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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第四楽章 蒼の涙とアイネクライネ
118/231

C.111 台風一過の朝

 





 七夕の夜は明け、七月八日の朝がやって来た。




 布団をつまみ上げて、中を伺ってみる。ここ数日間、いつも巻き貝みたいな姿勢で眠りについていた里緒が、今朝はずいぶん開放的な姿を見せていた。両手両足を片側に投げ出しながら、すやすやと優しい寝息を立てている。布団から立つ匂いが甘い。

 紅良の側を向いているではないか──。

 花音は頬を膨らませた。


「里緒ちゃんはこっち」


 両手を掴んで反対側に引っくり返そうとする。だが、起き出してきた紅良に「やめなさいよ」と止められてしまった。


「せっかく気持ちよく寝てるんだから」

「分かってるし。いいよーだ、里緒ちゃんの一番の友達はこの花音様だもん」

「わけわかんないとこでマウント取ろうとしないで」


 膨れっ面をした花音も、嘆息した紅良も、そろって里緒に視線を注いだ。腫れた目元、湿り気の残る布団、ぐしゃぐしゃに歪んだシーツ。明瞭に残された昨夜の痕跡が、そっと心に落ち着きをもたらしてくれる。

 夢ではなかったのだ。

 里緒が心を開いてくれたこと。

 抱えた苦しみを吐き出して、泣いてくれたこと。

「私、二人のこと、頼りにしてもいいの?」──って、泣きながら何度も何度も確認してくれたこと。

 四日間の努力は無駄ではなかった。『天岩戸作戦』はとうとうまともに成功させられなかったが、土壇場で里緒は二人の熱意に応えてくれた。たとえ、今日から始まる試験期間でどれだけ難問に苦しめられようとも、管弦楽部の活動が苦しくとも、その事実だけで当分は前向きに生きてゆけるとさえ思えた。


「花音。目、赤い」


 紅良が笑った。花音も言い返した。


「西元だって」

「言われなくても自覚あるから」

「私びっくりした。西元でもあんなに泣くことってあるんだね」

「そりゃ、ある時もあるに決まってるでしょ。私のこと何だと思ってたわけ」

「涙腺とかついてなさそうだなーって思ってた」

「どういう意味よ、それ」


 こうして普段通りの軽口を交わす時間さえ、今はなんだか無性に懐かしくて愛おしい。笑いながら睨み合って、そうしたらよけいに可笑しくなって。ふっ、と息を漏らした花音と紅良は、カーテンの隙間から差し込む朝の光に揃って目を細めた。


 今はまだ、里緒は抱えた苦しみを吐き出しただけ。

 解決への道筋はこれから探っていかなければならない。

 本当の意味で里緒を苦しみから解き放つためには、まだまだ努力と時間が必要になるのだろう。

 ──でも、この三人なら。


「きっと何とかなるよね」


 つぶやいた。隣で紅良がうなずいた。


「あんなに『私たちのこと信じて』って啖呵切ったんだもの。何とかならなくたって、してみせる」


 こういうとき、紅良の言葉は本当に強いと思う。聞き手に不安を覚えさせない安定感がある。負けじと口を開いて、


「うん」


 花音は笑った。

 窓際を飛び交う小鳥たちのさえずり声が、隙間から木漏れ日のごとく差し込んだ光が、新たな日々の始まりを迎えた二人の顔と声を賑やかに彩ってくれていた。





 ◆





 七夕の東京を直撃した台風三号は、首都圏のあちらこちらに予想以上の爪痕を刻み付けていった。激しい風が吹き荒れ、各地で電柱や木造家屋が倒壊。雨で増水した多くの川が河川氾濫危険水位に達し、一部の地域は避難準備情報が発表される事態にまで陥った。むろん深夜の出来事である。ところどころ照明の落ちた市街地は、盛んに飛び交う報道やネット情報によって上へ下への騒ぎになった。

 夜が明けてみると、さらなる甚大な被害が発覚した。朝一番のニュース番組は、(こぞ)って新宿区の明治神宮野球場にカメラを向けた。


 ──『ご覧ください! 立ち並ぶ照明塔のうち一本が、根本から大きく歪み、グラウンドに倒れかかっているのがお分かりいただけると思います! 広告の貼られた板も倒れ、グラウンドにはそれらの残骸が広い範囲にわたって飛散している模様です!』


 暴風によって倒壊した数々の設備や構造物が、画面には大映しにされていた。誰の目にも、グラウンドが少なくとも今日いっぱい使用不能であることは明らかだった。

 同じような被害は各地のスポーツ施設でも発生していた。にも関わらず、カメラの注目が神宮球場ばかりに集中して向けられたのは、この日から始まる一大イベントの開催が危ぶまれていたためである。

 七月八日、月曜日。

 七夕明けのこの日、神宮球場では、全国高校野球選手権東・西東京大会──すなわち甲子園の予選大会の開会式が執り行われる予定になっていたのだ。




 弦国では一学期期末試験の日程がスタートした。まさに台風一過、前日までの悪天候が信じられないほどの快晴のなかを、高校生たちは目をこすりながら単語帳やノートを片手に登校してきた。初日の試験は午前中のみ、十二時過ぎまでである。

 全科目の受検が終わると、昼食を摂るのもそこそこに、美琴はすぐ近くにある恵の机のところへ行った。


「今日のこと……」

「うん。こないだ連絡が来たやつでしょ」


 恵も部の緊急会議のことを忘れていなかった。教科書を閉じ、空になったサンドイッチの袋を丸めてゴミ箱に放った恵は、行こっか、と言って立ち上がった。

 恵の後ろについて美琴は音楽室へ向かった。普段はこんなことはしないのだけれど、何となく、今日は誰かの背中に隠れて歩きたい気分なのだった。


 昼時も過ぎた午後二時。音楽室には部長のはじめを筆頭に、二十五人の現役部員たちが顔を揃えた。一名が足りないが、もちろん不在なのは里緒である。代わりに、部屋のいちばん隅っこの座席には珍しく顧問の姿があって、一年生たちは居心地が悪そうに何度も京士郎の方を窺っていた。美琴には、京士郎も同じことをしているように見えた。


「急に集めてごめん。試験期間中だし、みんなの勉強が忙しいのは分かってる」


 部員たちの顔を見回したはじめは、いつも以上の凛々しい声色で緊急会議の開会を宣言した。


「始めようか」


 美琴たちの手元には、洸によって配られた議題の一覧があった。『応援練習について』『高松について』『コンクールについて』。急いで殴り書きしたかのような中身の紙だが、美琴はどろりと濁った息を隠せなかった。“高松”の名前を見るたびに、嫌が上にも肩が強張る。

 はじめが紙をつまみ上げた。


「ニュースでも聞いたと思うんだけど、昨日の台風で神宮球場をはじめとした都内の各球場にかなりの被害が出たおかげで、西東京大会の開会は延期になりました。大会日程がまるごと繰り下がる見込みらしいので、私たちの応援応援もそれに従って先送りになります」

「どのくらい先になるんすか、それ」

「まだ会場の確保が済んでいないので断言はできないらしいんだけど、開会が十五日前後、弦国の第一試合は十六日あたりになるみたい。つまり一週間の延期かな」


 ほんとだ、約一週間延期──。スマホを覗き込んだ直央と恵が声をひそめて話している。この剣呑な空気のなかでよくもそんな真似ができたものだと美琴は思った。菊乃など、見たこともないほど青い顔をしながら、背筋をぴんと伸ばして部長の話を聞いている。

 主催側の発表によれば、開会式と試合日程そのものは順延になるものの、通常あまり使用されない試合会場も臨時で借りきることによって同時試合数を増やし、決勝戦までには予定通りの日程に戻す方針なのだそうだった。むろん選手の負担は増加するが、急がないと全国大会が始まってしまう。東京の大会だけが遅れをとるわけにはいかないのである。

 臨時試合会場の候補には、東京ドームや西武球場のようなプロ球団の本拠地までもが含まれていた。「これなら太鼓も使えるかもしれないぞ!」などとパーカスの二人が息巻いたが、「騒がない」と部長に一喝されて黙り込んでいた。

 はじめとしては、この緊急会議を浮かれた雰囲気にはしたくなかったのだろう。配られた紙に目を落とした美琴は嘆息した。なぜって、今回は議題が議題である。『応援練習』の次に書かれているのは、『高松について』なのだ。


「そういうわけで、期末試験後も四日間程度は練習に打ち込む時間を作れそうです。……問題は、それにすら参加できないかもしれない子がいる、ってこと」


 はじめは一拍の間を置いた。美琴には、議題が次の項目に移ったのを部員たちに理解させるための間なのかと思われた。


「今日、こうしてみんなを集めたのは、高松のことについてきちんと認識を共有しておいた方がいいと思ったからでもあります。まずは現状についてなんだけど」


 ちら、とはじめが花音を伺った。


「今はどんな感じかな、あの子」

「その、一番まずい状態は脱したのかなって思ってます。今日は私の家で勉強してると思います」


 通学カバンを抱きしめながら花音は答えた。里緒が青柳家の世話になっていることを、大半の部員たちはまだ知らない。たちまち、低い響きのざわめきが音楽室に満ち、はじめが手を打ってそれを鎮めにかかった。


「元気にはなってきたんだね、よかった。青柳には本当に助けられたな」

「えへ。西元──あ、クラスの友達の力を借りたので、私だけの功績じゃないんですけど」

「まだ楽器を持てるような調子じゃなさそう?」

「たぶん……。でも、ちょっと気持ちが落ち着いてきた感じがするので、ちゃんとサポートしてあげれば楽器も持てるようになるかもしれません」

「……ま、そうよね。サポート担当は必須か」


 つぶやいた部長の横で、副部長の洸が京士郎を見遣(みや)った。


「先生方のほうでは、高松さんのお宅の方とコンタクトは取れてるんですか」


 ああ、と京士郎は泡を食ったように顔を上げた。自分の役回りを見失っていたらしい。


「まだ……、本人とも親御さんとも直接は話ができていないんだ。ただ一応、期末試験については追試で受検してもらうことになって、今はひとまず病欠の扱いにしてある。優先してメンタルケアに当たってもらえるように、保健室と教育相談室の先生にも話を通してある」


 いよいよ大事(おおごと)になってきたのを痛感させられる報告だった。「こりゃ、甲子園は無理だな」──。パーカスの徳利のつぶやきをはじめが拾い上げた。


「高松の意欲と復帰度合い次第ではあるけど、少なくとも当面は無理ね。甲子園ではしばらく演奏組のサポートに回ってもらうしかないし、普段の部活動に戻れるかどうかも怪しい気がする。また無理をして心を壊すくらいなら、私としては部活には参加しないで心身を休めていてほしい」

「──あのっ」


 不意に菊乃が立ち上がった。その気もないのに脊髄反射で立ち上がってしまったようだった。たちまち流れ込んだ不気味な沈黙の中で、菊乃は部長(はじめ)にすがるような目を向けた。


「もしかして、その、コンクールの方にも……」

「当たり前でしょ。部長として、今の高松はコンクール組には参加させてあげられない」


 腕を組み、きっぱりとはじめは言い切った。反論を許さぬ断定の口調に、たじろいだ菊乃が息を呑む。そんな──。菊乃を取り巻く二年生たちの中から無言の叫びが一斉に噴出したのを、美琴は敏感に嗅ぎ取った。

 やっぱり、そうか。

 この判断が下ると思っていた。

 里緒はクラリネット独奏(ソロ)から外される。技量からいっても、空いたパートを埋める白羽の矢は自分に立つことになるだろう。まさしく美琴の望んだ通りの未来が、今、こうして実現している。そして、その未来に対して少しも愉快な気分になれない理由も、今は自分なりに理解できているつもりだった。


「そんな、待ってください。高松ちゃんは独奏(ソロ)なんですよ。あの子を替わるのは簡単なことじゃないんですよっ」


 菊乃が叫んだ。無理やり上から押さえつけたみたいに控えめな口調だったが、はじめを見上げるその双眸(そうぼう)にはかすかに光が揺らいでいた。そんなの嫌だ──と、無音の声が耳をつんざいて訴える。


「茨木がいるでしょ。二年生なんだし、本番までまだ二ヶ月もある」

「あたしたちは高松ちゃんの音色を見込んで曲選びをしたんです! お願いです、参加を認めてください。無理な練習はさせません。無理を言って参加させたりもしませんからっ」

「そう言って今までずっと無理に練習に参加させてきたんじゃないの?」


 はじめの瞳に赤色の閃光が走った。


「誰からとは言わないけど相談を受けてるんだよね。高松が不本意にコンクール練習に拘束されてるんじゃないか、こんなのおかしい、って。一時間でも長く練習したいところなんだろうし、滝川たちに悪気があったとは思わない。でも、そういうやり方をするつもりなら、部長の私は責任持って高松を守らなくちゃならない。分かるでしょ?」


 見事なまでのカウンターパンチだった。胸を衝かれた表情の菊乃が唇を噛み、固唾(かたず)を飲んで見守っていた二年生たちの間には一様に沈黙が広がった。

 はじめは今、憤っている。

 熱く濁った胃が燃えるような息を吐き出して、美琴はとっさに肩をすぼめた。ぽつり、隣に立つ菊乃がつぶやいた。


「高松ちゃんがいなかったら、練習にならないよ……」

「だったらやめたらいい。たった一人、しかも一年生の奏者に頼りきらないと練習すら成り立たないなら、コンクールへの挑戦なんて諦めてしまった方がいい」


 はじめが無下に断じる。取り付く島のない物言いに、それでも菊乃は抗うのをやめなかった。リーダーの叫びにはコンクール組の意地がかかっているのである。


「そんな簡単に言わないでください! 今までどれだけみんな、高松ちゃんも含めて、少ない時間をやりくりしながら頑張って練習してきたと思ってるんですかっ! そんな生半可な態度で臨んでたわけじゃないんです、バカにしないでください!」

「その“頑張ってやった練習”は誰のためなのか? って話なんだよ」


 洸が口を挟んだ。搦手(からめて)からの思わぬ反撃に、菊乃はまたしてもたじろいだ。


「先輩が自分たちのエゴで後輩を振り回しちゃいけないのは分かるだろ。君らコンクール組がそういうことに手を染めているんじゃないかって、僕たちは不安視してきたんだ。高松さんだけじゃない、他の一年生の子たちに対してもね」

「そんなっ……」

「高松さんのことはいったん置いて考えよう。自主参加の活動に一年生の子たちを巻き込むなら、相応の理由が必要だ。どうしてコンクールに挑むのか、なぜ一年生が必要なのか、滝川さんたちはきちんと説明した? 今、この場で説明しろと言われたら、きちんと答えられるだけの言葉を滝川さんたちは持ち合わせているのか?」


 振り向いた菊乃の目が、二年生たちの間を必死に探り歩く。恵も、直央も、智秋も郁斗も宗輔も、誰もが下を向いている。重なることのなかった視線がついに美琴の方を向いて、美琴は蒼褪(あおざ)めた菊乃の顔付きを正面からまともに見てしまった。

 菊乃はかつてないほどに追い詰められている。結ばれた唇の一文字に魂が吸い寄せられて、今にも息ができなくなりそうで、気付けば美琴も菊乃から視線を外していた。




「あたしたちは、」


 立ち尽くしたまま、菊乃は言った。


「あたしは…………」








「……泣くのは、卑怯なんじゃない?」


▶▶▶次回 『C.112 緊急ミーティングの行方』

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