C.101 同期の怒り
あんなに見知らぬ女性から説教を受けたのは初めてのことかもしれない。
──『あなた方の事情を私は存じ上げません。しかし、どんな事情を抱えていらっしゃるにせよ、それが娘さんを放り出すことの言い訳になりますか。私は親ではありませんが、弱っている里緒さんを目の当たりにした者として、里緒さんの面倒をきちんと見させていただきます。お宅の方に戻すかどうかは、お父様の姿勢次第で判断させてもらいますので』
終始、穏やかな声色で昂りのない、しかし聞くからに凄みのある声だった。大祐に反論のすべはなく、無力に『分かりました』を連発する他なかった。
大祐とて、里緒同様に弱っている最中なのである。里緒がひとまず安全圏で暮らしていることを確認できただけでも、よしとすべきなのだろうと考えた。
電話を切ったとたんに安堵で力が抜け、そのままベッドに倒れ込んで眠りに落ちたようだった。目が覚めると朝が来ていた。午前五時、まだ白っぽい狭霧の立ち込める立川駅南口の広場を見下ろし、大祐は頬を叩いて意識を起こした。
会社に行こう。
里緒との悶着があったのが、先週の金曜日。土日を挟み、さらに昨日までの三日間は無理を言って欠勤にしてもらったので、大祐の出勤は実に五日ぶりのことだった。久々の大混雑に揺られること数十分、少し早めの時間に六本木の街に着いた。
スクエアタワーは今日も変わらずどっしりと、都会の真ん中に五十四階建の偉容を構えて聳えている。その玄関に立ってみると、自分の矮小さが嫌でも際立つことに気付かされて、大祐の惨めな思いは少しばかり加速した。
(どんな顔で迎えられるんだろう)
暗い気持ちのままセキュリティゲートを通過し、エレベーターに乗った。乗り合わせた別部署の社員が大祐の方を二度見してきたが、きっと顔色が悪いせいだと思った。寝不足だし、心労が重なって食事も喉を通っていない。里緒のことを偉そうに慮れる身分ではないのだ。このタイミングで厄介な相手にでも出会ったら、まともに応対できる自信がない。
果たして、悪い予感は当たった。
経理部のオフィスに立ち入った途端、そこには亮一が仁王立ちで待ち受けていたのである。
「……おい、高松」
目と目が合った瞬間、雷鳴のような声を発した亮一は、大柄な身体をずんずんと大祐に向かって進めてきた。逃げる間もなく、胸ぐらを掴まれた。見守る経理部の社員たちが息を呑む音が響いた。
「な……何すんだ……っ」
「どうして黙ってやがったんだ! あぁ!?」
猛烈な剣幕で亮一はまくし立て始めた。
「ニュースで流れてるいじめ自殺事件、高松が当事者だったんだって? なんでそれを早く言わねぇんだ! おかげさまでお前が東北支社を急に退いた理由にも合点がいったよ! そんでもってがっかりした! お前は俺たち経理部の仲間を頼りにしてなかったんだってなっ!」
言い返しようがなかった。頼ろうとしていなかったのは事実なのだ。だからといってそれを詳らかに語るわけにもいかず、大祐は必死に亮一から視線を外そうとした。すかさず「目を見ろ」と亮一が凄む。猛獣の手にかかった草食動物の気分はこんなものかと思った。
「楽団に顔出さなかったのも、裁判の起こし方なんて急に尋ねやがるのも、みんなそいつのせいだったんだな」
ワイシャツから手を離した亮一は、一転して、うなだれた。
「なぁ、高松。俺らはそんなに頼りないか。信用が置けねぇか。……いや、置けないなら置けなくたっていいんだ。色々あって他人を信じられなくなってるっていうなら、俺だって理解を示さないわけにはいかねぇよ。でもさ、頼る頼らないはともかくとしても、事情説明の一言くらいあったってよかっただろ。仕事仲間なんだぞ」
息苦しさの残る胸元を押さえながら、大祐は頭を下げた。
「……すまん」
今は素直に謝るしかなかった。相談しなかったこと、信用しなかったこと、それを白状することさえ怠ったこと。十分な本心がこもっているようには思えなかったけれど、形ばかりの謝罪であったとしてもひとまず亮一は理解してくれるだろうと思った。
経理部オフィスは雷雨の後のように静まり返っていた。しまいには他の部の職員や経理部長までもがデスクを離れ、こちらの動向を窺っている。嘆息した亮一は胸元から名刺入れを取り、一枚の名刺を乱暴に引きずり出した。
「受け取れ。お前宛のもんだ」
差し出された名刺に大祐は目を通した。【日本産業新報社 立川多摩支局 記者 神林紬】とあった。
「……これは」
「昨日か一昨日だっけな。その記者がうちのオフィスに来て置いてったもんだ。高松のことを探してた」
とっさに大祐の脳には、六日前に里緒に絡み付こうとしていた記者らしき女の姿が浮かんできた。紬という名前も、おそらく女性のものである。
「嫌なら対応しなくていいと思うぞ。名刺だって捨てちまったらいい」
ずいと亮一は名刺を突き出した。
「ただし、どう扱うにしても一人で抱え込むな。きっぱり撥ね付けるっていうなら、俺たちはそいつを経理部のオフィスには入れさせない。言い分を聞いてみるっていうなら、多少なりとも俺たちが補佐してやる。なんならラックタイムスの面会室でも貸してやれ。あそこなら監視カメラも仕掛け放題だ」
とんでもない、そんな迷惑はかけられない。しかし無下に断れる空気でもなかった。ああ、と掠れた声で応じながら、仕方なく亮一の手から名刺を受け取った。
つい先日まで自分たちの敵とばかり思ってきたマスメディアの先鋒──日産新報社が、そこには堂々と名を連ねている。表面に刻まれた記者の名前を、大祐は暫し、目を細めて眺めた。
この記者は何を知ろうとして、大祐との接触を試みたのだろう。
あの日、モノレールの駅の下で、彼女は里緒から何を聞き出そうとしていたのだろう。
分からない。本人と会って、じかに聞くしかないのかもしれない。なんにしても今の大祐にその活力はなかった。いっぺんに多くのことが起こりすぎて、身体の奥底からくたびれた。
「……新発田」
名前を呼んだ。亮一の頬に色が差した。
「ありがとう。それと、色々と気遣いさせて、悪かった」
これだけは伝えておかなければと思って、言った。亮一のそれと比べればずいぶん小さな声であった。「なに抜かす」と亮一が不満げな顔をした。
「同期の仲だろ」
「その同期の仲を見込んで、聞いてほしい」
「……何だ」
亮一は改まる。よれた襟を正して、大祐は訴えた。
「少し、時間をくれないか。力を貸してくれるのはありがたいよ。でも、これはうちの家族の問題で、それから俺自身の問題なんだ。まずは俺自身に解決を試みさせてほしいんだ」
瑠璃や里緒の事情、それに事件のあらましを知ってもらおうと思ったら、生半可な時間と信用では足りない。大祐自身、まだ亮一のことを心から頼る気になれたわけではなかった。現に一度、仙台にいた頃の同僚や上司から散々な目に遭わされて、身近な誰かに頼ることの価値を大祐は根本的に見失っているのだ。
「そうだな」
あまり嬉しそうではなかったが、亮一は同意してくれた。
その口元に薄く広がっている無名の表情を見て、自分の後ろに大きな楯があるのを形式的に感じ取った大祐は、そっと息をついて名刺をポケットにねじ込んだ。
経理部の一同はまだ、思い思いの姿勢でことの成り行きを見守っている。
(この人たちのどれくらいが、俺の味方になってくれるんだろう)
彼らを見回して、奥歯に乗った疑問符を噛み砕いた。分からない。怖い。この世界は分からないことだらけだ。
不愉快な思いを足で踏み消して、大祐は見晴らしの悪い壁際に置かれた自分の居場所を目指した。仙台にいた頃のデスクは衆人環視の窓際に置かれていた。こうして壁のある場所に逃げ込めるだけでも、今は幸せに思うしかなかった。
「笑って、泣いて、しばらく余計なことは忘れさせちゃおう」
▶▶▶次回 『C.102 天岩戸作戦──1日目』