C.105 二人きりの音楽室で
『仙台母子いじめ自殺事件』が報じられ始めて半月が経った。ここのところ、報道の嚆矢となった日産新報社系の報道機関が急に沈黙を守り始め、なかば引きずられる形でメディアの報道合戦は落ち着く方向に向かっていた。
しかしネット世論の過激化は進む一方だった。個人情報特定の自粛を求める声など一顧だに付されず、“加害者”とされた当時の中学生たちは次々に実名を特定され、住所や交遊関係や家族関係を晒されていった。最大の当事者であるはずの学校が知らんぷりを貫き、怒りの声を上げるべき被害者遺族たちが姿を隠してしまっている以上は、われわれ一般市民が悪者を断罪する他ない──。加害者糾弾の氾濫するSNSや各種のコメント欄には、そんな凄まじい憎悪の混じった義憤が渦を巻いていた。
そして、それだけ話題が沸騰すれば、野次馬感覚で首を突っ込む者の質も悪くなる。
加害者よりも早く、真っ先に特定が完了したのは、被害者のはずの瑠璃と里緒だった。当然、苗字や家の場所まで明かされ、二人がクラリネットを愛好していたことや、いじめによって里緒が吹奏楽部からの退部を余儀なくされたこと、更新されていない吹奏楽部のホームページから里緒だけが抹消されていることも、あっという間に世間の知るところとなった。ネットメディアの中には、一次情報に当たりもせずにそれらの噂話を勝手に統合し、お涙頂戴の物語を仕立て上げて閲覧数を稼ぐものまで現れた。
【女性の死後も、たびたび女性宅からはクラリネットの音色が聴こえてきていたという。近隣住民はこれを怪しんでいたそうだが、被害少女が女性を偲んで吹いていたと考えれば実に辻褄の合う話である。形見の楽器を残して母親に先立たれた少女の無念は推して知るべくもない。少女にとってクラリネットは、母の死で空っぽになった心を埋め合わせるための道具であり、悲しみや痛みを紛れさせる麻薬のような存在だったのかもしれない────】
徹夜同然の体調で過ごしていると、どんな勉強にも身が入らなかった。入れた先から知識がどんどんこぼれ落ち、思考回路は焼き付いて動かなくなる。
机の近い恵に相談すると、「珍しいね!」などと目を丸くされた。
「いつもはもっと計画的に勉強してるじゃん。美琴が徹夜で試験勉強なんて初めて聞いた」
「色々……あって」
頭を掻いて、対処法を求めた。この厄介で鈍重な頭をどうにかしてほしい──。
すると恵は小さく笑って、言った。
「刺激を与えると目が冴えるよ。何でもいいから、いつもとちょっと違うことやってみたら?」
「いつもと違うこと?」
そう! とペンを構える恵はやけに誇らしげだった。
「一夜漬けマスターは常に新しい環境に身を置いて、目を醒まさせるようにしてるのだ。筆記で覚えるのをやめて音読やってみたりとか、勉強する場所を変えてみたりとか」
ずいぶん偉そうな口調だが、それは決して胸を張って誇れる振る舞いではない。ともあれ、彼女の言葉のなかに活路を開くヒントを見つけて、美琴は少しばかり心のゆとりを取り戻した。
「というわけでいつもと違うこと! たまにはわたしに勉強教えていってくれてもいいんだよ! ねっ! どう!」
ようやく本性を露にした恵がすがり付いてきたが、無言で振り払って自席に戻った。これでも勉強はきちんとやっている。同類扱いされる謂れはない。
寝不足になるほど夜通し起きていたのは、勉強が追い付いていなかったからではないのだ。
放課後いちばんに音楽室へ向かうと、なんとそこには先客がいた。彼女は短い髪を掻き上げ、ドアを開いた美琴を凝視した。
「……お疲れさまです、部長」
「茨木こそ。どうしたの、部活もないのに」
「それは私の台詞です」
吐き捨てながら後ろ手にドアを閉めて、ひとまずピアノの近くにカバンを置く。指揮台の近くの机いっぱいに数学の教科書を広げていたはじめは、感情の抜けた目付きで美琴の挙動を眺めていた。
「図書館で勉強するの、飽きたんです」
言い訳を求められている気分になって思わず口走ると、「ふふ」とはじめは笑った。
「いいでしょ、ここ。めったに誰も来ないし、そこそこ防音工事もされてて静かだし」
「見つかったら大目玉を食らいそうですけどね」
「楽器持ってないんだから怒られる筋合いはないでしょ。平気よ」
いつもの涼しい顔に戻ったはじめが、ペンを取って教科書に向かい始める。ああ見えても彼女は豪胆だと美琴は思う。ピアノの前屋根にテキストやノート類を並べ、勉強の進め方を脳裏に思い描いてから、必要なものだけを取って座席に腰かけた。
音楽室の椅子には引き出し式の小さな机が付随している。管弦楽部員として音楽室にいるうちは、楽譜、曲目リスト、それに教本や運指表なんかの置き場に使っているものである。ここで勉強すれば、多少は気を紛れさせることができるかもしれない。淡い期待を重ねた手で、ペンを握った。
部活停止期間に入ると、当然ながらすべての部活は活動を停止させられる。サッカー部も、テニス部も、甲子園の間近に迫った野球部さえ、グラウンドから姿を消す。実際は表立った活動を自粛しているに過ぎないのだが、弦国の校地に静寂をもたらすのに部活停止の効果は十分だった。
静まり返った音楽室の中には、時おりキャンパスの脇を掠めてゆく中央線の走行音が響くほかは、はじめや美琴の勉強に伴って生じる音が単調に漂うばかりであった。紙をめくる音、シャーペンを滑らせる音、新しいルーズリーフを袋から引っ張り出す音、ファイルを開閉する音。図書館の自習室ともなると利用者が多くて、小さな音の積み重ねでも不快な騒音に成り果てるのだが、生徒が二人たむろしているだけの音楽室にあっては事情が違う。ささやかで淡々とした生活音は、かえって疲れの溜まった美琴の耳に心地のいい刺激をもたらしてくれる。
美琴は静寂が嫌いではない。
けれども完全な静寂は好きではなかった。
ほどほどに音の聴こえる世界で、そこにいるのが自分だけではないことに安堵しながら、自分だけの世界に浸っているのが好きなのだ。
むかし菊乃にそんなことを話したら、『矛盾してる!』と笑われた。矛盾はしていないと美琴は思う。孤独が嫌なのであって孤立する分には構わないし、孤高などはむしろ歓迎する方である。
最低限、自分の居場所が与えられているなら、そこに味方はいてくれなくてもいい。誰も敬ってくれなくていい。その代わり存在否定だけはされたくない。居場所を奪われるのだけは、どう頑張っても耐えられないから。
──『美琴、プロになる気ないの?』
──『なんで通ってんの?』
──『美琴のせいで私たち上のクラスに上がれないんだけど。やめてくれない?』
心ない言葉が胸に浮かんだその一瞬、美琴はペンを取り落としそうになった。
やめろ私、思い出すな。余計なことは考えずに勉強に戻れ──。そう念じれば念じるほどに記憶が鮮明になって、ペンを上手く握り直せなくなる。
昨日の夜、眠れなかったのも、今と同じ状況に陥ったからだった。
(ああもうっ……!)
どうにか握ったペンを左手の甲に突き立て、その痛みでようやく我に返った。こんなことをしないと集中もできない自分の情けなさに嘆息していると、ふと、足音が美琴のそばまで聞こえてきた。
「何してんの」
はじめだった。一部始終を見られていたようだ。
「なんでも……」
美琴は口ごもった。
さぞかし奇怪な行動を取っていると思われたことだろう。「そう」とつぶやいたはじめの目は、次の瞬間には美琴の開いたノートに吸い込まれてゆく。後輩の奇行にあまり興味はなかったらしい。
口を開こうとした途端、はじめがノートの一角を指差した。
「そこ綴りが間違って──」
「──あの」
見事に声が重なってしまった。はじめが口を噤んだ。先に用件を話すように促されているのを理解した美琴は、あの、とわざわざ切り出し直して、うつむいた。はじめを正視したい気分ではなかった。
「あのあと、高松からは連絡、来たんですか」
「珍しいこと聞くね」
はじめは驚いた様子で言った。今日の美琴は珍しいことずくめである。
「おとといの夜だったかな、青柳からメッセージが来てね。高松は青柳の家にいるみたい」
スマホをかざしたはじめが答える。ほっ、と思わず美琴は息を吐いた。胸にたまった息の臭いは汚くもなく、きれいでもなかった。
「“元気”とも“クラリネット吹けるようになった”とも書いてなかったけど、ひとまず消息は掴めてるわけだから一安心かなって思ってる」
答え終えた部長の目が、美琴を覗き込む。
「茨木もちゃんと高松のこと、気遣ってたんだね」
美琴は台詞を返さなかった。意地悪な言葉選びをする割に、本心からの言葉には聞こえない。この部長はいちいち繊細な話術に長けていると思う。
はじめの前で隠し事をするのは難しい。ちょっとした言葉の綾から、隠していた本心を見透かされる気がするから。
(この人になら、白状できるのかもしれない)
ため息をつく代わりに、ペンを解放してやった。ことん、と落ちたペンは見る間にノートの上を転がり、ページ同士の隙間に収まって止まる。「眠そうね」とはじめがつぶやいた。
「二時間くらいしか寝てないんです」
「茨木が夜更かしなんて──」
「珍しいですよね」
遮って美琴は笑った。嘲った、とでも言い表す方が心情に即していただろうが、悔しいのでそんな真似はしたくなかった。
「勉強してたわけじゃないんですけど。……眠れなくて、ずっと、ネットのまとめ記事を読んでいました」
「何の?」
「高松のです」
はじめは一瞬で訳知り顔になった。
「いじめのこととか、母親を自殺で失ったこととか、その経緯も今はぜんぶネットで読めますから。もちろんそれがぜんぶ正しいわけではないですけど、起きたことの概要くらいは掴めるじゃないですか。読み始めたら止まらなくて、それで、夜更けまで」
「…………」
「高松のクラが上手かった理由、私、何となく見当がついた気がします」
はじめが眉を上げた。美琴は追われるように、カバンやノートを放置したままのグランドピアノに目をやった。そこに答えが置いてあるのを知っていた。
「部長はもう知ってるかもしれないですけど、高松、中三の大半は不登校だったみたいなんですよ。日がな一日自宅にこもっていたわけだから、クラを練習する時間なんて山のようにあったんでしょうね。おまけに吹く動機だってあっただろうし」
「動機?」
「自殺した高松の母親もクラを吹いていたそうなんです。中学の時はむしろ、そっちの方が有名だったって」
美琴は頑なにピアノを睨み続けた。
「高松にとって、あの楽器は母親の記憶と直結しているんだと思います」
あの妙に長くてキイの多いA管クラリネットにしても、亡き母からの贈り物なのだろう。形見と呼んでも差し支えないほどの存在だったかもしれない。だから、管弦楽部にいる間も里緒はあのクラリネットを大切に扱っていたし、夢中で吹いていたし、あれだけ見事な吹奏を披露できたのだ。
そして逆に言えば、その大切なクラリネットを吹けなくなるという事態は、里緒にとっては人並み以上の重大な危機だったに違いないのである。
「……そんな気はしてたよ。私も」
椅子を引いたはじめが隣に腰かけた。
「高松はただ単にクラが得意だったんじゃなくて、それだけクラに大きな意義を見出だしてたんだろうね。だからこそ、多少しくじったくらいで深々と傷付いたわけだし、音が出なくなったことにもあんなにショックを受けてた」
「私────」
たまらなくなって美琴は叫びかけたが、その先で口にしなければならない言葉の重みが急に恐ろしくなって、続けることができなかった。尻すぼみになった声が途切れて、無駄な息ばかりを吐き出しながら目を閉じた。
ここ数日、報道を眺めながら考え続けて、やっと分かったのだ。
里緒を嫌った理由も、いま、自分がひどく傷付いている理由も。
かつてピアノ教室に通っていた頃の美琴に、里緒は似ていた。必要もないのに周囲の目を気にして、怯んで、やりたいことをやれなくなって逃げ出した、そんな昔の自分に里緒は酷似していた。発端は同族嫌悪のようなものだったのだろう。過去の自分を『乗り越えるべき不愉快な悪夢』と思っていた美琴は、過去の自分と同じ姿をした里緒のことも同時に嫌わなければ、自分の中で整合性を保てなかった。
そして、その嫌悪の結果──。
(私は過去の自分がされたのと同じことを、高松に向かってやった。自分が追い詰められたように、高松を追い詰めてしまったのかもしれないんだ)
そんな悍ましい結論を、どうやって目の前の部長に伝えればいいのだろう。言葉に表そうともがけばもがくほど、本当に伝えたかったことは歪んでゆく気がして。
ゆっくりとピアノを離れた視線が、重力に従ってほこりまみれの床へ落ちていった。はじめの姿はおろか、自分にはこの世のすべての事物を正視する権利がないように思えて、そのまま美琴がじっと沈黙を保っていると。
「茨木」
はじめが変に平らな声を発した。
「八日の夕方って何もないよね」
「……ありませんけど」
しぶしぶ言葉を返した。八日といえば、期末試験の初日。他に用事があるわけもない。
「よかった」とはじめは答えた。含み笑いの欠片もない、まっすぐな声色に、美琴はなぜだか波打っていた心が穏やかになるのを覚えた。
「いま、上福岡と相談してることがあって。試験勉強があって忙しいとは思うけど、放課後に顧問も含めた管弦楽部の関係者を全員、集めようと思ってるんだ。もちろん高松は除いてね」
「何を話し合うんですか」
「これからのことと、高松のこと。話し合わないわけにはいかないでしょ。高松の話はこれだけ世間に知れ渡っちゃったし、あの子の調子は嫌でも私たち管弦楽部の今後に影響する」
それに、とはじめは言葉を切った。
「……放置しすぎて歪んでしまったもの、見なかったことにはできないもの、うちの部にはたくさんあるから」
言葉にも声色にも滲み出ることのない強い覚悟が、はじめの周りを漂っている。思いがけずそれを敏感に嗅ぎ取った美琴は、今はただ、自分の叫びを遮ってくれた部長の優しさに甘えるしかなかった。
「……ごめんなさい。心配かけて、迷惑かけて……」
▶▶▶次回 『C.106 天岩戸作戦──3日目』