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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第四楽章 蒼の涙とアイネクライネ
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C.112 緊急ミーティングの行方

 




 フルートのように響きのいいリーダーの声はたちまち音楽室中に拡散して、反響して、菊乃のところへ戻ってくる前に減衰して消えた。辛うじて、足元に転がったその欠片を美琴が見つけた時、ようやく菊乃の三言目が耳に届いた。


「……悔しくて。下手くそだ、低レベルだって、(ののし)られるのが悔しかったから」


 セミの鳴く声が遠く聞こえた。菊乃は眉を下げ、顔を下げ、込み上げてくる何かを必死に耐えるように口を開き続けた。


「あたしは、あたしたちにはもっとポテンシャルがある、もっとやればもっとできるって思ってました。芸文附属や立国の吹部の方がいい、国立WO(ウインドオケ)の方がいいなんて言わせないくらい、いい楽団になれる素地があるって思ってました。今でも思ってます。だけど今まで通りの活動じゃ、そこまでの意欲を引き出せないと思ったんです。コンクールの舞台に立って、よその人たちと比べられて優劣の判定をされるくらいじゃないと、心から本気になって練習に取り組むことはできないんじゃないか……って」


 腕組みを崩さないはじめたち首脳陣を前に、菊乃は水滴をこぼして絵を描くように言葉を紡いでゆく。一瞬、その頬に本物の水滴を認めた気がして、美琴は目を閉じてしまった。


「確かに、高松ちゃんの腕前に依存しちゃってた部分は大きかったと思います……。だけど依存しちゃうくらい、あの子は凄かった。もっと努力したらもっともっと伸びるポテンシャルがあると思ってたし、あたしたちだってそれに付き合う覚悟は決めてるつもりだったんです……。それに、コンクールでいい成績を修めたり、上位の大会に進出できたら、それそのものがあたしたちの誇りになる。自信になる。他でもない高松ちゃん自身に、誰にも負けない誇りと自信を持ってもらえる。『ここなら入ってもいいかな』って、来年の新入生たちにも思ってもらえるかもしれない……。来年も、再来年も、管弦楽部(うち)がきちんと続いていくために、コンクールへの挑戦はきっと無駄にならないって……」


 頬を拭った菊乃は洸を睨み、掠れきった声で叫んだ。


「それを『自分たちのエゴ』なんて言われるのはあんまりですっ……!」


 ぐず、と鼻を啜る音がした。佐和が片手でハンカチを探していた。カバンから引きずり出したポケットティッシュを渡してやった美琴は、ついでにそこから一枚だけ抜き出して、自分の鼻にも宛がった。

 菊乃はやっぱりすごい子だ、と思う。

 すべての根幹にあるのは『悔しかったから』などという自分本意な感情でしかないのに、その先にあれだけの未来を重ねて見ている。どこまで本心からの言葉なのか美琴には分からないけれど、たとえ大半が出任せだとしても、それは自分のチームを守るリーダーにはなくてはならない才能に違いない。

 里緒ひとりに執心を燃やして、その才能を摘むことばかり考えてきた自分が、菊乃の隣にいては不釣り合いにしか感じられない。


「……泣くのは、卑怯なんじゃない?」


 はじめが静かに言った。菊乃ではなくて、背後を固める烏合の衆に向けられた言葉のようだった。

 弾かれたように顔を上げた恵たちが慌てて目元を拭うさまを、部長も、副部長も、じっと目を細めて眺めていた。三年や一年生のなかにも目を赤くしている(ひと)が見当たる。京士郎はうなだれている。悲惨きわまる空気のなだれ込んだ音楽室の真ん中で、はじめは手帳を開き、ペンを突き立てた。


「──七月十一日から十四日。用事の入ってる人、いないよね」


 否定の声は上がらなかった。

 十一日から十四日といえば、期末試験終了から甲子園の開会式までの期間。弦国では期末試験後から終業式までの間、通常授業は行われないことになっている。つまり普通の生徒なら学校から解放されている期間なのだけれど、もともとは試合日程が組まれていたところでもあるので、管弦楽部の部員たちは特段の予定を入れないでいるはずだ。


「もちろん、その四日間は練習に費やすことになる。どうせなら寝泊まりしながらやれないかと思ってるの。どうかな」

「校内合宿ってことですか」


 ()れた声で丈が尋ねた。そうね、とはじめはうなずいて、広い音楽室を見回した。


「唐突な提案なのは分かってる。いつもは八月あたりに校外で合宿をやってるけど、たまにはそんなイレギュラーがあってもいいでしょ。こっちの方が安上がりだし」

「ちなみに、もし実行するとしたら、一人当たりの予算は一万円ちょっと。例年よりだいぶ費用は抑えられる。業者さんに話すだけ話しておいたから、布団を借りる算段はつきそう」


 会計ノートをめくった実森が、表情ひとつ変えずに続ける。

 台風被害で甲子園予選の開会が延期になったのは今朝の話だというのに、いつの間にそんな計算や手配を済ませたのだろう。真似しがたい行動の迅速さを見せつけられ、豆鉄砲を食らった鳩のような顔の菊乃が目を腕でこすった。自分も同じ顔をしている気がして、美琴は頬を強引に揉みほぐした。


「別に強化合宿とかのつもりじゃない。でも、ただの合宿とは思わないでほしい」


 はじめは声を大きくした。


「高松が追試を受けるのもちょうどその期間なんだ。あの子にも顔を出してもらって、ゆっくり時間をかけて向き合おう。高松が今、何に苦しんでいるのかも、何を望んでいるのかも、同じ部に所属する私たちは知っておかなくちゃいけない。ただ泊まるだけじゃなくて、これからの管弦楽部(わたしたち)の身の振り方を考える機会にする合宿にしたいんだ」


 どう? ──一歩、進み出たはじめが部員たちを見回す。反論や反対の声を上げる気概のあるものはいなかった。

 はじめはさらに京士郎に声を放った。


「というわけで先生、いいですか。教室の使用申請書を提出しなければならないので、先生にも署名をいただかないと」


 すでに合宿の実施は半ば決められてしまったようだ。首をすくめる二年生たちの向こうで、困惑気味の京士郎が小刻みにうなずいた。


「ああ。署名なら」

「それと先生にも合宿にお付き合いいただきたいんです」


 間髪を入れずにはじめは続けた。京士郎が変な声を絞り出した。


「な、なんで僕が……」

「高松のこともありますし、いざという時のためにも先生にはいていただかないと。どのみち毎日、校舎内にはいらっしゃるんですよね。居場所を音楽室に移していただければいいんです」

「そ、そりゃいるけども……。君らは僕がいたら邪魔だろう。いつものように職員室にいれば十分じゃないのか」


 京士郎らしくもない、里緒の台詞かと見紛(みまが)うような言葉選びに、美琴は思わず彼を凝視した。管弦楽部唯一の顧問教師は、部長からの視線を受け止めきれずに横へ流しながら、引き気味の姿勢で椅子に腰かけている。


「それでは駄目なんです」


 はじめも譲らない。


「私も事情は何となく知っています。でも、昔と今では事情が違います。今の私たちには須磨先生が必要です」

「いったい僕に何を求めているんだ。それこそ高松くんの件もあるし、そんなに費やす時間は確保できない。それに指導なんて……」

「以前は指導をなさっていたそうじゃないですか。お願いします。私たちだけでは人手が足りないし、先生の指導には私たちのそれにはない価値があります」


 美琴たち二年部員には、交わされているのが何の話だか分からない。頭上で飛び回る会話を一年部員たちも茫然と聴いている。こんなところにも何やら火種が転がっていたのか。口腔いっぱいに溜まった灰色の息を吐いて、捨てた瞬間、ついに京士郎が首を折った。


「分かった。そんなに言うなら……」

「ありがとうございます」


 はじめは表情も変えずに頭を下げた。洸も、他の三年生も一斉に下げていた。顧問すら有無を言わさずに従わせる上級生たちの肩が急に大きく思えて、美琴はただ、自席の奥で頭を低くする他なかった。

 恐ろしいことに、洸はすでに合宿の大まかなプランや段取りまでも練ってきていた。異論や意見の挟まれぬまま、合宿の実施計画はあっという間に細かく修正され、陽の完全に傾く前に部員たちは音楽室の外へと解き放たれた。




 合宿か、と菊乃がつぶやいた。うつむきがちにカバンを胸の前に抱えながら歩く彼女の背中は、今まで見てきたどの背中よりも丸く見えた。


「高松ちゃん、本当に来れるのかな」

「……追試あるって言ってたでしょ」

「部長、きっと()くんだろうな。『コンクール続ける気はある?』って……」


 菊乃の声にはいつもの覇気がない。まるで、里緒が『続けたくないです』と答えるのを予期しているかのような言い草だったが、自分が菊乃の立場だったとしても同じことを口にしていただろうと思って、美琴は黙って廊下の先を見つめた。

 校舎のなかは賑やかだった。居残って勉強に励んでいる生徒たちの笑い声や話し声に、自分たちの惨めな境遇が嫌でも際立つ。振り払いたくて大声を出した。


「みんな高松次第でしょ。今から落ち込むことなんてない。あの場でコンクールへの挑戦そのものに待ったをかけられないで済んだだけでも、幸運だったんだ」

「……そうだね」


 菊乃も痛々しく笑った。


「高松ちゃんに任せよう」


 突然に決められた合宿ではあったが、はじめや三年生の意図することは美琴にも理解できた。騒動の爆心地である里緒を含め、部員同士がじっくり向き合う時間を確保することで、部長たちは問題解決の糸口をどうにか掴もうとしているのだ。すべては自分たちの、そして管弦楽部の未来のために。


「私も…………」


 口に出しかかった言葉は喉につかえて、上手く発することができなかった。

 菊乃が首をかしげる。「なんでもない」と作り笑いで誤魔化して、美琴は陽の当たる廊下を足早に通りすぎた。









「できることから一つ一つ、やっていこう」


▶▶▶次回 『C.113 思わぬ出会い【Ⅰ】』

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