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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第四楽章 蒼の涙とアイネクライネ
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C.106 天岩戸作戦──3日目

 




 二日連続の作戦失敗は、花音の心にもそれなりのダメージを刻みつけていたようだった。


「今日は西元がやること決めて」


 朝早くに叩き起こされた紅良は、いきなり花音の盛大な無茶ぶりを食らった。これにはさすがの紅良も当惑を隠せなかった。そんな、そもそも自分だって遊ぶのは苦手なのに──。

 ともあれ、花音の気持ちも分からないではない。まずは失敗の原因を洗い出すところから着手することにした。

 初日は里緒がゲーム下手だったせいで、二日目は里緒が遠慮がちすぎたせいで、どちらも失敗に終わっている。ならば、何の才能も要求せず、いっさい金銭負担も生じない環境に身を置けばいい。


「公園に行くのはどう。クラリネットとも勉強とも絶対に無縁の場所だし、あつらえ向きだと思うけど」


 そう提案すると、途端に花音は怪訝な顔をした。


「えー、でも里緒ちゃん、たぶん普通に遊んでるだけで何かしら失敗して凹んじゃうよ」


 だったら遊ばず、()()()()いいのだ。地図を引っ張り出した紅良は、立川市のページを指差した。中心街の西、立川から奥多摩方面へ向かう青梅線の北側に、自衛隊の広域防災基地が広漠と横たわっている。示そうとしたのは、その隣にある区域である。


「昭和記念公園があるでしょ。サイクリングもプールもある、アスレチックだってある。バーベキューもできるし、花木園でまったり花を見てたっていい」

「それなら悪くないかも! のんびり気の向くままに過ごすのだって遊びのうちだよね」


 一転して花音は目を輝かせた。

 決定である。口をついた笑みを追いやろうと、紅良は深々と息を吸った。ずいぶん新鮮な空気の味がした。


『天岩戸作戦』もこれで三日目。

 そろそろ里緒にも笑ってほしいものだと思う。

 このままのペースでは、戦果を上げられる前に紅良や花音の方が音を上げてしまいそうだ。




 立川駅の北口に出て、立ち並ぶデパートやビルを見上げながらモノレール立川北駅の高架をくぐり、大きな通りの交わる三叉路の信号を渡ると、園の総合案内所が見えてくる。相変わらず派手めな花音の服を着せられて小さくなっていた里緒は、総合案内所の対面に立つ透明の看板を見るなり、唖然として立ち尽くした。


「大きい……」

「でしょー。一日中いられるよ!」


 隣で花音が胸を張った。まるで発案者かのように大きな顔だが、花音には今日も三人の引っ張り役を務めてもらわねばならないので、余計な突っ込みを入れることなく紅良も里緒の横に立った。すでに眼前には広大な原っぱの『ゆめひろば』、そして視界いっぱいに構える横長の『昭和天皇記念館』が見えている。園の全体から見ればそれすらほんの端っこに過ぎないことを、看板の地図は如実に語っていた。

 その名も国営昭和記念公園。一九八三年、時の昭和天皇の在位五十年を記念して造営された、多摩地域最大級の国営公園である。延べ面積は実に東京ドーム四十個相当の一六五万平方メートル、年間来場者数は四百五十万人超。園内には無数の遊具やレクリエーション施設、レストランやカフェが点在し、張り巡らされたサイクリングロードの全長は十四キロにもなる。

 この弩級の公園でなら、きっと今の里緒に適した時間の過ごし方も見つけられるはず。それが二人の見込みであった。

「どこ行こっかー」と花音が地図を見上げた。三人で顔を付き合わせた結果、ひとまず自転車を借りて園内を一回りしてみることになった。


「ちなみに里緒ちゃん、自転車は?」

「乗れると思う……」


 やけに自信なさげに里緒は答えたが、それはどうやら服の丈の短さを気にしているためらしい。紅良は花音と顔を見合わせて、ほっと安堵の息をついた。気遣いにも気疲れにも慣れてきた。

 昭和記念公園への入園は有料だ。レンタサイクルにもお金がかかる。だが、さしたる高額出費ではないせいか、里緒も尻込みしないでくれた。各々(おのおの)のサイズに合った自転車を見つけて借り、(また)がってみる。高校に入って電車通学に切り替わって以来、自転車を使うのはずいぶん久しぶりだった。


「れっつごー!」


 花音の音頭で、三人は巨大な園内を走り出した。




 里緒がクラリネットの天才──そして自己否定の天才なら、花音は遊びの天才だと紅良は思う。何だかんだといって凹みつつも、こうして遊び場を目の前にすると、花音は楽しむチャンスを絶対に逃さない。

 とりあえずと西立川口エリアに向かった途端、さっそく『水鳥の池』に浮かぶボートを見つけた花音は、「あれ乗ろうよ!」と叫んで自転車を放り出してしまった。手漕ぎのローボートは一時間七百円、しかもちょうど三人乗り。嬉々として乗り込んだ花音がオールを握り、里緒と紅良は恐る恐る、その前後を挟んで腰かけた。

 ぐいと花音がオールを振るう。細身な身体のどこに隠されていたのか、凄まじい力でオールが水を掻き分けた。


「──いえーい! 出航!」

「──ひゃっ!? 揺れた……!」

「──ちょっと花音、初っぱなからそんなに飛ばさないでも……うわっ! 水を跳ねさせるな!」

「──早い……! 揺れる……! 怖い……っ!」

「──何やってんのよ岸壁にぶつかるでしょ! 後ろ見て! 減速! 減速ってば!」

「──無理ー! 花音様だから!」


 オールを振り回しながらはしゃぐ花音、真っ青な顔で舷側にしがみつく里緒、水飛沫を食らいながら文句を言う紅良──。三分も経つとすっかりそれぞれの姿が板につき、下船する頃には紅良も里緒も早々に疲労困憊に追い込まれていた。船酔い気味の足取りで自転車置き場へと向かう里緒をよそに、けろっとした顔の花音は暢気に湖畔のフェンスに寄りかかって水鳥を眺める始末。


(この子に限界っていうものはあるんだろうか)


 小中学生の遊びにでも付き合っている気分になりながら、ため息をひとつ挟んだ紅良は、夢中でカモを追いかける花音の服を摘まんで自転車のところまで連行した。


「高松さんのための昭和記念公園(ここ)なんでしょうが」

「はぁい……」


 神妙な面持ちでうなずいた花音だったが、(まばた)き一回分の間も置かずに自転車に飛び乗り、「行くよー!」と走り出した。まったく反省の色のない背中を、仕方なく、里緒と並んで懸命に追いかけた。


 昭島口付近のレジャー施設『レインボープール』には、水深わずか十五センチの子供用プールエリアがある。足湯感覚で入れるので、これなら水着を持っていなくても大丈夫だと花音が言い張ったが、一着の替えもないことを紅良が説諭してようやく押し止めた。花音はまだしも、不器用な里緒がうっかり足を滑らせたら大惨事である。花音はなおも諦めずに「水着用意して来月くらいに出直そうよ」と提案したが、里緒は青い顔で首を振るばかりだった。

 複数の環状交差点によって複雑に束ねられ、園内各所の駐輪場と接続する長大なサイクリングロードは、コースの外見に比して上り下りが激しい。もちろん花音は快活な顔でぐいぐいと上っていくが、置いていかれる紅良や里緒してみればたまったものではなく、里緒など上り坂に差し掛かるたびに自転車を降り、押して歩こうとしては花音に急かされる有様だった。「二人乗(タンデム)自転車にすればよかった」などと、紅良への配慮のかけらもない言葉を吐きながら花音は頬を膨らませていた。

 玉川上水口付近には『こどもの森』がある。巨大ハンモックやトランポリン、(とりで)といった大型の遊具が、数えきれないほどのオブジェとともに複雑な地形のなかに建ち並んでいる。


「さすがに女子高生三人で立ち入るのは……」


 それとなく拒否の意思を伝えようとしたが、花音は一言も聞かずに里緒の手首を掴んで入っていってしまった。仕方なく、紅良も自転車を駐輪場に置いて追いかけた。今日は紅良がアンクル丈のカプリパンツ、花音が三分丈のキュロット、里緒が二分丈のショートパンツ。スカートを穿()いている者がいないだけでも救いだと思うことにした。

 迷い込んだ森のなかで、花音の遊びっぷりは本当に自由だった。入り口でいきなり霧を浴びて「濡れるー!」と叫んだかと思えば、両手をいっぱいに広げながら渦巻き状のスロープを駆け下り、地面から生えたドラゴンの顔に首を突っ込み、ピラミッドに走り上り、岩のトンネルに突っ込んで迷子になりかけた。追跡を諦めて日和見(ひよりみ)を決め込んだ紅良はともかく、一緒に走らされる里緒はたまったものではなかったに違いない。次はあっち、次はこっちと、文字通りに振り回される。

 自転車のもとに戻ってくる頃には、二人の服はすっかり汗にまみれていた。


「風……冷たい……」


 小刻みに肩を震わせる里緒の向こうで、花音はなおも暴れ足りないとばかりに飛び跳ねている。その惨状に、紅良は自分の認識をいささか修正するのを余儀なくされた。

 これはもう、里緒の体力や資質に問題があるのではない。()()()普通ではないのだ。


「休憩しよう。高松さん、ぐったりしてる」


 えー、と文句を垂れる花音の背中を押して、最寄りの休憩場所を目指した。選んだのは『渓流広場レストラン』。園内最大の面積を誇る広場『みんなの原っぱ』を対岸に望む、ささやかな渓流のほとりに立つレストランである。




 着いて早々、里緒をトイレに送り出し、二人は急いで作戦会議を開いた。


「高松さん体力ないんだし、あんまり振り回さない! みんながみんな花音みたいに暴れられるわけじゃないんだから」


 ここぞと思って小言を入れると、すかさず花音も反論を挑んできた。


「西元はもっと楽しそうにしなきゃだよ! つまんなそうな顔しないでよ、里緒ちゃんに移っちゃうじゃんっ」

「つまらないんじゃなくて呆れてんの! 花音みたいなお子さまっぽいはしゃぎ方しないだけ!」

「そんなかっこつけたって里緒ちゃんは笑ってくれないよ! オトナぶってないで、もっと羽目を外しなよ!」

「花音は外しすぎだって言ってんのよ! 年相応をわきまえなさいよ!」

「ふん! どうせお子さまだもん! かっこつけ西元よりマシだしっ!」


 話は平行線のまま動かない。しばらく舌戦を続けた紅良と花音だったが、三分も経つとついにくたびれて、互いに(さじ)を投げてしまった。

 今のまま里緒を振り回しても、きっと体力を浪費するばかりで埒が明かない。しかし花音の言うことも一理あって、紅良のように大人しく振る舞っていても、里緒は少しも楽しいと思わないに違いない。こういうとき、バランスを取るのは実に難しいのだ。

 紅良も花音も渋い顔をテーブルに横たえた。数人の母親たちに連れられた幼稚園児くらいのグループが、わいわいと賑わいながら二人の目の前を通過してゆく。


「いいなぁ」


 花音が呻いた。


「普通にしてるだけであんなに楽しそうだなんて」


 花音だって十分に楽しそうだと紅良は思ったが、それを伝えても花音が怒るだけのような気がして、無言を貫いた。

 自分が楽しむだけなら簡単だ。だが、人を楽しませるというのは簡単ではない。その人が何に楽しみを見出だすのか、何を快いと感じるのかを知っていなければならないから。

 そして今、二人には里緒を楽しませるすべが次第に思い付かなくなってきた。ゲームもダメなら買い物もダメで、今日はどうやら『体力を消耗するとダメ』であることも判明しつつある。


(わき)の下くすぐったら笑ってくれるかな……」

「そんなことで笑わせて何の意味があるわけ……」


 突っ伏したまま言い合っていると、里緒がトイレから戻ってきた。不安を掻き立ててはいけない。慌てて身体を起こし、何もなかった(てい)を繕った。


「お帰りっ」


 花音が声をかけたが、里緒は返事をしない。


「なんか食べようか」


 紅良が声をかけても振り向かない。

 その視線が遠くの座席に投げかけられているのを見て、二人で視線の先を追った。若い夫婦に連れられた女の子が、父親の膝の上に乗って無邪気に笑い声を弾けさせている。その(さま)を、里緒はじっと無言で見つめていた。


「……里緒ちゃん?」


 花音が尋ねると、ううん、と里緒は掠れた声を発した。


「なんでもない」


 視線の先の親子は幸せそうに肩を寄せ合っている。女の子と里緒とを見比べようと視線を往復させた瞬間、紅良は気づいた。──たった今、この場所で、里緒が今日一番の地雷を踏んづけたことに。


「お母さん……」


 ぽつり、里緒はつぶやいた。その頬から色が抜けきっているのを見て紅良と同じ懸念を抱いたのか、泡を食いながら花音が話しかけた。


「ほっほら! お腹すいたし何か食べようよ! 東村山名物の黒焼きそばだってよ! 薬膳カレーってなんだろね!」

「せっかく晴れてるんだし、バーベキューもありだと思うけどっ」


 里緒は上の空のまま、「うん」などと機械的な声で応答する。迂闊だった──。紅良は唇を噛んだ。いじめの末に母親を自殺で失っている里緒が、楽しそうにしている無数の親子連れを前にして何も思わないはずはなかったのだ。




 その後の顛末は悲惨を極めた。

 何をしていても、花音や紅良が何を言っても、里緒の視線は周りの親子連れに吸い寄せられた。心ここに有らず、ほとんど脊髄反射の会話しかしなくなった里緒の表情は、時間の経過とともにどんどん笑顔から遠ざかっていった。『スポーツエリア』でディスクゴルフに挑んでみても、『日本庭園』で足元を泳ぐ鯉をのんびりと眺めても、『カナール』の噴き上げる巨大噴水に紅良や花音が息を呑んでも。

 仕上げとばかりに、立川口サイクルセンターを目前にして里緒は思いっきり転倒した。親子連れに気を取られ、よそ見運転になっていたのだ。響き渡った金属音がたちまち周囲の視線を集め、倒れ伏した里緒に容赦なく突き刺す。「大丈夫!?」と叫んだ花音に続いて、紅良も駆け寄ろうとした、その時。


「お姉ちゃん自転車乗るの下手くそー!」


 背後を追いかけてきた女の子が、けたけたと笑いながら里緒の横を通過していった。

 その後ろに両親が続いた。やめなさい、と女の子を叱っていたようだったが、その声はようやく起き上がったばかりの里緒の耳には届いていなかったに違いない。


「怪我してない? 絆創膏(ばんそうこう)、要る?」


 尋ねると、里緒は眉を傾けて弱々しく(うめ)いた。


「……ごめんなさい。心配かけて、迷惑かけて……」


 “心配”。

 “迷惑”。

 そんなことを謝られる筋合いはなかったはずなのに、紅良も、花音も、いつまでたっても否定の言葉をかけることができなかった。服のほこりを払い、血のにじんだ膝を払った里緒が、よろめきながら自力で自転車に跨がるのを、ただ呆然と見つめていた。

 冷たい風が吹き抜けた。見上げた空には深く、低く、黒々とした雲が立ち込め、西陽の輝きをことごとく遮りながら明日の行方を暗示していた。








「人間は独りじゃ生きていけない。声を聞いてくれる人、鼓動に耳を澄ませてくれる人がいなきゃ、あっという間に壊れてしまう……」


▶▶▶次回 『C.107 対面と誓い』

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