C.010 あの音を追って
鍵の立てる音は軽快だけれど、冷たい金属のドアが開く音は対照的に重たい。あの甲高くて耳障りな摩擦音を出さないように、里緒は自宅のドアをゆっくりと開けた。
「……ただいま」
ぼそり、つぶやいた。中からの反応はなかった。分かっているのに寂情に胸を撫でられながら、靴を脱ぐとそのまま短い廊下を突っ切って、居間に足を踏み込んだ。
午後五時を迎えた正面の窓から、夕方の西陽が目映いオレンジ色の光を部屋中に満たしていた。
──いや、満たしてはいなかった。部屋の床のあちらこちらに転がった大小さまざまの段ボール箱が、真っ黒な陰影をそこらじゅうに作り出している。引っ越しの時に使った段ボール箱の中身の大半を、里緒はまだ整理していないのだ。
テレビも、テーブルも、一切の家具が見当たらない代わりに、段ボール箱ばかりが幾つもぽつんと取り残された居間の景色は、夕陽の色に赤々と照らし出されてなんとも言えず異様であった。
こんな光景にも、すっかり慣れを覚えている自分がいる。
(どれだっけ)
カバンを下ろして適当に床に置くと、居並ぶ段ボール箱たちを里緒は片っ端から開け始めた。一分後、壁際に寄せて置かれていた段ボール箱の中から、目的の物は見つかった。
高校生の里緒からしても一抱えほどの大きさがある、ざらざらとした感触のする硬い箱。昔はもっと大きく感じたものだった。黙って上部二ヶ所の留め金を外し、そっと、箱を開いた。
五つほどに分かれた管のような楽器が、クッション材の合間に埋まるようにして収納されていた。
「……しばらくぶりだね」
里緒は語りかけた。
自然と、優しい声になった。
五つに分割されたその管こそが、里緒の持つクラリネットの管体だった。
クラリネットの中でも比較的大型の部類に入る“A管”と呼ばれるタイプのものの一種で、連結した時の長さは九十センチほどもあり、里緒の身長の半分をゆうに超える。木製でずしりと重いため、指の力の強くない里緒でも持てるように、紺色の首掛ストラップが裏面の指かけ部分に装着できるようになっている。金属製の部品には隅々まで金メッキが施され、存在感のある輝きを放っている。
メーカーは知らない。ブランドも分からない。クラリネットには多数のブランドが存在するが、この一本がどのブランドに属するものなのか里緒は把握していない。知りたいと思ったことさえ一度もなかった。里緒にとってはこのクラリネットこそが、『クラリネット』という楽器の概念の全てだったから。
順に部品を組み立て、正しい向きに調節してゆくと、やがて里緒の手元には一本の長い管体が姿を現した。最後に吹いたのは高校受験が終わった頃のこと。久しぶりに見たせいか、以前よりも黒々と輝いて見えた。重さも増している気がした。赤ん坊を扱うように優しく脇へ下ろし、マウスピースに接続するリードを取り出した。
細い繊維を持つ葦で出来たリードを息で震わせ、それを共鳴させることで美しい音色を出す。そうした仕組みの管楽器を“リード楽器”といって、クラリネットはその一つに当たる。リードを口先で舐めて湿らせ、留め金を使ってマウスピースに装着すれば、演奏の準備は終了である。
ネックストラップを首にかけて管体を持つと、ひんやりとした金属質のある重さが、里緒の細い指先に掛かった。
(また、人前で吹くことになるなんて)
声には出さずに、ぽつり、独り言ちた。
(他人に吹いて聴かせる機会なんて、もう二度とないと思ってたのにな)
指先に掛かる力は、その見かけに反してかなり大きい。ネックストラップを首からかけていたって、ずっと持ちっぱなしでいれば指は疲れてしまう。それでも何となくクラリネットを手放したくなくて、立ち上がった里緒は窓際へ向かった。目が眩みそうに明るい夕陽が、キイを彩る金色の光沢をきらきらと美しく煌めかせた。
いつまでも見とれていたいけれど、そういうわけにもいかない。急に演奏を要求された時のためにも、せめて指慣らしくらいしておこうかな──。思い立って適当に譜面を探そうとした、その時。
不意に、どこか聞き覚えのある笛の旋律が、里緒の耳を打った。
「…………!」
とっさに里緒は顔を上げていた。
どこからだろう、木管楽器の音が聴こえる。中空に音で糸を引くように、か細い、けれど途切れることのない高い音色が、確かに聴こえている。誰かが外で楽器を吹いているのだろうか。
奏者の里緒が聴き間違うはずはなかった。凛とした輝きの内に、ぬくもりを帯びた柔らかさを感じさせる──。それは紛れもなくクラリネットの発する音だった。一切の伴奏を要求することなく、天に向かって訴えかけるような、その旋律の名前は。
(……〈アメイジング・グレイス〉だ)
答えにたどり着いた里緒は立ち上がっていた。
そして、窓の外を覗き込んだ。
団地の前を流れる多摩川の河川敷の方から、正体不明の奏者の音は漂ってきていた。
里緒のクラリネットは、自分でお金を出して買ったものではない。両親にお金を出してもらったわけでもない。むかし、母の瑠璃の私物だったのを譲り受けたものだった。
里緒の所有物になってから、すでに一年近くの時間が経過しつつある。もっとも、瑠璃の所有物だった頃から里緒は頻繁に吹かせてもらっていたので、里緒の奏者としての経歴はかれこれ五年ほどにはなるだろうか。
音楽教室にも通ったことはないし、瑠璃以外の誰かに師事したこともない。まともに習う機会を得たのは中学一年生の折だった。初めのうちは音を出すことすらできず、リードを何枚も駄目にするばかりだったが、それでも持ち主の瑠璃本人だけは何年も丁寧に寄り添い、音の奏で方を教え諭してくれた。だから、瑠璃の奏でていた音色は、そのまま里緒の理想の音色でもあるのだ。
その瑠璃は、立川にはいない。
いるはずがないのである。
「どうして……」
窓のそばに棒のように立ちながら、里緒は無意識のうちにそう口にしていた。
〈アメイジング・グレイス〉の演奏はまだ続いている。明るい音色なのに、どこか深い哀愁を覚えずにはいられない特徴的な旋律。里緒がすぐに曲名を思い出すことができた理由は単純だった。〈アメイジング・グレイス〉は、瑠璃が好んで吹いていた楽曲だったのだ。
そればかりではない。音に芯がない、とでも表現するのだろうか。長く伸ばした後の音が機械のノイズのように震え、そして途切れてしまう、聞いていて心細くなるような独特の演奏法が、瑠璃のクラリネット吹奏の特徴でもあった。そしてそれが今、窓の外から聴こえてきている。
まさか。いや、そんなはずはない。
そんなことがあるはずはないのに、確かめずにはいられなかった。
ネックストラップを外してクラリネットを握り、すぐさまきびすを返して玄関に向かった。靴を履く手間さえもどかしかった。大急ぎで廊下を走り、ひびだらけの階段を駆け足で降りた。
(誰なの?)
クラリネットを必死に掴みながら、団地の建物を飛び出した里緒は舗装道路を駆け抜けた。演奏はちょうど、最後の四番のメロディに差し掛かったところだった。間に合うだろうか──。聴こえる方角に向かって懸命に地面を蹴った。団地の敷地をぐるりと回り込む道を進み、多摩モノレール通りの高架橋の下をトンネルでくぐる。外に出て、目の前のアスファルトのスロープを一気に駆け上がった。
だが、そこで敢えなく演奏は終わってしまった。
「はぁ……はぁ……」
息を切らせた里緒は、肩で呼吸をしながら膝に手をついて、辺りを見回した。
たどり着いたのは多摩川の土手上だった。右を見ると、大きな道路とモノレールの高架線路が、競い合うようにして巨大な川幅の多摩川を渡ってゆくのが見えた。燦々と差し込む夕方の日の光が、土手の脇で風に揺れる草木を黄金色に染め上げていた。
さっきの音色は、どこから……?
里緒は目を凝らした。河川敷の中にいくらか人影が見当たったが、釣りの名所になっているのか、彼らが持っているのは釣竿ばかりだった。誰もクラリネットを手にしている様子はない。
さては空耳か。
(それにしては、嫌にはっきりしてたんだけどな……)
ようやく呼吸が落ち着いてきて、里緒は土手から下へ降りてゆく階段の途中に腰掛けた。目の前の景色は何も変わりはしなかったが、川の流れる音が前よりも少しだけ、鮮明に聴こえるようになった。
里緒がこうして座っているのは、家のベランダから見て左奥の方角。間違いない。先刻の〈アメイジング・グレイス〉はこのあたりから聴こえていたのだ。なのに、演奏している人は誰もいない。
つい今しがたまで里緒が耳にしていたのは、いったい何だったというのだろう。
里緒は途方に暮れてしまった。
黙って座る里緒の頬を、涼しい風がそっと撫で、それから髪を優しく掻き上げて吹き去っていく。
柔らかに暖かい春の陽気を、西空の夕陽はまだ失ってはいないようだ。身体が芯から染みるように暖まってゆくのを覚えて、里緒は思わず、深く嘆息した。
広い川の向こう側には、モノレールの高架線路がずっと向こうにまで走っていくのが伺えた。土手の際に立ちはだかる壁のような高層マンションは夕陽をいっぱいに浴びて黒く焼け、そこが誰かの帰る場所であることを堂々と主張していた。三角や四角の形をした家々の屋根の彼方には、こんもりとした丘陵地帯が萌葱色に輝いていた。開けた景色に広がる空のオレンジと藍色が、網膜に焼き付いて麗しく輝いている。
知らなかった。こんなに居心地のいい場所があるだなんて。
(……引っ越してから、あんまりあちこち出歩いたりしたことなかったからな)
里緒は足元に視線を落とした。今だって、出掛ける場所と言ったらせいぜい最寄りのモノレールの駅と、立川駅に向かう途中の食品スーパーと、あとはコンビニくらいしかない。眼下に行儀よく並ぶ二つの足は、まだ、この立川という新天地に馴れてはいないのだ。浮かべた苦笑が、再び吹き付けた柔らかな風にそっと持っていかれて、里緒はもう一度だけ深く息を吸った。今度はきちんと深呼吸になった。
『素晴らしき恩寵』。──数ある讃美歌の中でも特に知名度が高いこの曲は、かつて奴隷貿易に携わっていた十八世紀のイギリスの牧師が、己の行いに対する悔恨を元にして作詞したと伝わる楽曲である。日本でも愛好者は多く、ピアノや管楽器用の独奏楽譜も数多く流通している。
瑠璃がどうして〈アメイジング・グレイス〉を愛好していたのか、里緒は聞いたことがない。聞いたことはないが、どことなく芯が乏しくて悲愴感にあふれ、それゆえに透明な美しさを持つ瑠璃の音色は、〈アメイジング・グレイス〉本来の風情と曲調によく映えていた。
〈アメイジング・グレイス〉そのものはともかく、瑠璃の吹く音色が里緒には大のお気に入りだった。瑠璃が家のどこかで吹き始めると、里緒も必ずそばに駆け寄ってきては、傍らに座って耳を澄ませたものだった。一音、一音、少しも聞き漏らさぬように、吐息にも気を配って。
もしも、あれが里緒の幻聴だったのだとして、どうして土手から聴こえてきたように感じたのだろう。
(私は土手の上にこんな場所があることも知らなかったのに)
きらきらと金色に瞬く水面を見つめながら、その上にそっと、首をもたげた疑念を置いてみた。疑念はあっという間に川面に消え、それが腑に落ちるための方程式を導いてくれる。
そうだ、だとすればあれはやっぱり、幻聴なんかではない。もしかしたら──もしかしなくても、きっと瑠璃は里緒に教えてくれようとしていたのだ。『ここにはこんな素敵な場所があるんだよ』なんて。
たとえ事実が幻聴なのだとしても、今は納得できる理由がありさえすればよかった。
内側から穏やかに暖まった身体は、部屋にいた時よりも軽く、動きやすくなっている。せっかく外に出てきたのだ。指鳴らしに何か吹けそうな曲を吹いていこう。心に決め、金色のクラリネットを口にくわえると、眩しい光を放つ眼前の多摩川が、最良の課題曲を里緒の頭に囁いてくれた。
ざらざらしたリードの感覚が、下唇にくすぐったく触れる。
久しぶりの感覚が心地よくて、里緒はそこにそっと、温まった息を吹き込んだ。
「……ちょっとあれ、近くまで行って聴いてみよっか」
▶▶▶次回 『C.011 出会い』