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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第四楽章 蒼の涙とアイネクライネ
117/231

C.110 涙の解放

 



 いちばん最後に風呂を出た紅良が布団に潜り込む頃には、青柳家は台風の暴風域を脱していた。

 台風は一般的に東側の勢力が強く、西側は弱い。すでに屋外を舞う風は平時のそれと大差ないものに戻り、雨音も東に遠ざかって、寝室には早くも台風一過の静寂がもたらされつつあった。


「電気、消すよ」


 電灯のボタンに指をかけた紅良が問うと、先に布団にくるまっていた花音が無言でうなずいた。間抜けな音を響かせて灯りが落ち、里緒の視界はたちまち暗闇に塗り潰された。

 暗闇は苦手だ。

 目を閉じても閉じなくても、昔のつらい思い出がまぶたの裏に再生される。

 誰も「おやすみ」と言わないまま、しばらく時間が過ぎていった。台風に熱を剥ぎ取られた部屋の空気は、七月とは思えないほどに涼しい。いっそ寒いとすら感じられる。目立たないように布団のなかで鳥肌をさすっていると。


「……里緒ちゃん」


 花音が真っ暗闇のどこかでつぶやいた。


「役に立てなくて、ごめんね」


 里緒の心臓は痛みに鷲掴みにされた。

 そんな、花音や紅良が謝ることではない。謝らなければいけないのは里緒の方ではないのか。ちょっとしたことで古傷の痛みに耐えられなくなる里緒のひ弱さこそ、誰よりも恥じるべきだというのに。

 しかし謝る言葉を口にできずにいるうちに、反対の側から紅良の声が続いた。


「私と花音は明日からは学校に行く。だから、私たちには気を遣わないで、のびのび身体を休めててよ。……その方が、高松さんのためにはよかったのかもしれない」


 ぐすん、と呼応するように花音が鼻を鳴らした。紅良の声色も(しお)れていた。苦しげに捻り出された彼女の言葉はとても本心からのものには聞こえず、だからといってどうすることもできずに、里緒はただ、いつものように布団のなかで身体を丸めていた。

 背骨を通った静かな痛みが、全身の神経に時間をかけて染み渡る。だんだんと暗闇に慣れ始めた目が、隣の布団のなかで同じように身体を縮めている花音の背中を見つけた時。


 ──『里緒ちゃんのことをそのくらい大切に感じていたんだと思うの。きっと今も、そう』


 千明の言葉が脳裏を(よぎ)った。

 千明が虚言を吐いているだなんて思いたくはない。それでも今の里緒にはまだ、その言葉をすんなり信じることはできそうもなかった。期待を裏切られるリスクが失われたわけではないから。

 ただ、そうだとしても、口にしなければならないことはあると思った。花音と紅良は少なくとも、里緒のことを餓死からは救ってくれたのである。

 里緒が二人をどう思おうとも、二人が里緒の命の恩人であることに代わりはない。

 しばらく鼻を啜り上げていた花音も、一分も経つ頃にはようやく静かになって、やがて布団と布団のこすれる音さえ聞こえなくなった。口にすべき言葉をまとめるのに、それだけの時間がかかってしまった。もう、寝ちゃったかな──。不安をかき消すつもりで口を開くと、すぐに湿っぽい空気が鼻腔を満たした。


「……あの」

「うん」


 紅良が反応を返してくれた。里緒は布団の端を握りしめた。


「ごめんなさい、もっと早く言わなきゃいけなかったのに……。四日前のあの日、私のこと助けてくれて、ありがとう」

「…………」

「役に立てなかったなんてことないよ。そんなこと言わないで。私、二人があそこで助けてくれたから、今もこうして生きていられてるんだよ」

「……今のままの里緒ちゃんじゃ、また、死んじゃう」


 花音の発した返事が喉に突き刺さった。その言葉の意味を、痛みを、時間をかけて咀嚼してから、里緒は布団のなかでうなずいた。なぜか口角が持ち上がった。


「……うん。そうかもしれない」

「それじゃ──」

「でも、もし死んじゃっても、それは二人のせいじゃない。だから安心してほしいの。私は青柳さんにも、西元さんにも感謝してるし、……恨んだりなんて絶対にしないよ」


 花音はまた何かを口にしかかったようだったが、ついにそれが声になることはなかった。布団の向こうで二、三回、しゃくり上げるような音がした。

 その音はかえって里緒の良心を軋ませ、歪ませた。追い討ちをかける結果を招くのを頭のどこかで分かっていながら、なぜか勝手に話の続きに口がついた。


「私ね。……ほんとはもっと早く、首とか吊って、死んじゃおうって思ってた」


 花音の身体が大きく揺れ動いた。


「お母さんはそうやって自殺していったんだ。後で調べたら、首吊りはいちばん手軽にできて、いちばん苦痛の少ない死に方なんだって知った。私なら、できると思ってた」

「…………」

「でも、できなかった。怖かった。天井からぶら下がって冷たくなってたお母さんの身体を思い出したら、なんでか分からないけど急に怖くなっちゃって、実行に移せなかった。ただ、首に輪っかをかけるだけでよかったのに、誰にでもできるような簡単なことだったのに、そんなことさえ……できなかった」

「…………」

「私、弱虫だし、泣き虫だし、意気地無しだし、臆病だし、人見知りだし、コミュニケーション取るのも苦手だし、かわいくもないし、体力もないし、頭もよくないし、得意なはずのクラリネットだって他の人と合わせたらめちゃくちゃになっちゃうし……。このまま生きていたって誰のことも幸せにできない。いいことなんて何もない。クラリネット吹けなくなって学校に行かなくなった日から、ずっと、ずっと、そんなことばっかり考えてきた。死んじゃったら楽になれるかな、誰の迷惑にもならずに済むかな……って。だけどやっぱり意気地無しで、自殺することさえ怖がっちゃって、とうとう実行できなくて」

「…………」

「……そんな私だから、死んじゃったって二人は少しも悪くないの。分かってもらえる、かな」


 終始、支離滅裂な言葉運びだったが、ようやく話を切れた。しかし五秒が経ち、十秒が経っても、花音からも紅良からもいっこうに同意の返答は飛んでこない。

 盛り上がった不安が、今にも吐き気に変わりそうに濁った。


「そ、そのっ。ごめんなさい……。気を悪くするつもりがあったわけじゃなくて」


 たまらなくなって口を挟んだが、突如、身を(ひるがえ)した花音が思いきり自分の布団を蹴り上げ、その音に里緒の台詞は遮られた。

 まさに一瞬の出来事だった。温もりを帯びた花音の掛け布団が、重い音を立てて床に落下する。頭上の障害物を払いのけた花音は起き上がるや否や、猛然と里緒の隣に両手をついた。どんと耳元で音が響き、すさまじい血相の顔が暗闇に浮かび上がった。


「なんで!?」


 悲鳴を上げることもできないでいる里緒を前に、花音は大声でつばを飛ばした。涙との区別はつかなかった。


「なんで死んじゃうのが前提なの!? そんなの嫌だって、お別れなんてしたくないって思ったから、私たち頑張って里緒ちゃんのこと探したんだよっ!」

「そんな……でも……」

「西元がどう思ってるのか私は知らない! でも私はずっと、ずうーっと、また一緒に隣でクラリネット吹きたいって思ってた! 里緒ちゃんの音色が好きだし、なんなら里緒ちゃん自身のことだって好きだったから、また一緒に学校に通いたいって思ってたっ! 里緒ちゃんが死んじゃったらどれも二度と叶わないよっ……!」


 跳ねた滴は膨らみを破って、里緒の頬に一筋の道を描きながら落ちていく。里緒は目を見開いた。だめ押しとばかりに花音は叫んだ。


「それでも死んじゃいたいっていうなら、私がこの手で殺しちゃうからっ! そんで私も死ぬ! ついでに西元も道連れにする! 里緒ちゃんが守ろうとしたもの、ひとつ残らずぜんぶ壊してから死ぬっ! そのくらいの覚悟もないのに、死ぬなんて簡単に言わないでよっ!」


 凄まじい気勢に心を揺さぶられ、里緒は口をぱくぱくさせた。まずい、このままでは過呼吸が起こる。危険な予兆を察知して恐怖に飲まれた瞬間、左手に触れた誰かの手の熱が、その恐怖を根こそぎ吸い取って中和した。

 紅良の手だった。


「花音。そのくらいにしなよ」


 静かな声で花音を制止した紅良は、まだ動揺の収まらない里緒の手を握って、二つの手のひらの中にそっと包み込んだ。指先に入り込んだ紅良の体温が静脈を伝って全身に広がってゆくのを、里緒は困惑と悲嘆に染まった頭で感じていた。

 今や、心の中は、引っくり返してぶちまけたおもちゃ箱の中身のようだった。

 ──死ななくても迷惑がかかる。死んでも迷惑がかかる。何をやっても迷惑がかかるのなら、いったいどうすればいい? 元のような世界に戻ればいい? それとも花音や紅良のためだけに生きていけばいい?

 もう、二人の知っている里緒はここにはいないのに。

 クラリネットを自在に奏でられる“天才少女”だった頃の里緒は、もうここにはいないのに。

 いるのはただ、何もかもを失い、たったひとつの特技さえ手を離れ、ぼろ雑巾も同然の姿になって穴蔵の底でうなだれるばかりの汚れた少女だけではないか──。


「…………っ」


 口にしようとした自虐の言葉が、刹那、喉に引っ掛かって嗚咽に変わった。それでも里緒は声を振り絞った。


「私っ……、嫌われ者だから、みんなに不愉快な思いさせて、いじめられちゃって、そのせいでお母さんのこと追い詰めて……死なせちゃってっ……。クラリネットだって上手くないから部活に迷惑かけてっ、期待もみんな裏切って、吹けなくなって、クラスの人たちとも仲良くなれなくて……、お父さんにも余計な負担させちゃってっ……、今もこうやって青柳さん()に負担かけてっ……。こんなのが生きていたって何の意味もないよ……。青柳さんのことも幸せにできないしっ……、西元さんの役にも……立てないし……っ。もう……ダメなんだよっ……ぅう……っ……ぅあぁ……あ……ぁぁ……!」


 決壊した涙腺が洪水のような涙を生み、訴えながら里緒は泣き崩れた。人前で泣くのは高校に来て初めてだった。泣かないように、弱虫だと悟られないように、必死に努力してきたのがすべて水泡に帰してしまった。しゃくり上げるたびに脊髄が(きし)む。胃を(えぐ)るように深まった自己嫌悪の悲嘆が、ますます涙の量を増やしてゆく。

 今さら軽蔑されたところで何かが変わるわけでもない。もっと私のこと、嫌いになってよ。失望してよ──。泣きじゃくりながら必死に身体を丸めて、なけなしの殻に里緒は閉じこもろうとした。

 だが、紅良の手がそれを許してくれなかった。


「閉じこもらないで」


 言い放つや、紅良は力強く里緒の左手を握りしめた。締め付ける力のあまりの強さに、里緒は痛みで顔をしかめた。涙がいっとき止まって、そこで初めて、紅良も泣いているのに気付かされた。

 紅良がこんなに感情を(あらわ)にしているのを見たことはなかった。彼女は噛み締めた唇を解き、なおも震える声で言い放った。


「もう独りで泣かせないし、ダメなんて永遠に言わせない。クラリネット吹けなくなったくらいで何よ。あんなもの、これからいくらだって吹けるようにしてみせる。だからお願い、もう……ひとりで殻の中に閉じこもらないで」

「そんなことっ……もう、無理だよ……っ」

「できる!」


 今度は花音が叫んだ。


「私にできることが里緒ちゃんにできないわけないもんっ! 演奏だって、勉強だって、笑うのだって、昔の記憶を乗り越えるのだって……っ!」


 里緒は喉が(あぶく)に包まれるのを覚えた。──どこかの施設で育ち、養子として青柳家に引き取られた花音の発するその台詞には、有無を言わせぬ強い説得力が否応なしについて回っていたのだ。


「私みたいなバカでもできたんだもん、里緒ちゃんにできないことなんてない! 私は里緒ちゃんのこと信じてる! 里緒ちゃんが私たちのこと信じてくれなくたって……っ!」


 花音が目を真っ赤にして怒鳴れば、紅良がすぐに続く。


「私たちは私たちの意思で高松さんに寄り添いたいだけなのっ。そのくらい、許してよ……!」


 自分たちの勝手とまで言われては反論の余地がない。とうとう里緒は涙と声の栓をいっぺんに止められた。

 強張った里緒の身体に花音はしがみついた。紅良はますます強い力で、里緒の左手を握りしめた。濁流を為して流れ込んだ二人の熱は、ひびの割れ目から里緒の心にたちまち侵入して血流を炸裂させ、跡形もなく殻を打ち砕いてゆく。なすすべもない破壊のなかで、その時────暴走し続けた里緒の感情にようやく理性が追い付いた。




 傷付けられるのが怖くて、他人を避けてきた。

 非難されるのが怖くて、迷惑をかけるのを避けてきた。

 十六年間、そうやって逃げ回りながら生きてきた。味方なんて誰もいないのだと、心の底から諦観に包まれていた。

 けれど、紅良と花音は里緒のことを傷付けも、非難もしなかった。どんなに里緒が迷惑をかけても負担を強いても、決して見捨てることなく寄り添ってくれた。もしも二人の思いが本物なら、紅良と花音の前では味方の存在を少しくらい信じてもよかったのかもしれない。

 そうだ、二人は間違いなく味方だった。口先だけでなく、四日間という膨大な時間を費やして、二人はその決意を里緒に行動で示そうとしてくれていた。どんなに里緒が笑わなくても、楽しそうに振る舞えなくても、ずっとこうして隣にいてくれたのである。


(私、)


 里緒は胸の内に自問した。


(まだ、やり直せるの?)


 一言も伝わっていないはずの花音が、紅良が、顔をあげて里緒のことを見た。いっとき涙の止まった頬を拭い、里緒はなおも問うた。


(心の支えにしてもいいの? 私のこと裏切らないでくれるって、幸せをもたらしてくれるって、思っていてもいいの?)


 答えは、──是。

 確信とともに胸に落ちた一滴(ひとしずく)の煌めきはひときわ大きな爆発を起こし、押し上がった涙が一気に目尻からあふれ出した。




 そこから先のことは、記憶がこんぐらがって上手く思い出せない。感情の(たかぶ)るままに任せて泣きながら、ずいぶん色んなことを口走った気もする。むかし受けたいじめのこと、自殺した瑠璃の遺体の冷たさ、独りぼっちで暮らす家の心細さ、部活で持て(はや)されて感じた恐ろしい思いのこと、クラリネットのこと、大祐のこと、それよりもっと遥かに昔のこと──。胸を痛め付ける過去の記憶や葛藤を思い浮かぶままに白状して、吐き出して、嗚咽にまみれて泣きじゃくった。花音もぼろぼろ涙を流していたし、紅良も繰り返し目尻を拭っていた。

 どす黒い毒を吐くたびに心の闇色は次第に薄まって、あるいはマーブルのように猥雑とした色合いになって、里緒の胸を苦悶から解放していった。人に話すだけで、胸の痛みも重みも目に見えて軽くなってゆく。ちっとも知らなかった。瑠璃以外の誰かに苦しみを打ち明けたことなんて、今まで一度もなかったから。

 たとえその“軽さ”が一過性のものに過ぎないのだとしても、今夜は納得して眠れると思った。どうせ幸せには程遠い身である。納得ができさえすれば、今はそれで十分だった。

 いつ眠りに落ちたのかは覚えていない。花音にしがみつかれたまま、紅良に手を握られたまま、三人くっついた状態で倒れ込むように寝入った。泣き疲れて気を失ったような感覚だった。目も鼻も痛くてたまらなかったし、放熱の手段を持たない心は夢の中でもめちゃくちゃに暴れ回った。

 けれども。

 嵐の過ぎ去った部屋に満ち充ちた蒼色の静寂は、孤独の(おり)から解き放たれて自由の身になった里緒の身体と心を、穏やかに受け止め、包み込んでくれた。

 このまま身を任せていれば、いつか訪れる明日からの未来へ、きっと自分を優しく導いてくれる──。

 確かに、そんな気がしたのだ。








「『私たちのこと信じて』って啖呵切ったんだもの。何とかならなくたって、してみせる」


▶▶▶次回 『C.111 台風一過の朝』

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