」
まだ離れようとしない拓斗の頭頂を撫で続けながら答えると、先生は指を口元に当てて吐息をこぼした。
「お母さんがお忙しい方だってこと、拓斗くんも知ってるはずですけどね。きっと会える時間が短いから、一緒にいる間は甘えちゃうのよね」
そうなの? ──無意識に直接的な疑問を拓斗にぶつけてしまいそうになったが、やめた。
どんな答えが得られても、気恥ずかしくなってしまいそうだったから。
今年で三十二歳。シングルマザーとして園児の息子を育てている紬の仕事は、いわゆる新聞記者である。立川駅前のビルに事務所を構える、日本産業新報社の立川多摩支局社会部が、紬の勤務先だった。
夫はいま、ここにはいない。入社以来、昇進や転属をほとんど経験せず、育児と仕事の両立に理解のある上司や周囲に支えられながら、間もなく六歳になる拓斗をどうにか無事に育ててきた。
来年には拓斗は小学生になる。余裕が生まれたら昇任試験を受けるチャンスを得て、憧れの部署である文化芸能部に移ってみたいと思っている。紬の秘める、たった一つの小さくも大きな夢だった。学生時代の得意科目は芸術だった。中学や高校では吹奏楽部に属していて、今でも時々、育児の合間に楽器をたしなんでいる。
見送ってくれた先生に別れを告げて、園の敷地を出た。立川の駅前で買い物は済ませてあった。あとは、徒歩五分ほどの距離にある自宅マンションまで、二人で歩いて帰るだけ。
「さ、行こうか」
「うん!」
伸ばした手に、拓斗の小さな手が元気に重なった。
このくらいの年頃の子供は、どうしてこんなに元気なのだろう。毎日のように栄養ドリンクにお世話になっている我が身を省みると、その落差にいつも嫌気が差す。無尽蔵なその活力を、少しでいいから分けてほしいものだと思う。
ため息と一緒に一歩を踏み出す力が抜けて、紬は高い空を見上げた。
オレンジに染められた綿のような雲が、遥かな高みをのんびりと泳いでいる。綺麗だ。素朴だが、その言葉以上に似合う表現はなかった。
お母さんー、と拓斗が腕を引っ張った。
「おなかすいたよー、帰ろうよー」
「そうね。ごめんね」
謝りつつも未練が消えず、紬は後ろ髪を引かれるようにして家路につこうとした。
不意に、楽器の音色が背中に当たって、またも足が止まってしまった。
土手で誰かが楽器を吹いているようだ。
「あ、〈めだかの学校〉だ!」
拓斗が無邪気に曲名を言い当てた。紬も続けて、言い当てた。
「……クラリネットだ」
ずいぶん昔のことになってしまったが、高校で吹奏楽部にいた頃は毎日のように耳にしていた音色だった。ソロで聴く機会はほとんどなかったし、他の楽器と比べて存在感があったわけでもない。それでもはっきりと識別がついたのは、きっとクラリネットがひどく優しい印象的な音の持ち主だったから。
応じるように音が大きくなった。風がびゅうと強く吹けば簡単に消されてしまいそうなほど、か細く、けれど確かに聴く者の心に潜り込んできて、琴線を強く震わせようとする音色。こども園の入り口を出たばかりの路上で、紬と拓斗はしばらく立往生したまま、そのメロディに聞き入った。
ぽつり、尋ねた。
「……ちょっとあれ、近くまで行って聴いてみよっか」
「うん」
しきりに空腹を訴えていた割には、拓斗もすんなりと応じた。
〈めだかの学校〉は土手の向こうから聴こえてくる。こども園の正面から延びる道は、そのまま土手へ上る階段につながっていた。拓斗を伴って十数段の階段を上りきってしまうと、夕陽色に包まれた景色が二人の周囲いっぱいに広がった。
上った場所から右へ二十メートルほどの、河川敷へ下りる階段の途中に、クラリネットの持ち主は座っていた。全体的に黒っぽい服装のせいか、それとも川面に眩しく反射する太陽の光のせいか、その姿は影になっていてよく見えない。ただ、肩まで伸ばしたボブカットの髪と、ひだのあるブレザーのスカートが、彼女の性別を辛うじて印象付けていた。──あの制服は確か、国分寺あたりの私立高校のものだったか。
拓斗が何やら歌いたげに口を開けた。慌てて紬は制止した。
「こーら、邪魔しちゃダメでしょ」
「あの歌ね、この前せんせいが教えてくれたんだよー。でも僕、せんせいのよりもあっちの方が好き!」
「分かったから、しーっ」
拓斗はたちまち不満そうに口を尖らせたが、ひとまず静かにする気になったらしい。安堵した紬は再び、クラリネットの少女に視線を戻した。
もしも、音というものに触れることができたなら──。
吹奏楽に励んでいた頃、思うように吹けない苦しみに喘ぐたびにそんな空想に浸ったのを、紬は今でも記憶している。
もしも触れて、そしてこの手できれいに調えられたなら、きっと今よりもっと美しい演奏ができるのに。
けれども、もしも触れることができたなら、目の前の少女が奏でるあのクラリネットの音色は、触れたその瞬間に端からボロボロと崩れ落ちてしまいそうだ。そう思わせてしまうくらい、少女のクラリネットの口が放つ音色は脆く、細く、儚いものだった。
そして同時に、文句のつけようもないほど感情的で、美しかった。
(演奏自体はすっごく上手いのね。音は外してないし、息が弱くて音が揺れることもないし……)
わざわざ意図してあの音を目指しているのだろうか。些細な疑問を咀嚼しているのを自覚しながら、しかし紬は今や、すっかり少女の演奏に没入してしまっていた。
「思い出せ、私。昨日のあのきれいな川の景色を」
▶▶▶次回 『C.012 変わった楽器』