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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第四楽章 蒼の涙とアイネクライネ
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C.109 花音の真実

 





『着替えを取りに行く』と言っていたはずの紅良が、ちっとも追いかけてこない。不審に思ってドアを開いた里緒の耳に飛び込んできたのは、階下から響いてくる花音と紅良の声だった。

 廊下や階段で幾度も反射した二人の声は不鮮明で、どんな話をしていたのかは分からない。だが、花音は途中から泣き出したみたいで、今も二階の廊下には彼女の啜り泣く声がわんわんと静かに漂っている。

 早鐘を打ち鳴らす勢いで、小さな心臓が拍を打ち始めた。慌ててドアを閉め、胸に手を当てて、里緒は鼓動の音が外に漏れ聞こえていないのを確かめた。


(青柳さん……あんなに……)


 ドアからそっと耳を離して、恐る恐る、深呼吸を繰り返す。いたく浅い()呼吸になった。驚きと衝撃で凝り固まった肺が、思うように息をさせてくれなかった。

 何があったのだろう。

 もしかして自分が何か、いけないことでもしてしまったのか。


(私のせいだったらどうしよう。青柳さんのこと、あんなに泣くまで追い詰めちゃって……)


 身体を通り抜けた悪寒は、次の瞬間には喫驚に置き換わって足元から里緒を突き上げた。閉めたはずのドアがいきなり開いたのだ。


「ひゃ……!?」

「あら。ここにいたのね」


 顔を覗かせたのは花音の両親だった。ひとっ飛びで部屋の隅まで逃げ込んでいた里緒を、彼らは手招きでドアのそばまで呼び寄せた。

 必死に首をすくめる里緒を見て、千明は笑った。


「大丈夫よ。取って食ったりしないから」

「あの……その、私……」

「下で紅茶でも飲みましょ。台風の音もすごいし、この部屋じゃ落ち着いていられないでしょう」


 それはもう、色々な意味で落ち着けない。階下で聞こえている花音の鼻声が気にかかって仕方なかったが、促されるままに里緒は部屋を出された。

 二人は花音たちのいる廊下を避けて、今しがた夕食を囲んだばかりの食卓まで里緒を連れ込んだ。隣のリビングにはすでに紅茶のポットがある。里緒をソファに座らせると、千明が里緒の対面に、晴信が斜め向かいに腰かける。二階と比べれば台風の爆音はいくらか静かだったが、深く見知らぬ二人に囲まれた里緒の心中はまったく穏やかではなかった。──なぜ、自分だけがこうして呼び立てられたのだろう。

 (すす)められるまま、湯気の立つ紅茶を(すす)った。芳ばしい香りが鼻いっぱいに膨らんで、また少し、身体が(しぼ)んだ。


「……やっぱりうちの子と似てるわよね」

「うん。似てるな」


 二人は里緒を眺めながらそんな言葉を交わしていた。何のことだか分からないでいると、紅茶のカップをテーブルに置いた千明が柔らかに微笑んだ。


「そろそろうちに来て四日になるかしらね。どう、我が家には慣れてくれた?」

「えと……その……」


 里緒はとっさに反応に詰まった。どう答えたらいいものだろう。


「うちと色んなとこが違って……。私のうちは私とお父さんの二人しか住んでなかったから、その、お邪魔になってないか心配です」


 どんな話をしようとも、最後には必ず自分のことを(おとし)める言葉で締めくくってしまう。「大きな家だから邪魔になんてならないわよ」と千明は笑った。


「ま、他人の家にお世話になると、どうしたってそんな感じになっちゃうわよね。いいのよ、自然な感じでいてくれれば。無理に慣れようとしてくれなくたって構わないの」

「そ、そうですか」


 それならいいのだが。ひとまずほっと息を落としたら、弾みで喉の奥に控えていた疑問が転げ落ちた。


「あの、」


 夫妻の視線が細くなった。たちまち、すべてを誤魔化してやり過ごしたい衝動に駆られたが、里緒は疑問の続きを懸命に口にした。


「私と花音さんが似てるっていうのは、どういう……」


 ああ、と千明はこともなげにうなずいた。瞬間、その声色がいくらか低くなって、響きを失った。


「そうねぇ。四日もうちで過ごしていたら、そろそろ違和感を覚える機会も多くなってくる頃かと思うんだけど」


 違和感──?

 里緒は目をしばたかせた。荒れ狂う風雨の怒号が、雨戸の向こうで大きくなったのを感じた時、「これなら分かりやすいかしら」とつぶやいた千明は、背後の額縁に()まっていた家族写真を抜き出して、それを里緒の前に置いた。

 青柳家の三人が写っている。


「これは……」

「本当は花音が花音のタイミングで言えばいいことなんだけども」


 口を開いた晴信が、並ぶ三つの顔を指差す。


「どうだ。けっこう顔、違うだろう」


 里緒は写真を凝視した。言われてみると、確かに花音の顔立ちは千明や晴信とは似ていない。ぱっちりとした花音の目は、両親のいずれも持ち合わせていないものだ。初めて顔を合わせた時も同じ感想を抱いたのを、やけに遠い昔のことのように思い出した。

 まさか。

 顔を出した真実に気付きかけて、里緒は息を呑んだ。

 里緒ですら大祐や瑠璃に似ていると言われながら育ってきたのだ。()()()親子ならば、顔が似ないはずはない。……その意味するところは。


「あの、もしかして青柳さんって……」

「養子なのよ、あの子」


 ためらいもなく千明は口にした。里緒はいよいよ、どんな顔をして耳を傾ければいいのか見当がつかなくなった。


「詳しくは本人の口から聞いてくれればいいと思うけどね。……あの子がうちに来たのは、ほんの数年前。花音がまだ小学生の時だった」


 語りながら、千明はカップの持ち手に指を通した。


「あの頃の花音はね、今の里緒ちゃんとおんなじ顔をしてた。長いあいだ施設で暮らしてきた子だから、きっと普通の家に慣れなかったのね。初めのうちは(こと)あるごとに私たちを警戒して、なかなか心を開いてくれなかった。六年生になったあたりからだんだんと明るくなって、楽しそうに生きるようになって、そうして今の花音がいるの。びっくりしたでしょ」


 びっくりも何も、予想外すぎて想像が追い付かない。あの開けっ広げな花音に、そんな複雑な過去があっただなんて──。積み上がった既存のイメージが根こそぎ崩れてゆくのを膝にしがみついて耐えながら、里緒は先を促した。


「うちは()()()()家庭なんだよ」


 厳つい顔の晴信が、ふっと表情筋を和らげた。


「正直、今でもあの子は心配なところがあってね。昔の出来事が原因なのか、誰かに嫌われたり遠ざけられるのを異様に怖がる。嫌われないように、捨てられないようにって、周りの人間に過度に期待してしまうんだ。トラウマってやつなんだろう。もちろん、友達と仲良くしようとするのはいいことなんだが、ひとたびトラブルを抱えると再起がなかなか難しい」

「トラブル、ですか……」

「ケンカしたり話しかけられなくなったり、いじめられたりすると、やっぱり心が大きく壊れちゃうみたい。つい先週も泣き付かれたところよ。里緒ちゃんに嫌われた、もう生きていけない──なんて言って」


 さらりと千明の口にした名前に、里緒は喉が固まるのを覚えた。先週といえば、里緒が花音のことを『怖い』と叫んで突き放した時である。


「ごめんね。里緒ちゃんにとっては、もしかすると迷惑な話かもしれないけど」


 断りを入れた上で、でもね、と千明は続けた。


「うちの花音は少なくとも、里緒ちゃんのことをそのくらい大切に感じていたんだと思うの。きっと今も、そう」

「今回なんか頭を下げられたものな。『里緒ちゃんのことを助けてあげたい、時間をください』って。花音があんなことをするのは初めて見た」

「そうね。普段はもっと図々しいところのある子なのに、あんなに神妙になっちゃって」


 穏やかに笑い合う夫婦の横顔を、里緒は茫然と、呆けたように見交わしていた。二人の話したことが何を意味するのかを理解するまでに、それだけの時間が必要だったのだった。

 この四日間、里緒をたくさんの遊びに触れさせ、しきりに『楽しい?』と尋ねてきた花音の顔。

 里緒が落ち込んだり悲しみに沈むたび、いつも笑ったまま小さく丸められていた花音の背中。

 思い返されるのは、数日の昼や夜をともにする中で幾度も目にした、花音の喜怒哀楽の移り変わり。気遣い。気配り。──それこそ、里緒の拒絶を受けて心を病んだ人のものとは思えないほどの。


「私からすれば今の紅良ちゃんも花音そっくりに見えるんだけどね」


 千明は紅茶を口に含み、舌先で転がすようにして味わい、飲み込んだ。その頬には、一見しただけでは見抜けない深い肌色のしわが刻まれていた。生前の瑠璃には見当たらなかったそのしわに、一瞬、視線を引き寄せられた。彼女は目を閉じていた。真似をしなければならない気がして、慌てて里緒もまぶたを下ろした。

 耳を渦巻くのは、世界を粉々に引き裂かんと(いなな)く風の轟音。しかし耳をそばだてれば、その轟音には花音や紅良の声がほのかに混じっている。──二人は未だに廊下の片隅で嘆いている。そして、それは、他でもない里緒のためなのだ。


「今はまだ、信じられなくてもいいの。信じなくたっていい」


 千明は空のカップをテーブルに置いた。ずいぶん高い、明るい音が響いた。


「だけど、これだけは忘れないでいてほしいかな。私たちは難しいことは望まない。ただ、あなたに独りぼっちになってほしくないだけ。これ以上、孤独のなかで自分を痛め付けてほしくないだけなのよ」

「自分を痛め付けて……」


 里緒は思わず、そのフレーズを反芻してしまった。「そうよ」と千明が首肯した。

 そうなのだろうか。里緒には、自分を痛め付けていたという自覚は少しもない。


(私はただ、怖いものを怖いと思って、必死に遠ざけてきただけだったのに)


 ソファの上で膝を抱えて、身体を小さく丸めた。この姿勢がいちばん心の防御に役立つのだと、経験則で知っていた。存在そのものを物理的に縮め、押し潰した肺で息を殺せば、きっと悪目立ちすることもなくなって、痛い目にも遭わずに済む。里緒なりの処世術の現れでもあったと思う。

 そして、分かってもいた。

 この姿勢が落ち着くのは、外の世界の人たちを恐れているからでもあるのだと。

 ハリネズミやアルマジロが背中を丸めて身を守るように、里緒はこうしてすべての人に背中を向け、干渉されるのを防いできた。かかわり合いになりたくない、傷付けられたくない、その一心で。

 しかしそれは同時に、救いを求める最後の一手をかなぐり捨て、殻の中で無惨に腐敗してゆく道を選ぶ手段でもある。

 そう考えると、ここ数日の花音や紅良の動きに対する認識も変わってくる。二人は刻一刻と破滅に進んでゆく里緒の殻を懸命に叩き、脱出を促そうとしてくれていたのではないか。あれほど泣きながら待ち望んだ再起のチャンスを、二人は里緒に与えてくれようとしていたのではないのか。


「紅茶、まだ余ってるけど、もう一杯飲む?」

「うちのは葉がいいぞ。眠れなくなることもない」


 うつむく里緒に青柳夫婦は笑った。屈託のない、裏のない優しい声色に、孤独だった花音を明るい少女に育て上げた親の力強さを里緒は垣間見た思いがした。









「まだ、やり直せるの?」


▶▶▶次回 『C.110 涙の解放』

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