C.099 あてのない捜索【Ⅱ】
自分は今、何のために里緒を探しているのだろう。
貴重な試験期間前の午後を犠牲にして、勉強も何もかも放り出して、何のために里緒を探し回っているのだろう。
疑問符が胸の奥で疼くたび、アスファルトを蹴る花音の足は重たくなった。それでも足を振り上げて、声が枯れるまで名前を呼んだ。
「里緒ちゃーん!」
「どこにいるのっ」
「里緒ちゃんってばー!」
また、これも徒労に終わるのかもしれない。漫画や小説の世界みたいに、現実の尋ね人は名前を呼ばれただけで出てきてはくれない。けれどもめげずに声を張り上げた。たとえ結果的には里緒を見つけられなくても、懸命に努力したことで自分を納得させられさえすれば、それでいいのかもしれないと思った。
失意の底で泣いていた花音を奮い立たせてくれたのは、昨日の夜に紅良からかかってきた電話だった。紅良は本気で里緒を探り当てる気でいるようだ。だが、あのとき花音が奮い立ったのは、里緒のことを取り戻せると確信したからではない。まだ努力の余地があるのを知ったからだ。何もできなかった悔しさを、少しでも和らげる道があるのを知ったからだった。
(里緒ちゃんがどう思っていようが、私は嫌だ。里緒ちゃんが潰れちゃうのなんて嫌だ)
街頭の地図を眺めて次の行き先を決めながら、花音は凝った肩をぐいと押した。教科書の詰まった通学カバンの肩掛け紐が食い込んで、痛みが少し、増した。
行く手に土手が見える。
右へ、左へ、順に道を折れては地面を蹴って走り、眩しいオレンジに輝く街の中で声を張り上げた。
今、この瞬間も、きっと里緒はひとりぼっちでどこかに佇んでいる。報道に怯え、花音や紅良の声に身体を震わせ、吹けなくなったクラリネットに必死にかじりついているのかもしれない。里緒を孤独に追い込んでしまった原因の中に自分が含まれているのならば、自分には里緒を孤独から救い出す義務があるし、動機だってある。そう思った。
(できることがあるのに何もしないまま終わるなんて嫌だ。せっかく仲良くなれた、大切だって想えた人のこと、あっさり手放して嘆くだけなんて嫌だ。どうせまた泣くことになるなら、どうしようもなくなったんだって思い知ってから泣きたいよ)
時おり燃えるように熱くなった目頭を、その都度、花音は押し当てた腕で無理やり冷やして、涙が引っ込んだのを確かめた。
(どうしようもなくなったら泣いてもいいんだ。……それまでは泣けないし、泣きたくない)
夕暮れ時の街に、花音ひとりの足音が甲高くこだまする。走って、走って、くたびれてしまえば立ち止まって休み、また走り出した。気付けば捜索範囲を二周以上も駆け回っていた。
紅良からメッセージが届いたのは、時計の針が午後六時に差し掛かった頃のことだった。
合流地点として示されたのは、右手にモノレールや立日橋を拝むことのできる多摩川沿いの土手だった。そこには先に紅良がいて、花音の姿を認めるなり、落胆したように眉を傾けた。
「……やっぱりそっちもダメだったのね」
「西元も?」
「ちっとも見つからなかった」
へなへなと花音は土手の階段に座り込んだ。テニス部出身の運動少女だった花音でも、さすがにこれだけ走り回っていると疲労が溜まる。背中は汗だくだし、足の骨は鉄骨みたいに硬くて重たい。
「ちょっと……休もうか」
紅良が隣に腰かけた。
風の心地いい場所だった。吹き抜けた風が草木を揺らすと、あたりは彼らの優しいさざめきに包まれた。川面には穏やかに波が立っている。釣りに興じる人の姿がひとつ、ふたつ、燃える西陽と同じ色をした川のなかで黒い影を描いている。対岸に向かって高架線路を駆け抜けるモノレールのシルエットが大きい。競い合ってねぐらを目指す鳥の群れ、虫の声。土手の背後には例のこども園があって、活力にあふれた園児たちのはしゃぎ声が途切れ途切れに土手まで届いている。高校生にもなるとすっかり遠のいてしまった感のある、ありふれた夏の夕暮れの景色が、そこには一面に拡がっている。
息を吸って、吐いて、高く伸びた草の香りを嗅いで、花音は独り言ちた。
「……里緒ちゃんは毎日、こんな景色のなかで生きてたんだね」
うん、と紅良が応じた。
結果論ではあるにせよ、里緒の生きる世界の風景を初めて見て、聴いて、知った。もっと早くに知りたかった。そうすればもっと里緒の気持ちに寄り添って、同じ感情に身を委ねて、もっと里緒の信頼を得られる存在でいることができたのだろうか。
ふと尋ねたくなって、口を開いた。
「西元はなんで里緒ちゃんのことが好きなの?」
とたんに紅良はそっぽを向いた。背けた頬の色は、夕陽よりも濃かった。
「別に、好きってわけじゃ……」
「私は大好きだけどな」
確かめるようにつぶやいて、花音はうつむいた。里緒のことは心の底から好きだと思う。恋愛も友愛も隣人愛も、それから家族愛も含めて、今までこんなに誰かのことを大切に想ったことは一度しかなかった。これを“好き”と呼べないなら、花音には好きな人など他に誰もいないとさえ思う。
「花音が高松さんに愛情を求めてるのは見れば分かる」
膝の上に載せたカバンへ手をかざしながら、紅良は「けど」と言葉をつないだ。
「“好き”とか“愛してる”とか、そういうのとは私はちょっと違う。高松さんは私のことを認めてくれた。ひとりの人間として尊重してくれた。だから、感謝してるし、大切にしたいと思ってる。……花音には分からないでしょ」
「ひとりの人間として尊重?」
「そう。価値観を受け入れて、理解してくれたってこと。前に二人でそういう話をしたことがあって」
紅良は口元に笑みを引いた。そこに花音へ向けられた嫌味は含まれていなかった。
「自分が世間ずれしてるってことくらい分かってんのよ。花音や高松さんが管弦楽部に入るって言い出した時、私、反対してたでしょ。あれだってそう。普通だったら入部を薦めるだろうし、入部したら高松さんの音が失われる、なんて一方的に決めつけて言うわけない。古巣の吹奏楽部を恨んでたせいだとしても」
「うん、まぁ……」
「苦い経験の記憶を客観視するのって難しくて、私、普通以上に意固地になってしまってたんだと思う。その普通じゃない私の価値観を、高松さんは尊重してくれた。そんな人に出会うことってなかなかない。花音だって私のこと、変なこと言い出すやつだって感じてるでしょ」
「……そんなことないよ。たぶん」
花音は小声で言い返した。確かに、紅良とは何度も真っ向から対立したことがあるけれど、それは花音の側にも守りたい価値観があったからであって、別に紅良を否定したかったわけではないのだ。
だいたい、里緒は紅良の予言した通りに、あの素敵だったクラリネットの音色を失っている。紅良の価値観や考え方をおかしいと断じる根拠はどこにもないのである。
「優しいね」
紅良は微笑んだ。
目はまるで笑っていなかった。瞳孔の焦点はどこか遠く、オレンジや青の入り混じって輝く夕暮れ空の彼方へと結ばれている。彼女の網膜に花音は映っていない。
その横顔を見て、花音は確信した。
紅良のなかで自分の存在が里緒を上回ることは、きっと永遠にない。そしてそれは自分も同じなのだと。
紅良は里緒に絶大な期待を抱いていた。
花音は里緒に心を預けていた。
価値の意味は違っていても、失ったものは同じ。今は花音も、紅良も、同じ暗闇の中でもがき苦しんでいる。『私も今、花音と同じ気持ち』──。思えば昨日の夜、電話口で紅良もそう言っていた。自分と花音の立場が同じであるのを、紅良は初めから見抜いていたのだ。
紅良の遠い眼差しを花音は目で追った。それから、つぶやいた。
「里緒ちゃん、早く見つからないかな」
「……本当」
紅良が続けた。
伸ばした腕で膝を抱えて、目を閉じた。ほのかな夕陽の香りが鼻をくすぐる。鬱陶しいだけだった日中の温もりが、今はなぜだか心地よくて、凍てついたままの心がかえって際立つ思いがした。
唇をすぼめて、鋭く尖らせた息を吹き出した。最近やっとマスターできた口笛で、いつか里緒の吹いていた曲を吹いてみる。
紅良が花音の方を伺った。
「〈めだかの学校〉?」
「うん。里緒ちゃんが初めて私に聴かせてくれた曲」
戻した唇を膝に埋めて、花音はもごもごと答えた。
窄めた口に息を強く当てることで振動を発生させ、音にして吹き出すのが口笛だ。原理はフルートやリコーダーのような無簧楽器と同じである。クラリネットほど豊かな音は出せないけれど、他の何よりも身近なところにあって、遥か遠方まで音を届けることのできる楽器。
紅良も口笛を吹き始めた。さすがは中学からの吹奏楽部経験者、花音よりも息遣いが遥かに上手である。しまいにはビブラートまでかけながら、彼女は〈めだかの学校〉を川面に向かって吹きかける。真似をして花音も唇を尖らせた。二色の音は風に乗り、川幅の広い多摩川の上を悠々と流れ、夏空に紛れて消えていった。
メジャーコードの明るい曲調にもかかわらず、どこか寂しい、物悲しい響きの音色だった。込み上げてきた切なさに耐えきれず、吹き終えた花音は背中を丸めてうずくまった。
ダメだ。
この唇では足りない。
出会ったばかりの花音を心の髄から酔わせ、虜にしたあの音色は、里緒の吹奏するクラリネットでしか再現できない。
そして、里緒がクラリネットを吹けなくなり、おまけに姿を隠してしまった今、あの音色は永遠に失われたも同然なのだ。
「里緒ちゃん……」
つぶやいたら涙が浮かびそうになった。いけない、まだ泣く時ではないのに。膝に顔を押し付けて誤魔化すと、緩んだ口からまたも本音が転げ落ちた。
「早く……出てきてよ……」
紅良は何も言わなかった。
風が強くなった。ごうごうと鼓膜の手前で渦を巻く風の吐息のなかに、一瞬、里緒の奏でるクラリネットの幻聴を耳にした気がして、花音も紅良もじっと黙ったまま、先行きの見えない失望のなかに身を沈めていた。
もうじき日暮れだ。
成果の得られなかった一日が、刻一刻、多摩丘陵の向こうに消えてゆこうとしている。
「絶対そうだ。お母さんの、クラリネットの……」
▶▶▶次回 『C.100 アメイジング・グレイス』