C.100 アメイジング・グレイス
重力に引っ張られるような感覚が三半規管を叩いて、その衝撃で里緒は目を醒ました。
外の世界は今日も明るい。オレンジと藍、それに紫の交雑した鮮やかな空の輝きに、細めた目をこすって涙の跡を消した。詳しい時刻はともかく、今は夕方のようだ。
(……いつから寝てたんだろ)
ぐったりと壁にもたれたまま、途切れ途切れの記憶を漁った。誰かがチャイムを鳴らした音とか、誰かがドアの向こうで発した声を聞いた気がしたが、意識が朦朧としていたせいか、細かいことはほとんど思い出せない。順調に餓死の時が近付いているのを、壊れる一方の頭にありありと実感する。
(もうちょっと、かなぁ)
投げやりな思いを抱えて嘲り笑った、その時だった。
耳を疑う音色が窓の外の方から聴こえてきているのを、ようやく起動を終えた脳が察知した。
──それはクラリネットの音だった。
微かな、今にも途切れて消えそうに儚い、されど心を芯から揺さぶる強い美しさを持った、あの音だった。
里緒は身を起こしていた。何日も食事を抜いていて、身体を動かせるだけのエネルギーが体内に残っているはずはなかったのに、不思議と立ち上がることができた。
弦国に入学したばかりの頃、いつか同じ夢を見たのを覚えている。単調なメジャーコードの音符を丹念に重ねて描かれ、今、窓の外で演奏されている曲の名前は。
「〈アメイジング・グレイス〉……」
復唱した声はかすれ切っていた。
ぎこちなく震える足を里緒は踏み出した。そうして窓のそばに立ち、外を見下ろした。そこにクラリネットを吹く人の姿は見当たらなかったが、しかし里緒の耳には間違いなく〈アメイジング・グレイス〉の旋律が届いている。
(お母さんの音だ)
里緒は目を見張った。
(絶対そうだ。お母さんの、クラリネットの……)
前回は音源にたどり着く前に曲が途絶えてしまった。今度は、今度こそは──。決心したとたんに全身の倦怠感が吹き飛び、足を縛り付けていた不可視の枷が音もなく砕け散った。
倒れそうになりながら里緒は駆け出した。足をもたつかせながら廊下を抜け、しがみついたドアノブを力いっぱい開け放って、しっかりと手すりを握りながら階段を下りた。道は公園と駐車場を迂回し、立日橋の下をくぐって土手上へと続いている。〈アメイジング・グレイス〉はあの先から聴こえてくる。気を抜けば折れそうな足を前へ、前へ、全身の力を賭して走った。
ああ、神様。
もしも実在するのなら、どうか私を導いてください。
あの音色のもとへ、救いのもとへ、お母さんの魂のもとへ──。
走りながら捧げた祈りは、しかし残酷にも妨げられてしまった。最後の力を振り絞って土手上に駆け上がったその瞬間、またしてもクラリネットの音は忽然と消え失せたのである。まるでプレイヤーの充電が切れたように、ふっ、と。
茫然と立ち尽くしながら、里緒は最期の希望が吹き消されたのを理解した。
夢はたちまち崩れ始めた。あたりの雑音が一斉に耳へ流れ込み、鼓膜をつんざいて視界いっぱいの光景を揺るがした。もう二度と聞きたくなかった、聞かないようにしてきたはずの、ありふれたこの世の音たち。車やモノレールの走る音。鳥たちの鳴き声や虫たちの羽音。川の流れる音。風の吹き抜け、草木の笑う音。
そして、人間の声。
「──里緒ちゃん!?」
弾かれたように里緒は斜め前を見た。里緒の立っている場所の少し先、河川敷へ下りる階段のてっぺんに、花音と紅良が腰かけていた。二人とも目をまん丸に見開き、呆気に取られた面持ちで里緒の姿を凝視している。
なぜ。
どうして、花音と紅良がこんな場所に。
見る間に里緒は青ざめた。花音が何事かを叫びながら身を翻し、土手に立ち上がって駆けてくる。その後ろに紅良も続こうとしている。やめて、来ないで、怖い! ──総毛立った身体をねじって、里緒は必死にきびすを返そうとした。
がくん、と音を立てて膝が折れた。
(あ…………っ)
気付いた時には膝からアスファルトに崩れ落ちていた。擦過とともに炸裂した痛みと脱力感が、最後の抵抗力を容赦なく奪っていく。
もう、おしまいだ。逃げるどころか、ここから動くことすら叶わない。自分の身に危害を加えんばかりの勢いで花音が追い付くのを、里緒はぼんやりと虚ろな目で見つめていた。
駆け寄った花音の手が背中に添えられた。いやに熱く、柔らかかった。
「里緒ちゃん! しっかりして!」
半泣きの表情で花音が叫んだ。続いて駆け寄ってきた紅良が、里緒の両肩をつかんで揺さぶった。
「今までどこにいたわけ!? 私たち、あんなに町中走り回って探したのに!」
潤んだ瞳に夕陽の煌めきが反射している。里緒は嗄れた声で、反芻した。
「町中……? 探した……?」
なんの話か分からない。
答える代わりに花音が手を伸ばして、制服越しの里緒の腹にそっと触れた。抵抗の間もなかった。緊張で身を固めた瞬間、彼女の声は高く引きつった。
「もしかして、ご飯、食べて……」
首を横に振ろうとしたが、力が出なくて縦に振られてしまった。ああ、これでまた、余計な心配をかけることになる。どす黒く染まった心に新たな痛みが走ったのもつかの間、花音は紅良と顔を付き合わせて言葉を交わし合った。一瞬、眉をひそめた紅良だったが、次の瞬間には里緒の肩に腕を回し、支えるようにして立ち上がった。里緒も否応なしに立たされた。
スマホを取り出した花音が、一心不乱にどこかへ電話をかけ始める。里緒の耳元で、紅良が低い声で囁いた。
「高松さん」
「……はい」
「花音の家に行こう」
里緒はとうとう能動的な答えを返すことができなかった。
紅良に支えられて幹線道路まで歩き、花音の捕まえたタクシーに乗せられた。法定速度など存ぜぬと言わんばかりの猛スピードでタクシーは道路を疾走し、立川の街をあっという間に駆け抜けて市境を越え、国立市に突入した。
着いたのは一軒の戸建て住宅だった。表札には【青柳】とある。到着の音を聞きつけたのか、開いたドアから女性が出てきて、里緒たち一行を中に招き入れた。
「お風呂は沸かしてあるからね。さ、入って」
「私も一緒に入る! 一人だと溺れちゃいそうだもん」
「じゃ、そうして。着替えは適当に出しておくわ。それから……ごめんなさい、まだ名前を知らないんだけど、お台所には立てる?」
「立てます」
てきぱきと花音や紅良に指示を出してゆく彼女の姿を、里緒は焦点の定まらない目でぼうっと見つめた。目はほっそりとしていて、睫毛も長い。ぱっちり目の花音とはずいぶん印象が違う。
重要任務を引き受けて張り切った顔の花音に、あれよあれよと制服を脱がされて風呂場に追い込まれた。裸を恥ずかしがる暇もなく泡と石鹸に揉みくちゃにされ、湯船に肩まで沈められ、そのまま力が抜けきって頭まで沈没しそうになった。無尽蔵の温もりと暖かさで、意識と外界の境界線が曖昧になる。寒くもないのにやけに鳥肌が立った。
おまけに、用意されていたパジャマを着せられて居間に向かうと、そこでは食卓いっぱいの料理が湯気を立てながら里緒のことを待ち構えていた。
「紅良ちゃんが料理上手で助かったわぁ。人手が二つあると生産性も倍になるわね」
ご機嫌の表情で皿を運んできた件の女性に、「下の名前で呼ばないでください」などと紅良が不満げに言い立てる。訳の分からぬまま突っ立っていると花音に背中を押され、椅子につかされた。
「みーんな食べていいんだよっ」
隣に座った花音が笑った。
里緒は料理の山を見回した。キャベツのスープに里芋やニンジンの煮物、薄味の温うどん、雑炊、あんかけの野菜炒め。山といってもせいぜい二人ぶん程度だが、見るからに消化の良さそうな料理がところ狭しと並んでいる。
どういう風の吹き回しだろう。里緒は顔を上げて、見知らぬ女性の表情を窺った。
「あの……これ……」
「急拵えでごめんなさいね。食べきれなかったらうちの花音が食べるから大丈夫」
彼女は向かいの椅子に腰かけて微笑んだ。
「青柳千明って言います。うちの娘がいつも迷惑かけて、ごめんね」
やはり彼女は花音の母親だったのだ。それにしては、顔のパーツがずいぶん違うように見える。とっさに浮かんできた違和感は、横から身を乗り出してきた花音の声にかき消されて見失った。
「里緒ちゃん、しばらくうちに泊まっていってよ。お母さんもいいって言ってくれてるから」
里緒は絶句した。
「えっ……そんな、そんなことは……」
「あなたがしっかり滋養をつけるまでは、安心して外に出してあげられないわ」
当の千明も言葉を重ねてきた。反論の文句が浮かばず、里緒は唇を縫い合わせるしかなかった。
「ひととおり事情はうちの子から聞いてるの。あなたのお父様には私の方から訳を話して許可をもらうから、気兼ねしないで、ゆっくり泊まっていきなさい。何週間いたって私たちは大丈夫よ」
花音の向かいに着席した紅良が、しきりに首を振って同意を促している。「ついでに西元も泊まっていくから」と、花音がさらに付け加えた。
背後には風呂を用意され、制服も下着もハンカチも洗濯機に放り込まれて洗われ、さらに眼前には料理を並べられながら、三方から滞在を迫られる構図が出来上がった。いまさら逃れようにも、すでに里緒の逃げ場は周到に奪われてしまっている。
それでもやっぱり、申し訳ないと思わずにはいられない。負担になりたくない、迷惑をかけたくない。息が喉に絡んで今にも窒息しそうだ。
しかしもはや反抗の気力すらも残っておらず、とうとう里緒は「はい……」と首を折ってしまった。
言葉通り、千明は大祐のもとに電話をかけて、里緒を預かっていることを報告した。ついでに何やら説教もかましていたらしい。傷付いている子を独りで家に放置するなんて親のすることか、私たちが責任を持って里緒ちゃんを保護する──云々。ともかく大祐の承認はあっさり得られたと彼女は笑っていた。
いったん青柳家を出ていった紅良は、小一時間もすると旅行カバンを手に戻ってきた。急な泊まりで大丈夫だったのかと千明に問われると、彼女は『うちの親は私の居所なんか気にしないんで』などと飄々と答えていた。
花音も自転車で家を飛び出し、開いたままになっていた高松家のドアを施錠して戻ってきた。玄関に落ちていたといってスマホを渡され、里緒はようやく外部との連絡手段を手に入れた。もっとも、充電切れの状態では使い物にならず、ただちに給電用コードを繋がれて寝室の隅に転がされた。無様に拘束されている姿は自分にそっくりだと里緒は思った。
宛がわれたパジャマはもちろん花音のものだった。身長の高い里緒にはサイズが小さくて、肌の保護面積が普通以上に狭い。背伸びをしたら腹が見えてしまう。そんなわけで里緒は早々に、慣れない窮屈な布団の中に逃げ込む羽目になった。
布団の位置は花音と紅良の間である。
「里緒ちゃんが元気を出してくれるまで、私たち二人、付き合うから」
いつもと肌感覚の違う布団の手触りに戸惑っていると、すぐ隣に横たわった花音が言った。真剣な顔だった。
「お母さんから許可もらったんだ。期末テスト当日までの四日間、私も、西元も、学校休む。里緒ちゃんと一緒にいる」
里緒は目を剥いた。私のために──?
「そっ……そんな、二人だって勉強しなくちゃいけないのに……」
「花音には私が勉強を叩き込む」
紅良が低い声で遮った。成績優秀者の紅良が言うと説得力がある。顔を引きつらせた花音だったが、すぐに「だ、だから大丈夫! 心配しないで!」と言い切ってみせた。
そこまでの努力を叩いて、いったいこの二人は里緒から何を引き出そうとしているのだろう。
温かい風呂や食事、おまけに寝床まで提供されたのに、それでも花音たちを信じきることができない己の心の醜さが里緒にはつくづく呪わしかった。──いや、それも無理のないことだったのかもしれない。だって一度は骨の髄から恐れ、怯え、逃げ出した相手なのだから。
「誰が何て言おうと、私たちは里緒ちゃんの味方でいるから」
笑った花音は、里緒の手をそっと握った。
「だから……ね。元気出してよ。前みたいに普通に笑って、普通に話して、またクラリネット吹けるようになろう。一緒に弦国と管弦楽部に戻ろうよ」
「逃がさないから」
紅良までもがそんなことを言う。
逃げたくたってここは檻の中である。二人に従う他に道がないのを悟った里緒は、布団のなかで小さく身を屈めて、分かった、と答えた。
もはや、どんな悍ましい未来が里緒を待ち受けているのかも、そのなかで里緒がどんな役割を果たしていけばいいのかも、まるで何も見通しがつかなかった。
「俺らはそんなに頼りないか。信用が置けねぇか」
▶▶▶次回 『C.101 同期の怒り』