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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第四楽章 蒼の涙とアイネクライネ
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C.102 天岩戸作戦──1日目

 




 里緒が眠りについたのを見計らって、起き出した紅良と花音で話し合った。

 この『お泊まり』の第一の目標は、里緒の身体を回復させることである。土手で見つけ、倒れそうになったところを保護した時、里緒の血色はあまりにも悪かった。何日もまともな生活を送って来なかったのが、高度な保健の知識を持たない二人にも肌越しに感じられた。しばらく家事からも学業からも解放された環境に身を置いて、ゆっくり休養をとる。それに(まさ)る解決策はないのが実情だった。

 そして、第二の目標は。


「里緒ちゃんに笑ってもらおうよ」


 無人の居間で紅茶を(すす)った花音は、つ、と唇を結んだ。表情らしい表情をついに見せることなく布団に入ってしまった里緒のことが思い出されて、紅良も花音の意図をすぐに読み取った。


「笑って、泣いて、しばらく余計なことは忘れさせちゃおう。勉強とか部活とか、そういう(わずら)わしいものは何もかも忘れちゃえばいい。さっき、お母さんがキョンシー先生に電話して、里緒ちゃんが追試で期末を受けられるようにしてくれたって言ってたし」

「管弦楽部も試験前期間で休止中だろうし、休息を取るには一番のタイミングね」


 うん、と花音は応じた。深夜の薄暗い灯りの下にあって、その瞳には目に見えない強い光が爛々と燃えていた。

 里緒がクラリネットを吹けなくなったのは、おそらく吹く能力そのものが失われたからではない。それこそ前日まで当たり前に吹けていたのである。そうだとすれば考えられる可能性は、里緒自身の精神面での問題。予想される解決策は単純であった。


「クラリネット吹けないこと、里緒ちゃんにはしばらく考えないようにしてもらわなきゃ。気分転換が済んだらきっとまた、吹けるようになるよ」

「それが第二の目標だな」

「むしろそっちの方が大事なくらい」


 微笑んだ花音がふたたび、紅茶に口をつける。

 初めて踏み込んだ青柳家の居間は、自分の暮らす家と比べるといくぶん広く、物にあふれて賑やかだった。『静かなのは怖いから』といって花音が点けたテレビに、ぼんやりと紅良は視線を放った。太平洋上の沖合いで発生した台風が日本列島を目指していると、ニュース番組の気象予報士が淡々と伝えている。すかさずリモコンに手を伸ばした花音が、やかましい民放のバラエティ番組にチャンネルを切り替えた。

 自分以外の人の家に泊まるのはこれが初めてで、紅良には身の振り方がよく分からない。

 里緒も同じものを感じているように見える。

 でも、こうして二人を家に招き入れ、夜中の居間で紅茶を飲みながら今後の目標を立てる花音の姿は、昨日までの悄然とした態度が嘘のように前向きで、その瞳は希望と期待に満ちていた。


「花音、楽しそう」


 思わず口にすると、きょとんと花音は目を丸くして、それから白い歯を見せた。


「楽しみ」


 頼もしい笑みだった。またひとつ、自分のなかで“初めて”の瞬間を重ねたのを、今度こそ紅良は鮮明に理解した。






 花音によって『天岩戸作戦』と名付けられた二人の計画は、さっそく翌朝から始動した。昼前、寝ぼけ眼をこすりながら起き出してきた里緒を食卓で待ち構えていた花音が、所有するゲーム機やカードゲームの類いをずらりと並べて見せたのだ。


「遊ぼ!」

「え……。その、二人とも、勉強は……」


 寝癖の目立つ髪を懸命に撫でつけながら、この期に及んでまだ里緒はそんなことを気にかけようとする。紅良は横目で花音に無言の牽制をかけた。里緒が寝たらやるよ、と。

 成績良好の紅良に関して心配は要らない。問題は花音だった。四日間の作戦決行期間と引き換えに、彼女は母の千明と『全教科のテストで平均以上を取ってくる』という無謀な約束をしてしまったのである。


「勉強は大丈夫!」


 震える声で言い切った花音が、まだ朝食を食べてもいない里緒に早々とゲームを選ばせ始めた。相変わらず、里緒の頬には蝋人形のごとく色が乗っていない。先の長い作戦になるのが不安視されて仕方なかったが、ともかく紅良も悩みを忘れて花音の隣に椅子を移した。

 結局、里緒はゲームを選ぶことができず、「全部やろう!」という花音の鶴の一声で今日の作戦内容は決定された。


 アナログやデジタルの区別を問わず、花音の家にはゲームが異様に多かった。しかも、友達を呼ぶために買ったのではなくて、家族三人でやる機会がいちばん多いのだという。

 家事のすべてをすっかり千明に任せ、花音は朝食を摂った里緒を据え置き型のテレビゲームの前に連行していった。居候(いそうろう)の手前、家の仕事を手伝わないわけにはいかず、紅良は食卓の上の片付けをしながら二人の背中を眺めた。


「紅良ちゃんも向こうに行っていいのよ。私がやっておくから」


 千明が台所から気配りの言葉をかけてくれた。いえ、と首を振って、重ねた皿をカウンターに乗せた。


「花音さんがいれば遊び相手には十分だと思うので……。私、あんまり遊ぶのには慣れていないから」

「そうなの?」

「あと、下の名前で呼ばないでください」


 台拭きで食卓を磨きながら、釘を刺すのも忘れなかった。千明がばつの悪そうな顔をした。

 紅良には誰かと遊んだ記憶はほとんどない。遊ぶといってもせいぜい、一人でプレイできるゲームに没頭したり、コンピューター相手の対戦に興じたり、その程度のことしかしてこなかった。一人で遊んでいる方が気楽だったのもあるが、たまに寂しくなって誰かと遊びたいと思っても、たいてい紅良の周りには誰もいなかった。

 里緒は、その初めての相手になってくれるのかもしれない──。そんな淡い期待を、昔は抱いていたものだった。

 コントローラーを両手に握らされた里緒が、意気揚々とゲームを起動する花音を不安げな顔で見守っている。里緒はともかく、花音は本人の言葉通り、心の底から楽しそうだ。

 蛇口を開いて台拭きを洗おうとすると、


「……あれでもね」


 千明が、ぽつりと言った。


「昔は里緒ちゃんみたいだったのよ。うちの、花音」

「花音さんが?」


 紅良は()頓狂(とんきょう)な声で尋ね返した。いったい()()と里緒のどこが似ているというのか。

 だが、千明はそれ以上の委細を語ることはなく、洗った食器を布巾で(ぬぐ)って戸棚のなかにしまってゆく。ぱたん、と扉の閉まる音が響くたびに、つい気になって花音の背中を窺ってしまった。




 花音としては、ひたすらゲームに意識を向けさせることで里緒を楽しませ、勉強やクラリネットのことをいっさい考えさせないように仕向けるつもりだったらしい。

 しかし結果から言って、第一の作戦は見事なまでの失敗に終わった。

 まず、肝心の里緒がにこりとも笑わなかった。ありとあらゆるゲームに慣れていない様子で、対戦格闘ゲームを始めれば花音や紅良やCP(コンピューター)の対戦相手に徹底的に打ち負かされた。スポーツやカーレース、リズムゲームと次々にソフトを換えてみても、リモコンの使い方の下手な里緒はやっぱり負け続けた。業を煮やした花音はついに乙女ゲームを持ち出してきた。花音が恋愛系のゲームで遊んでいること自体、紅良にとっては甚だしく衝撃の事実だったが、里緒は画面に美形の男性キャラクターたちが映って決め台詞を発するたびに顔を真っ青に染め、目線を反らした。慌てて花音がわけを尋ね、そこで初めて里緒が男性不信気味であることを知った。


「ごめんなさい……。その、中学の頃から苦手だったから……」


 そう言われてしまっては、花音も紅良も、それ以上の続行を薦めるわけにはいかなかった。

 アナログゲームに手を出しても結果は同じだった。ポーカーフェイスの下手な里緒はカードゲームでもことごとく連敗を重ね、将棋やチェスは複雑なルールをなかなか理解できず、オセロや陣取りゲームは手加減を重ねたにもかかわらず見る間に盤上が紅良や花音の色で染まった。里緒はにこりともしないばかりか、敗戦のたびに瞳の色を濁らせ、それを見ている紅良の心もどんどん濁りを深めていった。

 最大の失敗は、最後に花音が人生ゲームを持ち出してしまったことだった。


「上手い下手で結果が出ちゃうからいけないんだよ! 運のゲームなら里緒ちゃんだって勝てる!」


 それが花音の言い分であった。花音にしては筋の通った理屈のように思われたが、里緒はいきなり冒頭の職業選択マスで【音楽家】を引いた上、直後にルーレットを回した先で【高校三年間を懸けた大学受験に失敗。$15000失う】指示を食らい、先陣を切って赤字人生に転落した。


「クラリネット……」

「勉強……」


 虚ろな目でつぶやく里緒を前に、さすがの花音も紅良も、かけるべき気遣いの言葉をすべて見失った。








「頼りにしていますよ。須磨先生は、我が校唯一の音楽教師なんだから」


▶▶▶次回 『C.103 言えない葛藤』

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