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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第四楽章 蒼の涙とアイネクライネ
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C.098 あてのない捜索【Ⅰ】

 




 七月三日は水曜日である。毎週水曜日、女子部一年D組の時間割は四時間目までが授業で埋まり、午後は放課になる。おまけに好都合にも、今は期末試験の直前。四時間目までの各教科もすでに試験範囲までの授業を終えているので、比較的早めの時間に生徒たちを解放してくれた。

 日暮れまでのタイムリミットは六時間超。

 里緒を探すなら、この機をおいて他にはない。

 四時間目の英語表現の授業が終わり、クラス委員長の芹香が帰りのホームルームを締めるや否や、花音と紅良はカバンを抱えて教室を飛び出した。急ぎ足で廊下を進みながら、このあとの戦略を確認した。


「高松さんの住所は聞き出せた?」


 紅良が問いかける。「うん」と、花音はスマホに届いた菊乃からのメッセージを開いてみせた。


「立川市柴崎町六丁目だって。えっと、建物の名前は……【都営立川柴崎南アパート四号棟三○一】」

「モノレール沿()いか」


 地図アプリを手早く起動した紅良が(うな)った。


「立川でモノレールに乗り換えた方が早いな。花音、定期にお金は」

「ふふん、三〇〇〇円くらい入ってるよ。花音様は非常時への備えを(おこた)らないから!」

「当たり前のことを偉そうに言わなくてもいい」


 相変わらず花音に対しては辛辣極まりない態度である。しぶしぶ、見せびらかそうとしたICカードをカバンに突っ込んで戻しながら、花音は廊下の先に見えてきた昇降口をまっすぐに見据えた。

 里緒がいなくなって、五日。

 引きずるようにして歩いていたこの足が、今日はむやみに軽い。

 まるで、このままひとっ飛びに里緒のところまで駆けてゆけるのではないかと錯覚するほどに。


(見ててよ里緒ちゃん。私と西元の手で、里緒ちゃんのこと絶対に連れ戻してみせるから)


 固めた決意は土踏まずに乗り、たん、と軽やかな音を爪先から跳ね上げる。紅良の靴も同じ音を立てていた。




 国分寺駅から中央線に乗り、立川駅へ。改札を通過して南口に出ると、そのままペデストリアンデッキを突っ切って立川南駅に駆け込み、多摩センター方面行きの多摩都市モノレールに乗車した。

 花音は里緒や紅良と違って、立川市の住民ではない。なまじ買い物やレジャーの便のいい街だけあって訪問機会は多いのだけれど、少しばかり郊外に来てしまうと途端に方向感覚を見失う。だいたい、首都東京の足元に広漠と横たわるベッドタウンにすぎない多摩地区の都市風景など、どこをどう切り取っても大差はないのだ。

 モノレールから見る景色の高さに息を呑んでいると、見飽きた顔で紅良が口を挟んだ。


「モノレールの下に大きな道路が見えるでしょ。その道路と一緒に、この先でモノレールは多摩川を(また)ぐの。その橋のたもとに都営アパートがあって、高松さんはそこに住んでいるみたい」

「見晴らしのよさそうな家だね」


 つぶやいてから、ひどく間抜けなことを口走ってしまったのに気付いた。しかし紅良は特に毒らしきものを吐くこともなく、「そうね」と静かにつぶやいた。


「見晴らしがいいってことは、外からも家の中を窺える余地があるってことでしょ。きっと大きな窓があるだろうし、声をかけたら届くかもしれない」


 なるほど、やってみる価値はある。花音は窓に手のひらを押し当てた。ひんやりと心地のよい窓ガラス越しに、柴崎体育館駅のプラットホームの景色が一気に流れ込んだ。

 駅を出て、モノレール通りを南に下ってゆく。さしもの紅良もこのあたりを訪れた経験はないようで、すぐ(かたわ)らを横切る親水公園や運送会社の大きな倉庫に視線を奪われていた。

 その紅良に、歩きながら花音はさらに説明を受けた。

 里緒には新聞記者の知り合いがいて、その人と里緒とは多摩川の土手で知り合ったのだという。彼女は土手沿いの託児施設に子どもを預けているそうで、きっと出会ったのもそのあたりのはずだと紅良は語った。


「里緒ちゃんってきっと、ちっちゃい子には好かれるタイプだよね。優しそうだもん」


 何気なく言うと、「そうね」と紅良はうつむいた。


「高松さんにその自覚はなかったんでしょうけど」

「自覚?」

「あったら多分、こんなことにはなってないんじゃないかと思う」


 意味深な台詞の意図をはかりかねた花音は、仕方なく紅良の台詞を聞き流して、青色に灯った信号を見つめた。『立日(たっぴ)橋北』と名前がついていた。目的地まで、あと少しである。


 新奥多摩街道へ入って間もなく左に折れ、立ち並ぶアパートの間を抜けると、カーブの先に四号棟の建物が見えた。

 街中を歩いていると頻繁に見当たる、クリーム色の外壁に包まれた標準的な姿の都営住宅だ。三階建てで、エレベーターはない。里緒の家は最上階のようだった。高鳴る胸を押さえながら階段を上り、花音と紅良は三○一号室の前に立った。

 表札には名前が入っていなかった。


「……本当にここなのかな」


 思わず不安に駆られて、送られてきた住所を何度も確認してしまう。「場所は合ってる」と紅良が低い声で言った。


「これでチャイム押してすんなり出てきてくれるようなら、話は簡単なんだけど」


 里緒はそうしないだろう──。紅良はそう確信を抱いている様子だった。果たして、指を伸ばした花音が恐る恐るチャイムを鳴らしてみたが、中からは何の反応もない。ドアに耳を当ててみても音ひとつ聴こえない。


「ダメだ……。ドア叩いてみよっかな」

「名前呼び掛けたらいいんじゃない」


 名案である。すぐさま花音は実行に移そうとした。

 だが、大きく吸い込んだ息をすぐに吐き出してしまった。

 できない。花音には無理だ。だって花音は里緒から怖がられているのである。この声を張り上げれば、かえって里緒を追い詰める結果を招くかもしれない。


「……西元がやって」

「私が?」


 紅良は眉を曇らせた。しかし花音の意図を早々に察したのか、ドアに拳を何度か叩きつけて、叫んだ。


「高松さん、いる?」


 叩かれたドアが激しい金属音を立て、狭い廊下にやかましく反響する。返事はなかった。紅良は続けて呼びかけた。


「西元だけど。いるならドア、開けて」


 やっぱり返事はなかった。紅良は声量を上げた。


「──分かった、出てきてくれなくてもいい。せめて中にいるなら、生きてるなら、そのことだけでも教えて。何でもいいから音を聴かせて」


 鉄の扉は頑として二人の意図を受け付けない。二、三回とドアで跳ねたあと、紅良の発した言葉は重たい色をしたコンクリートの床に吸い込まれて消えた。十秒ほど待ってみたが、案の定、なんの応答もなかった。

 嘆息した紅良がドアから離れた。それから、突っ立ったまま紅良の挑戦を見守っていた花音に向かって、スマホの地図を差し出した。


「中にはいないのかもしれない。このへんの店とか、公共施設とか、高松さんのいそうな場所を探して回ろう」

「……そうだね」


 花音は地図を見回した。コンビニが一軒、飲食店が数軒ある。来た時には気付かなかったが、立日橋北の交差点には交番もあるようだった。

 元気出しなよ、と紅良は腰に手を当てた。彼女の声にも元気はなかった。


「高松さんの写真があった方がいいな。『こんな人を見かけませんでしたか』って見せられるようなやつ」

「西元はそういうの持ってなさそうだね」

「花音のスマホには?」


 聞かれると思って、フォトアプリのギャラリーを起動した。当てた親指を横に滑らせて、花音は自らの手で撮った写真の数々をたどってみる。勉強会の時の写真、立川音楽まつりの写真、その壮行会の写真、一年生のみんなで遊園地に行った時の写真。

 だが、いくら過去の写真をほじくり返しても、里緒の姿はいっこうに見つからない。


「……持ってない」

「嘘でしょ、花音に限って」


 焦ったように紅良がスマホをひったくって探しにかかった。しかし二度繰り返そうとも結果は同じだった。

 考えてみると、風邪やコンクールのせいとは言え、里緒は遊園地にも壮行会にも顔を出していない。花音の切ったシャッターから、里緒はことごとく逃れ続けてきたのだ。

「仕方ないか」と紅良が唇を噛む。恐怖が静かに自分の両足首を掴むのを感じて、花音は紅良の背後でしばらく立ちすくんでしまった。

 花音の隣に里緒がいたことの証が、この三ヶ月間の二人を結びつける証が、こんなにも残っていないだなんて。


「……行くよ、花音」


 紅良がためらいがちに声をかけてくる。スマホの画面を暗転させ、花音はわざと大股歩きで紅良の横に並んだ。


「言われなくたって行くつもりだったし!」




 コンビニやファミレス、牛丼屋、ラーメン屋。新奥多摩街道の沿道には多くの店が軒を連ねていた。どれかに里緒が出入りしているかもしれない。わずかな期待をかけて、聞き込みをして回った。


「高一くらいの女の子が来ませんでしたか」

「背丈はこのくらいで、髪は黒くて、長さは肩までで……」

「おっきなケースを持ち歩いてませんでしたか。一抱えもあるサイズで、中には楽器が入ってるはずなんですけど」


 交番にも立ち寄って尋ねた。家や駅からずいぶん離れた場所ではあったけれど、最寄りのスーパーにも向かって店員に話を聞いた。交番では調書や防犯カメラの照会をしてくれたし、スーパーでは無線を使って店内の従業員たちに問い合わせてくれたが、どちらもまるでなしのつぶてに終わった。

 まさかと思いつつ、至近の市立柴崎市民体育館にも足を運んだ。里緒の知り合いの子が預けられているという『立川アネモネこども園』にも向かって、里緒のことを尋ねた。

 しかし期待に反して、目撃情報はひとつも上がってこなかった。


「中心街の方に行ってるのかもしれない。向こうに戻ってみよう」


 紅良の提案で、急いでモノレールに乗り込んだ。

 徐々に()の傾き始めた立川の都心は、高いビルや看板の先端ばかりが明るいオレンジに染め上げられていて、人々の行き交う道は谷底のように暗かった。その谷底を、ふたたび尋ねて歩いた。いつか紅良と里緒が遭遇したという『プリズム楽器』、立川北口公園の向かいにあるコンビニ、日産新報の支局が入居している『立川ドリームワールドビル』──。

 そして、どれだけ歩き回って尋ねようとも、里緒の居場所の手がかりが浮かんでくることは決してないのだった。誰もが首を振って答えるのだ。『そんな子は知らない』と。

 事ここに至って、ついに花音も紅良も打つ手を失った。

 かくなる上は家の周りを探して歩くしかなかった。もしかすると里緒は人目を避けて、どこかを彷徨(さまよ)い歩いているのかもしれない。今は万が一の可能性にもすがりたかった。


「これで見つからなかったら、もう……」


 いっこうに既読のつく気配のないメッセージアプリを閉じ、紅良は言葉少なにつぶやいていた。その先を口にするのが恐ろしくて、花音はただ、黙ってうなずくばかりだった。

 無言のまま三たびモノレールに乗り、柴崎体育館駅を目指した。改札のところに掲出されていた周辺地図の前に立ち、捜索範囲の分担を決めて、別れた。

 花音の担当はモノレールよりも東のエリアである。くたびれてきた足を鼓舞し、階段を駆け降りた。待ってて、里緒ちゃん──。噛み締めた決意は昼時のそれよりも柔らかくて、歯と歯の間にするりと紛れ込んでしまった。









「早く……出てきてよ……」


▶▶▶次回 『C.099 あてのない捜索【Ⅱ】』

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