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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第四楽章 蒼の涙とアイネクライネ
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C.107 対面と誓い

 




 大祐の見立て通りだった。午後三時、待ち合わせ場所と指示した映画館の前に現れたのは、モノレールの駅で里緒のことを捕まえようとしていた記者の女性だった。

 大祐が言葉を発する前に、女性──神林紬は深々と腰を曲げ、叫んだ。


「このたびは本当にすみませんでしたっ……!」


 心臓が止まったかと思った。数多の通行人が見ている前である。本人としては恥をかく覚悟でやっているのだろうが、恥をかくのは謝罪を受けている大祐も同じだ。面食らってしまって、慌てて顔を上げさせた。


「こんなとこでいきなり謝られたって……。どこか、店でも入りましょう。ゆっくり時間の取れる場所の方がいいでしょう」

「そうですよね……。本当、ご迷惑……かけてしまって……」


 ただただ平身低頭するばかりの紬を連れて、大股歩きで近くのカフェを目指した。あらかじめカフェの目星をつけておいたのが奏功した。こんな衆人環視のなかで、一から店を探すことなんてできやしない。

 ひそかに撫で下ろした胸から、大祐は冷たい息を吐いた。

 やっぱり、出会い頭に怒鳴り付けるような勇気は自分には出せなかった。


(きつめの非難でも浴びせてやろうかと思ってたのに)


 せめてもの慰みに、この記者からは聞き出せる限りのことを聞き出して、吐きたい限りのことを吐き出して帰ろうと思った。頭を下げさせるために呼び立てたわけではないが、そのくらいの資格は自分にもあるはずだった。

 なぜって。

 悄気(しょげ)たそぶりで隣を歩く彼女は、里緒や瑠璃の過去を日本中にぶちまけてくれた諸悪の根元、日産新報社所属の記者なのである。




shiori(シオリ) cafe(カフェ)』は奥行きの小さな店だった。客の間に分け入って席を見つけ、適当に注文を済ませて着席する。その間、紬は下げた頭を上げようとしなかった。


「重ね重ね申し訳ありません……。オフィスにご不在だったとはいえ、名刺を置き去りにする非礼までも犯してしまって……。しかもこうして、申し開きの場まで……」

「もういいですよ。私の方にもお尋ねしたいことがあったから、こうしてお呼びしただけです」


 大祐はタバコに火を点けた。突き放す言い方をするのは苦手ではなかったが、突き放すことそのものは苦手で仕方ない。くゆる煙の向こうで、紬の姿も揺れて見えた。

 どうしようか。

 こうして呼び立ててみたものの、大祐の側にも上手く追及できる自信はない。する気力だって残っていない。


「どこから切り出したもんかな……」


 つぶやくと、ようやく紬が顔を上げた。その不自然に崩れ、緩んだ口の端に、彼女の乱れた心のうちを容易に察することができた。わざと気付かないふりをして、大祐はタバコを灰皿にねじ伏せた。


「神林さんと呼べばよろしいですか」

「……はい」

「あの日、柴崎体育館の駅の下で、うちの娘に何を聞こうとしていたんですか。あの子がうちの娘だと──高松里緒だと、ご存知だったんですよね」


 はい、と紬はうなずいた。(しお)れた花が花瓶から(くずお)れるような仕草だった。


「……お話を聞き出そうとしていたのではないんです。お話ししなければならないことがありまして」

「それは娘じゃなければいけなかったことなんですか」


 大祐はタバコをねじりながら問いを重ねた。

 あのタイミングで連絡を取ろうとしてきたこと。いざ会ってみたら、真っ先に『すみませんでした』と頭を下げられたこと。その振る舞いからして、この女性記者が今回の報道騒ぎに深く関わっているのは間違いなさそうだ。その憎むべき相手を前にして、思っていたほどの激情に駆られずに済んでいるのは、大祐の側も色々な思惑に疲弊しきっているからなのかもしれない。

 もうたくさんだ。自分を傷付ける真実に出会うのも、振り回されるのも。


「その」


 紬は身動(みじろ)ぎをした。


「娘さんからお聞きになってはいませんか。私、娘さんとは少々の縁がありまして……」

「娘は知り合いじゃないと言ってましたが」


 里緒の口にした通りの言葉で切り返すと、たちまち紬の顔は歪んだ。よもや里緒の口から関係を否定されるとは思っていなかったのだろう。

 しかし当の大祐も失意に身を固めていた。やはり、この記者が主導していたのか。そんな予感はしていたが。


「いつから知り合いだったんですか」

「その……今年の四月頃からです。娘さんが土手で楽器を吹いていらして。私も昔、吹奏楽をやっていたもので」

「里緒からはうちのことをどこまで聞かされていたんですか。あの子だって被害者だ。そう簡単に過去を話すとは思えないんですが」

「お母さまがすでに亡くなられていることと、この春に仙台から来たということ……そのくらいです」

「それで、誰がそこから先のことを」

「……私です。ほとんどすべて、私が」


 大祐は驚きを通り越して呆れた。たったそれだけの知識で、たった一人で、里緒や瑠璃の過去を雑誌や新聞の記事にできるほど調べ上げたというのか。


「何気なくインターネットで調べていた時、娘さんのことに触れているたくさんのスレッドやメッセージを見つけました」


 紬はうつむきながら、膝の上で両手を組んだ。


「その内容を見て、思ったんです。この子はいじめに遭っていたんじゃないかって……。公憤に駆られてつい、調べて回ることに夢中になっていたら、こんな事態を招いてしまって……。つくづくお詫びのしようもありません」


 謝ってほしいわけではない。万感の思いを込めて首を横に振った大祐は、満を辞して、尋ねそびれていた本題を切り出した。


「里緒には何を話そうとしていたんですか」

「謝ろうと思っていました。……こんなことになってごめんね、傷付けてしまったよねって」


 紬は力なく答える。重ねて「本当ですか」と訊いた。


「本当に謝る気、あったんですか。おたくの新聞社にとってもいい部数稼ぎになったでしょう」

「そんなことは……っ!」

「後からなら何とでも言えるんですよ。いくら口先だけで謝られたって、悔いや反省を述べられたって、信用することなんかできない。当たり前じゃないですか」

「お願いです、信じてください! 私は本心から申し訳ないと思ってっ……!」


 紬の眉が崩れ落ちそうに傾いた。潤んだ瞳に光が宿るのを見ても、頑なに強張った大祐の心情は揺るがなかった。いや、騙されてたまるかという一心で保ち続けた、というのが正確なところだったかもしれない。


「あなた方のようなメディアの人間に、勝手に過去の遺恨を報じられる側の気持ちが分かってたまるか。謝ったくらいでどうにかなる問題ではないこと、あなただってご存知のはずですよね」

「それは……っ」

「誠意を見せる気があるのなら、もっとましなやり方で見せてくれればよかったんだ」


 紬の目尻から大粒の涙があふれた。すみません、泣くつもりなんて──。震える声で言い訳をしながら、彼女は目を拭い始めた。

 万力で圧迫されたような感覚が胸を締め付けたが、大祐はおくびにも出さない覚悟で唇を固く縛った。

 自分は今、紬に怒っている。

 怒っている。

 怒っているのだ。


「分かっております……。結局、当の娘さんにも聞き入れてもらうことができなくて……。怖がらせてしまったんだと思います……っ」


 ぐずぐずと泣きながら紬は肩を丸めた。


「もっとやり方を考えればよかった、接し方を考えればよかったってっ……。私、焦っていたんです……。こんな取り返しのつかないことになってしまうなんて思ってもみなかったからっ、どうしたらいいのか、分からなくて……っ」

「…………」

「娘さんの……里緒ちゃんの気持ちに、私なりに寄り添ってあげたかった……。新聞記者の私にもしてあげられることがあるとすれば、真実を白日のもとに晒して、あの子の苦しみの根っこを絶つことなんだって……。信じていただけないと思います、そんなの当然だと思います……。それでもこれだけは嘘じゃないから、お伝えしたいんですっ……」


 紬の啜り泣く声は、ただでさえ狭い店内に大きく反響する。何事かとばかりに周囲の客たちがこちらを窺い始めた。たまらなく居心地の悪さを覚えた大祐も、紬にならって膝に視線を逃がした。どくん、どくんと、血を送り出す心臓の音が弾けて、眼下の胸は静かに高鳴りつつあった。

 ダメだ。

 こんなに泣かれてまで、強情に怒りを保つことはできない。

 紬の言葉を信じられない以上、この怒りをなかったことにするわけにはいかないのに。


(くそ、泣きたいのは俺だって同じだってのに……!)


 やり場のない感情はエネルギーに換わって、大祐の手に机上の紙ナプキンを掴ませた。これ、と大祐は乱暴にナプキンを突き出した。


「顔、拭いてください」


 泣かれたって困ります、とは言えなかった。やっぱり自分は甘い人間だと思った。


「すみません……。本当、何から何まで……っ」


 言われるがまま、紬は化粧の()げかけた顔を紙ナプキンに埋めた。沈静化に向かっているのを察知したのか、周囲の視線が大祐たちのもとを離れていく。

 それを待って、尋ねた。


「そんなにうちの里緒が大切な存在だったんですか」

「はい……。私には、ですけど」


 弱々しく紬はうなずいた。胸に鈍い痛みが走ったのを覚えたが、大祐は表情を変えないようにして耐えた。

 信じていいのか。

 もしも事実なら、里緒は大層な幸せ者ではないか。

 赤の他人のはずの紬にさえ、こんなに想ってもらえている。結果的にはことごとく空回りしたにせよ、救いの手だって差し伸べられていた。自分とは大違いだと思った。『大祐さんの気持ちに寄り添ってあげたかった』なんて言葉、自分にはかからなかった──。

 そこまで悲観が回った瞬間、いつかの亮一の罵声が強い力で大祐の脳を殴った。


 ──『そんでもってがっかりした! お前は俺たち経理部の仲間を頼りにしてなかったんだってなっ!』


 大祐は我に返った。同時に、何か大きな思い違いをしているのに気付いた。“自分たちは信頼しているし、信頼されていると思ってきた”。そんな前提がなければ、亮一の口からあんな言葉は飛び出さないはずだ。


「個人的な話で恐縮なんですが……。私、鬱で夫を失いかけているんです。夫は追い詰められても誰にも相談せず、ぜんぶ自分で抱え込んで、破綻してしまいました」


 紬は力なく語り続ける。その声は涙で(ほつ)れ、掠れきっていた。


「里緒ちゃんにも同じ道をたどってほしくなかったんです。人間は独りじゃ生きていけない。声を聞いてくれる人、鼓動に耳を澄ませてくれる人がいなきゃ、あっという間に壊れてしまう……。私はただ、里緒ちゃんの声を聞いて、あの子の吹くクラリネットの音色に耳を傾ける存在になりたかった。独りぼっちにさせたくなかったんです……」


 切々と続く訴えを聞きながら、大祐は考えた。“里緒ちゃん”を“高松”と書き換えれば、そのまま亮一の台詞になってくれるのだろうか、なんて。

 結論は『否』。

 亮一ならば、もっといい加減で迫力のある言葉を選ぶだろうから。


(あいつなら言うのかもしれないな。……新発田だけじゃない、経理部の他の同僚だって。上司だって)


 苦笑が口をついた時、ようやく大祐は心の奥底から納得の思いが浸潤してくるのを覚えた。──そうだ、大祐には味方がいなかったのではない。味方の叫ぶ声はどこかに轟いていたのかもしれないのに、それを捉えることのできる耳が大祐には備わっていなかった。どこにも救いがないように感じられたのは、救いがなかったからではなくて、他ならぬ大祐自身のせいだったのかもしれない。

 瑠璃だって、里緒だって、それは同じのはずだ。


「……でも、もう、こんなことになってしまいました」


 紬の言葉で大祐は顔を上げた。彼女は涙と鼻水の跡を拭っている。ハンカチの下に見え隠れする口元が、一瞬、笑っているように見えて、大祐は静かに息を呑んだ。

 紬は目を閉じた。長い睫毛(まつげ)が、藍色の瞳に隙間なく蓋をした。


「報道に携わる者としてやってはならないことを、私はいくつも犯してしまいました。これ以上のご迷惑にならないためにも、今後、高松さんご一家の件には関わらないことにしようと思っています……。取材もしませんし、他社と情報共有を行うこともしません。日産新報社全体として取り扱わないように、上にも申し上げてみるつもりです」


 まったく想定外の発言だった。面食らって声の出ない大祐に、紬は危なっかしく笑いかけた。


「里緒ちゃん……いえ、娘さんにお伝えいただけませんか。『こんなことになってごめんね』って。私はもう、あなたの前には姿を表さない。だからどうかクラリネットを吹くのをやめないで、諦めないで……って」

「──待ってください」


 思わず、押し止めていた。押し止めた理由は自分にも分からなかったけれど、それが紛れもない自分の意思によるものだという確信に押されて、大祐はまっすぐに紬の顔を見据えた。

 紬が面を上げた。


「待ってください、とは……」

「今さら取材をやめられたって何が変わるわけじゃない。よその記者が押し掛けてくるだけで、結果は同じだ。そうじゃないんですか」

「それは、その、っ」

日産新報社(あなたがた)には取材を続けていただきますよ」


 紬の頬は一瞬で紅に染まった。

 ああ、とうとう真逆の結論を出してしまった。こんなことを言うつもりで呼びつけたのではなかったのに。膨らんだ邪念を大祐はコーヒーで喉に落とし、机に手を乗せた。何としてでも向こうに伝わってもらわねば、こちらの本気度も無駄になる。


「いじめは悪だっていうのが日産新報の報道スタンスですよね。だったら、われわれの方でも報道を利用させてもらう。被害者遺族としての立場を発信してもらう。これで、チャラにします」

「しゅ、取材……」


 紬が叫ぶように言った。


「続行させていただいてもいいんですか」

「その代わり里緒には手を出さないでください。日常的な交流はともかく、あの子を取材対象にするのだけは控えてもらいたい。矢面に立つのは、親の私ひとりで十分ですから」


 約束できますか。──無言の念押しを込めて紬を睨むと、紬はすぐさま首を大きく振った。


「誓います」


 その言葉をどれだけ信じることができるのか、今の大祐には何とも言えない。しかしこれだけは言えると思った。

 反撃のチャンスがあるなら何だって活かしてやる。もう、孤独の鎖に囚われ、何もしないまま絶望感に浸っているのはたくさんなのである。

 紬がまた泣き出しそうに顔を歪めた。これ、と大祐は紙ナプキンを再び突き出した。彼女のハンカチはすでに使い物にならなくなっている。つくづく頼りない記者だと思った。


「すみません……」

「しっかりしててくださいよ。日産新報さんには、私たちの叫びを日本中に届けてもらわなければいけないんだから」


 紬はうなずいた。


「きっとお届けします。約束、させてください」


 震える彼女の背中の向こうには、国内有数の講読者数を誇る大手の全国紙が静かに巨体を控えている。頼むぞ、と大祐は声には出さずに訴えた。

 ぐっと握り固めた決心は穏やかな温もりに変わって、大祐の身体を内側から包み込む。

 午後三時。窓際の席には傾きかけの陽が差し込んで、テーブルの上に並んだカップの向こうに長い影を描いていた。








「私たち、今度こそ里緒ちゃんから本当に見放されちゃう……」


▶▶▶次回 『C.108 天岩戸作戦──4日目』

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