C.104 天岩戸作戦──2日目
七月三日に発生し、急速に発達中の台風三号は、暴風域を形成しながら日本列島を目指して北上を続けていた。気象庁の発表によれば、首都圏への直撃は今週末、七月七日のことになると予想される。いささか季節外れの襲来である。
さすがに猛烈な風の吹くなかを外出するわけにはいかない。
「里緒ちゃんも動けそうだし、残り二日のうちに外に行って遊ぼうよ!」
そんな花音の提案で、『天岩戸作戦』二日目は青柳家の外で展開されることに決まった。もちろん、目標は従前と同じ。里緒にクラリネットも勉強も忘れて笑ってもらうことである。
出掛ける前から重大な試練が里緒のことを待ち受けていた。紅良と違い、自前の服を一着も持ってきていない里緒は、花音の私服を着るしかないのだ。
つまり、丈が短い。露出面積も広い。彩り豊かで可愛らしい。日頃からそれほど服装に気を遣っていないつもりの紅良でも、それが地味嗜好の里緒にまったく似つかわしくないことくらいは一目瞭然だった。
「えー、いいじゃん! 可愛いじゃん! ねぇ西元だってそう思うでしょ?」
小一時間に及んだ着せ替えの末、拒む里緒に無理やり桜色のミニスカートを穿かせた花音は、紅良を振り返ってにこやかに問いかけた。その目に「同意しろ」と無言の脅迫を受け、不本意ながらも紅良は同意した。憐れ、里緒は短いスカートの裾を必死に両手で掴んで、無防備な身体をどうにか守ろうとしている。
一日や二日の辛抱である。里緒にはひとまず我慢してもらうしかなかった。
「これ……背伸びしただけでお腹が……」
まだ青い顔で不安を述べていた里緒を、花音は構うことなくさっさと家から連れ出してしまった。
目的地は立川の市街地の北端、立飛地区にある巨大ショッピングセンター『ひららもーる立川』。延べ十五万平方メートルの広大な面積に、各種ブランド店やレストラン、専門店、ゲームセンター、果ては写真スタジオやアミューズメント施設に至るまで合計二百四十もの店舗がひしめく、立川市の誇る地域最大級の集客施設である。数百台超の駐車場が隣接しているうえ、多摩都市モノレールの立飛駅からペデストリアンデッキで直結しているので、自動車の使えない紅良たち三人でも行き来に不便することはない。
里緒はいきなり、最寄り駅のホームに滑り込んだ南武線の混雑にも足をすくませていた。こんな状態で本当に、人出のあるショッピングモールなどに出向いて大丈夫なんだろうか──。余計な不安は線路に払い落として、「さ」と紅良は里緒の背中を車内に押し込んだ。自分の背中もついでに押したつもりだった。
花音は不思議なほど『ひららもーる』の地理に詳しかった。一階に下りるなり、あの店はどこだ、この店は何だと、三人の先頭に立ちながら地図も見ずに答えていく。
「なんでそんなに知ってんの?」
尋ねると、花音は笑った。
「だってよく来てたもん。オープンした日にもお母さんと来たしっ」
『ひららもーる立川』の開業は四年前である。四年前といえば、三人とも小学六年生の頃。自分は何をしていただろう。行き交う客のなかに子供たちの姿をいくつも見つけながら、遠ざかってゆく小学生の日々を紅良は思った。
たぶん、ろくな日々ではなかっただろう。少なくとも花音のように、ご機嫌でショッピングモールを訪れるような真似はしていなかった。
そう考えてしまうほどに、小学校や中学校の生活には微笑ましい思い出が残っていなかった。
眼前にガラス張りの吹き抜け空間がそびえていた。平日だというのに、上の階を通りすぎる人の数がずいぶん多い。人気の施設なのだということがありありと伺える。どことなく居心地の悪さに身体をよじっていると、花音が尋ねた。
「里緒ちゃんはあんまりこういうとこ来たことなかった?」
周囲を気にしながら歩いていた里緒は、跳ね上がらんばかりに反応した。
「う、うん……、あんまり」
「むしろ花音はどうしてここが好きなわけ」
「どうしてって言われてもなー。なんかこう、楽しいじゃん! 歩いてるだけで心が弾むっていうかー」
うきうきと紅良の問いに答えた花音の視線は、事実、その瞬間も周りの店や売り物の服を目掛けて飛び回っている。紅良には花音の気持ちがよく分からなかった。目的のない買い物など、紅良には経験がなかったから。
「こういうとこに来るとさ、お金がなくて手が出なくても、店頭に並んでる服とか小物とか眺めるだけで満足できちゃったりするんだよねー。あ、可愛いグッズのお店見つけた!」
言うが早いか、花音は二十メートルほど先のパステル色あふれる店を目指して走り出した。追いかけようとした里緒が、スカートの揺れを気にして両手を背中に回している。紅良はため息をついた。
(花音が楽しむために来てるわけじゃないんだからね)
とはいえ、先導役の花音が笑顔を絶やさないでいれば、いつかそれは里緒にも伝播してくれるのかもしれない。
仕方なく、紅良も後を追って店に入った。よく知らないパステルカラーのブランド物カバンを手に取った花音が、「これ可愛い!」「ぜったい里緒ちゃんに似合う!」などと叫んで里緒をさっそく困らせていた。
ショッピングモールへの遠出を提案したのも、もちろん花音だった。花音なりに昨日の反省を活かし、勝手知ったるショッピングモールで里緒の心を盛り上げようと考えたようだ。
その戦略はあながち間違ってはいなかったのかもしれない。モールの中は子連れや学生たちで活況を呈していて、確かにこうして華やかな空気に包まれていると、紅良もいくらか財布を握る手が軽くなった。買い食いをしたり衝動的に何かを買い求めるたびに、こういう施設は財布の紐を弛めるのが上手だと思った。訪問者の心をもてあそぶのが上手いのだ。
しかしながら、そんな花音や『ひららもーる』側の思惑は、肝心の里緒にはまるで通用していなかった。
ひとたび有料の施設を見つけ、入ろうと花音が袖を引っ張っても、里緒は決まって肩を縮めながら尻込みした。言い分は「でもこれ、お金かかっちゃうし……」である。財布を持たない里緒の分は花音の財布から支出されているので、いくらお金を払おうとも里緒の懐は痛まないのに、どれだけ花音にせがまれても里緒は頑なに出費を拒んだ。そのうち、花音の方も財布の中身が不安視され始めたようで、プリクラやマッサージサロンに遭遇しても「入ろう」と言わなくなった。
昼食を食べようとフードコートに入っても、里緒の頼むものは決まって超廉価、最安値。衣料品店を覗いても「買わないのに申し訳ないよ」と言って試着すらしないし、キャラクターショップやアニメグッズの店に至っては「よく知らないから……」と言って遠巻きに眺めるだけ。店の敷居をまたぐことそのものが苦痛のようだった。
そうこうしているうちに、入館口前の屋外イベント広場で何かをやっているというのを館内放送で聞きつけた。「これならお店に入らなくていい!」とひらめいて見に行けば、そこでは地元のジャズバンドのコンサートが行われていて、彼らの取り回す楽器を前に里緒は凍りついてしまった。クラリネットのことを思い出す前に花音と二人がかりで引き離したが、どうにも手遅れ感は否めなかった。
極めつけは、「新しいスマホカバーが見たい!」という花音の要望で、一階の家電量販店を覗いたことだった。またしても里緒は店の入り口でひとりで待つことを選んだが、購入を済ませた花音と紅良が店の外へ出てみると、姿が見当たらない。
「どこ行っちゃったんだろう──」
つぶやきながらフロアを見渡した花音が、出てきたばかりの店を振り返った途端、言葉を失った。
見ると、見通した先の壁際には大画面テレビが並んでいて、『直撃REPORTプライマル!』なる民放の情報番組が流れている。
紅良は血の気が引くのを覚えた。番組が扱っているのは、あの仙台のいじめ自殺事件だったのだ。
──『というわけで、まぁ被害者さんの側にも色々と事情があったのかもしれませんが、加害者の側にしても最低限の人権は守られねばならないわけで……』
──『こういうのは訴え出るべき時にきちんと訴えてほしいんですよね、でないと私たちも行動の起こしようが……』
漫然と流れるコメンテーターたちの声がひどく遠く感じた。耳が痛くなって顔を背けると、ちょうど花音と視線が重なった。間違いない。里緒はあのテレビから逃げようとしたのである。一瞬のうちに意思の疎通が取れて、手分けして里緒を探す羽目になった。
結局、別れて二分と経たないうちに花音から【見つけた】と連絡が来た。里緒は最寄りのトイレの個室にいて、小さく身体を震わせていたという。
花音に伴われてトイレを出てきた里緒の、十六歳の女子高生とも思えないほど弱々しく委縮した肩に、紅良はまたしても作戦が失敗に終わったのを痛感させられた。花音のおごりでドーナツを頬張っても、モノレールに乗っても、里緒の歪んだ肩はついに元には戻らなかった。
「放置しすぎて歪んでしまったもの、見なかったことにはできないもの、うちの部にはたくさんあるから」
▶▶▶次回 『C.105 二人きりの音楽室で』