C.096 破滅
物心のつく前から、ひどく泣き虫な子だったという。
少し目を離しただけで、寂しくなって泣き出す。抱っこしてあげると安心するけれど、眠ったのを確認してベッドに下ろした瞬間、泣き出す。電車や飛行機に乗ろうものなら大号泣するし、赤の他人になだめられても決して泣き止まない。ちょっと叱るとすぐ泣くし、ちょっと傷付いただけで簡単に泣く。──そんな有り様だったらしい。
端的に言って厄介な、繊細な子どもだったと思う。そんなところもいじめの標的になった一因なのだろうか。中学二年生を迎え、やがていじめが始まると、それこそ毎日のようにふたつの目を真っ赤に充血させながら家路をたどった。いくら泣いてもクラスメートたちは容赦してくれなかったし、担任にはそっぽを向かれたし、吹奏楽部の仲間たちからは黙殺された。涙は自分の弱さを象徴する、あるいは証明するものでしかなく、屈辱の思いが弾けるたびに涙の量は増える一方だった。
けれども。
──『大丈夫、大丈夫。泣いてもいいの』
ぐしゃぐしゃに壊れた顔を玄関で迎える瑠璃は、いつだって無上の優しさを湛えていた。冷え切った針金のような身体をそっと抱きしめて、萎びた心と頭を撫でてくれた。
──『泣いていればいつかきっと、誰かが声を聞き付けてくれる。悲しみに気付いてくれる。悲しいんだね、苦しいんだね、痛いんだねって、周りの人たちに理解してもらえる。だから、ね。泣いてもいいんだよ』
そんな言葉をかけられるたび、瑠璃の控えめな温もりの中へ溺れながら無言で泣き喚いたものだった。周囲の人なんかに気付かれなくてもいい。どうせ、気付いたって見て見ぬふりをされるか、かえって悲しみに付け込まれるに決まっているのだ。だったら気付いてくれるのは母ひとりで十分だった。お母さんにさえ気付かれて、ぎゅってされて、頭を撫でてもらえれば、それでいい──。心の底からそう信じていたし、願ってもいたと思う。
だからこそ、自殺を企てた瑠璃が本懐を遂げて命を散らした時、途方に暮れてしまった。
もう、頼れる相手がいない。この涙を心から受け止めてくれる人が、とうとう誰もいなくなった。……棺に縋りついて泣き叫んだのは、瑠璃を失った悲しみばかりのためではなくて、そんな失望とも絶望ともつかぬ喪失感のためでもあったように思う。
しかし同時に、理解してもいた。たとえ、この涙を受け止めてくれる人が彼岸の向こうに渡ってしまっても、後を追うことは許されないのだと。自分の悲しみや苦しみは、痛みは、これからは自分の身体と心で受け止めてゆかねばならないのだと。
大祐にも里緒にも真意を告げないまま、ひっそりと瑠璃は命を絶った。ともに連れ立って黄泉の国を歩くことを、瑠璃はよしとしなかったのだ。
その夜、髪を切った。遺影に向かって長い黒髪を切り落とし、いつかの瑠璃と同じ髪型へと切り揃えてゆく作業は、どこか怪談話に出てくる呪いの儀式にも似ていた。真実、それは誓いを立てるための儀式のつもりだった。もう声をかけることも、頭を撫でてくれることもなくなった最愛の人に、断髪とともにひとつの誓いを立てたのだった。
これからは何があっても泣かない。
誰にも悲しみや苦しみを気付かれなくていい。
気付かせない。
背負わせない。
──そんな、誓いを。
(私の泣く声は私だけが聴いていればいい)
固く結んだ信念がほどけることはなかった。葬儀の済んだ後もいじめは連綿と続いたが、歯を食い縛って耐え抜いた。いじめに耐えたのではなくて、泣いてしまうことに耐えたのだった。クラリネットが上手く吹けなくても、受験勉強の進捗に自信が持てずに不安に襲われても、がむしゃらに拳を握りしめて涙があふれ出すのをこらえ続けた。
弱くて、情けなくて、誰かに頼らないと生きられなかった過去の自分を、こうしていればほんの少しくらいは乗り越えることができるかと思った。
強くなれるかと思った。
それはとても期待と呼べるような代物ではなく、誰の保証も得られない希望的観測に過ぎなかったけれど、すがりついて生きてゆくには十分に大きな目標だったのだ。この一年以上、泣かないことだけを目指して日々を重ねてきた。我慢しきれなくて泣いてしまったのは、記憶が正しければほんの数回きり。あとは我慢が行き届いていたはずだった。
強くなれていた。
──はず、だった。
意識が戻ってきた。
がんがんと割れるような痛みを放つ頭を持ち上げ、里緒はあたりを見回した。時計が視野を横切って、おぼろな色の文字盤が霞み、にじむ。
(……四時、か)
大小二本の針を見上げて、機械的に時刻を読み取った。
時間はともかく、今日はいったい何日なのだろう。窓から差し込む夕方の陽が眩しくて、冷房のかかっていない部屋の中は猛烈に蒸し暑い。ひどい発汗で背中が泣き腫らしたようになっている。まともに水も摂っていないから、本当なら今すぐ脱水症状で倒れてもおかしくはない。果たしてそれは今か、それとももう少し先か。
脱水症状でも熱中症でも、なんなら栄養失調でも構わない。それでいいから死ねたらいいのに──。呆けた頭で繰り返し、そんなことばかり考えた。
壁にもたれかかったまま起き上がることもできなくて、散らかった部屋のなかを見渡した。引っ越してきたばかりの頃と何ら代わり映えのしない、段ボールと簡易な家具ばかりの乱雑に転がる居間には、南向きの窓から殴り込んできた橙の光が黒々と陰影を描いている。
クラリネットのパーツはまだ、散らばったまま。
スマホの充電はとっくに切れ、手鏡ほどの役にも立たない状態で床に寝転がったまま。
この惨状を瑠璃が見たら何と言うのだろう。呆れるだろうか、腹を立てるだろうか。『ダメでしょ、ちゃんと片付けなきゃ』──。そう言って優しく里緒を起こしてくれるだろうか。
そんなわけがないと思った。
だって瑠璃は里緒を恨んでいたのだから。
(私のせいで、お母さん、死んじゃわなきゃいけなくなったから)
性懲りもなく涙が目尻に膨らんで、里緒はぐったりと壁にもたれかかったまま鼻を啜り上げた。泣いても泣いてもきりがなかった。いくらでも涙はあふれるし、いくらでも悲しみや痛みは募るし、いくらでも胸を締め付ける苦しみは強くなる。耐え続けてきた一年以上の分の感情が、決壊した堤防を乗り越えるようにして際限なく流れ出してくる。時間が解決してくれるだなんて大嘘だと思った。
そのまま、涙が枯れるまで黙って咽び泣いた。拭いすぎた頬が炎症を起こして、もう涙を腕で塞き止めることさえ叶わなかった。
どこで道を踏み外したのだろう。
どこで、何を間違えなかったら、こんな事態を招かなくても済んだのだろう。
誰よりも大切にしていたはずの母を自殺に追い込み、頑張って入った高校にも通えなくなり、クラスメートや部活の仲間たちにもさんざん迷惑をかけた挙げ句、たったひとつのアイデンティティだったはずの楽器さえ吹き奏でることができなくなる──。こんな破滅の未来が待ち受けていることに、どうしてもっと早く気付けなかったのだろう。
ついに見放されてしまったのか、大祐からは安否確認の電話も入らない。この数日間、どこからの連絡も受け取っていないし、誰かがドアを叩いて里緒の健在を確かめることもなかった。むろん、気を失ったように眠っている間のことは何も分からないから、もしかすると大祐や学校からの連絡もあったのかもしれない。
少なくとも里緒の耳には何も入ってこない。
世界は沈黙している。
ただ、ちっぽけな胸の打つ弱々しい心臓の鼓動だけが、時限爆弾のタイマーのように淡々と響き続けている。
(このまま、心臓、止まっちゃわないかな)
里緒は壊れたように笑った。
(死にたい。死んじゃいたい。私の生きてる音なんて、聴いていたくない)
足元に視線をやれば、輪っかを作ったロープが無造作に寝そべっている。まだ元気の残っていた頃、首を吊ろうとして用意したものだった。リストカットのためのつもりで包丁も用意したし、ガスの栓だって開けっ放しにしてみた。
しかしどれも無駄に終わった。最後の最後で、どうしても実行できなかったのだ。
四肢の緊張を失って天井からぶら下がる、いつかの変わり果てた瑠璃の姿が、死のうとするたびに強烈な迫力を伴って脳裏にフラッシュバックした。その様は総毛立つほどに恐ろしくて、我に返った時には手から力が抜け、ロープや包丁を放し、換気扇のスイッチに指をかけていた。
まるで死ねない呪いにでもかかっているかのようだった。
(誰か教えてよ)
どうしようもなく悲痛な思いが弾けて、せっかくの笑顔を里緒は壊してしまった。
(このまま私、生きていけばいいの。何もなくなったこの身体で、何の意味もない明日を生きていけばいいの。……そうじゃないならもう、終わりにしてよ。終わりにしたいよ)
誰からの返答もない。沈黙の支配する監獄の片隅で、潤んだ目をしばたかせて、そっと、嗚咽を漏らして。
(誰でもいいから……。私の息、止めてよ……っ)
音を結ぶことのなかった言葉を叫んだ。
「だって高松ちゃんなんだよ。そこらへんの高校生クラ奏者じゃ、まるで比べ物にならないような演奏をする子だったんだよ」
▶▶▶次回 『C.097 罪悪の認識』