表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
第三楽章 不協和音の波に打たれて
102/231

Interlude ──〈哀音〉

 





 控えの場に並べられた椅子の上で、菊乃はうずくまるように身をかがめていた。


「ひっく……、うぅ……っう……」


 握りしめられたフルートが、膝の上で小刻みに震えている。回した手のひらで彼女の背を撫でながら、美琴は生温い吐息を床へ漏らした。しばらくこの調子で彼女に付き合うことになるかと思うと、ただでさえ沈鬱気味の心が滅入(めい)って仕方なかった。

 菊乃だけではない。見渡せば、向かいの壁に寄りかかったファゴットの智秋が菊乃と同じように鼻を啜り上げていた。ホルンの郁斗が、サックスの佐和が、呆けたように天を眺めていた。舞台にも届きそうなほどの大声で愚痴を言い合っていた直央と恵も、いつの間にか目を赤くしながらうつむいていた。見渡す限り延々と、悲惨な光景が並んでいる。

 衝立(ついたて)の向こうからは賑やかなバンドの演奏が転がってくる。軽音楽同好会である。地鳴りのように腹へ響くドラムの爆音、ベースの重低音、それから(きら)びやかな歓声。

 くすんだ色のトランペットを抱きしめた佳子が、ひっそりとつぶやいた。


「……あの歓声、わたしたちにも分けてほしかったね」


 美琴は唇を噛んだ。

 彼らの盛り上がりを当て付けのように感じてしまう自分が、心の底から腹立たしくて。




 弦国の文化祭は二日目を迎えていた。管弦楽部は例年、二日目午後の部のステージに立ち、地区音や甲子園応援での演奏曲を奏でてきた。今年も例に(たが)うことなく、二十七人の部員たちは講堂の舞台に揃い、いつものように演奏を披露して見せた。つい数分前のことである。

 そして、そこで事件は起こった。

 立て続けに数曲の指揮棒を振り終え、どこか涼しい音色の拍手に包まれながら、部長が最後の一曲の紹介を始めようとした瞬間。甲高い声が耳に飛び込んできたのだ。


 ──『もういいや、出よう出よう』

 ──『聴く価値なかったねー』


 きっと舞台上の誰もが耳を疑ったに違いなかった。“もういい”“聴く価値ない”──。暴言に目を見張った美琴の隣から、反射的に菊乃が腰を浮かせかけた。気づけば慌てて制止の手を伸ばしていた。


「ちょっとっ」

「…………!」


 せいいっぱい押し殺した声を、強く噛み締めた唇で受け止め、菊乃は元の席に腰を下ろした。

 その瞳は泥のように濡れていた。血走った眼差しの照らす彼方で、のどかに笑いながら退席してゆく女子高生たちのセーラー服が、いくつもにじんで膨らんだ。芸文附属か、都立立国か、それとも他のところの生徒か。細かいことは覚えていないが、少なくとも美琴の知る限り、この国分寺の街でセーラー服を導入している高校は芸文附属だけだ。

 淡々とした部長の曲紹介の言葉にどうにか平静を取り戻し、部員たちは楽器を取り直した。だが、取り戻せたのは表面上の落ち着きだけだった。動揺した一年生は片っ端からミスを重ね、締めの一曲の出来は乱れに乱れた。美琴も、そしてどうやら菊乃も辛うじてノーミスで演奏を乗り切ったが、ただ単に()()()()()()()()()であって、満足のいく出来映えの音色とは到底言い難かった。そして、まばらな拍手を茫然と受ける菊乃の瞳には、もはや一滴の輝きも見つけることができなかった。

 アントニオ・ヴィヴァルディ作曲〈和声と創意への試み・作品八〉第三曲。通称、〈四季・秋〉。──大失敗だった。

 結局、舞台を降りたあたりから菊乃は泣き出して、今に至る。泣いている理由は、知らない。知ったら自分も泣いてしまう気がして、美琴にはとうとう尋ねる勇気が出せなかった。




 みんな、と先輩が声をかけた。部長の飯塚(いいづか)(あかね)だった。


「音楽室、戻ろう。そろそろ次の団体が待機に入るらしいから……」


 弱々しい声だった。力なくうなずいた部員たちが三々五々、立ち上がる。美琴も立ち上がった。痺れた足を叱咤して保ちながら菊乃を見下ろすと、両手の押し当てられた菊乃の太ももに、ひとつ、ふたつ、また涙の染みが増えた。


「行くってよ」

「……先、行ってて」

「置いていけるわけないでしょ」


 美琴は握ったクラリネットに圧をかけた。うなだれたまま、菊乃が重そうな腰を持ち上げる。膝から転げ落ちそうになったねずみ色のフルートを、彼女は涙まみれの手で強引に掴んで引き寄せた。

 〈四季・秋〉は、もとをただせば十一月半ばの地区音で披露する予定の曲であった。クラシック音楽に関心のない人でも耳馴染みのある有名曲であり、秋真っ盛りの十月に行われる文化祭での締めの曲に相応(ふさわ)しいと(もく)されたのだろう。練度が高くないのを承知で、プログラムの最後に追加された。

 その結果が、この(ざま)である。


「──ねぇ」


 菊乃の(しわが)れた声が問うた。


「あたしたち、最善、尽くせたのかな」

「…………」

「きっと、尽くせなかったんだね。……だからあんな言葉、かけられたんだ」


 その目が、背後の舞台の方へ吸い寄せられる。美琴も無意識に真似をした。カーテンの隙間から漏れ出す照明の輝きが、美琴には管弦楽部が舞台上にいた時のそれよりもいくらか目映(まばゆ)く見えた。

 菊乃はフルートを強く抱き締めた。


「何が足りなかったんだろ……。練習? 自信? 覚悟? ぜんぶ……?」

「菊乃、」

「悔しい」


 美琴は喉が詰まるのを覚えた。胸の中にフルートを抱え込んだまま、菊乃は押し殺した声で叫んだ。


「悔しい……。ちゃんと練習してればミスなんかしなくて済んだ。ちゃんと自信を持って臨んでれば、あんな言葉に惑わされなくたって済んだ! 悔しい……! 観客(あいつら)に完璧だって言わせられなかった! 自分を納得させることさえできなかった……っ!」


 その言葉はすべて菊乃自身に向けられていたもののはずだが、同時に、ともに舞台に立った仲間たちに少なからず向けられたものでもあったのだろう。頭上に降りかかった自責の重みを受け止めきれず、美琴はしばし、その場に立ち尽くした。数歩先で歩みを止めた一年生の部員たちが、半泣きの顔で菊乃を見つめていた。


「行くよ、滝川」


 不意に隣へ現れたサックス吹きの先輩が、菊乃の背中に手を回して押した。「はじめ先輩」と菊乃が(うめ)く。金色のテナーサックスを小脇に抱え、はじめは(かたわ)らの美琴にも聞かせるように()いた。


「いつまでもここに陣取ってたら迷惑になる。ほら、泣いてないで」

「先輩は悔しくないんですか!?」


 さめざめとあふれる涙を拭いながら菊乃は噛み付いた。


「あんな言い草で演奏バカにされて、否定されて、はじめ先輩は悔しいって思わないんですか!? どうしてそんな平気な顔でいられるんですかっ!」


 はじめの瞳に暗い色の光が走ったのを美琴は目にした。やめなよ、先輩に向かって口答えなんて──。制止の言葉が喉まで這い上がってきたが、ついに口には出せなくて、美琴はただ、強張った身体の放つ痛みに耐えながらはじめの反応を待った。


「……悔しいに決まってるでしょ」


 やがて、はじめは答えた。一言一言を丁寧に凍らせてから吐き出しているみたいに、ぞっと背筋の冷える声色だった。


「悔しいけど、だからってどうにもならない。うちは前からこういう存在だった。滝川だって知ってるはずだよ。校内で楽器の上手い人は基本的にみんな、うちじゃなくて外部の楽団を選んでる。素人と、そこまでレベルの高くない奏者と、珍しい楽器の持ち主が寄せ集まって出来ているのが、弦国(うち)の管弦楽部なんだ」

「そんなこと分かってますけどっ……!」

「今までの練習だって、別に手を抜いてたわけじゃなかった。せいいっぱい演奏した結果、私たちの現状への評価がああいうものになってしまうなら、それは甘んじて受け入れるしかない。反発したって何も生まない。そうでしょ」


 はじめは視線を落とした。


「……私たちはもっと、身の程を知らなきゃいけないよ」


 紅く、蒼く染まった菊乃の顔は、まるで上下からプレス機にかけられたみたいに醜く歪んでいた。内側に向かって(たわ)んだ皮膚のなかに隠された、決して語られることのないであろう菊乃(かのじょ)の叫びが、その顔の紋様には痛々しいほどに(にじ)んでいた。

 ほら、とはじめに再三促されるまま、菊乃は控えの場所を出た。追いかけると、開いた扉から土石流のごとく流れ込んだ外の世界の騒音が、たちまち美琴の耳を圧迫した。迷子の案内を告げる校内放送の音、雑踏、呼び込みや客引きの声、はしゃぐ誰かの声──。じきに、心配そうに様子見に戻ってきた茜たち三年生の声が混ざり合って、美琴の耳元にひとつの不快な雑音を壮大に紡ぎ上げていった。

 結果的に殿(しんがり)になった美琴は、ふと、いまだ激しい演奏の続く舞台の方を振り返って、二枚の唇を固く重ね合わせた。

 はじめの言うことも理解できないわけではない。

 けれども、『どうにもならない』という彼女の弁には、どうしても賛同することができなかった。つい今しがたまで、あの舞台に雁首を並べて座っていた自分たちの指や楽器が、菊乃のいうところの“最善”を尽くしていたようには思えなかったから。どうしても、どうあっても。


(他校のやつらが何を言おうと知ったことじゃない。けど、できる範囲のことをすべてやっても、それだけで“最善を尽くした”ことになんてならない。こうして悔いが残った時点で、私たちの負けなんだ)


 うつむいて、クラリネットを握りしめる。絡まりあった金属色のキイが手のひらに食い込んだ。


(……悔しいな)


 静かに、思った。

 美琴にしては珍しい感慨だった。






 涙を呑んだ文化祭の演奏から、およそ半年。

『全国学校合奏コンクール』の存在を発見した菊乃が、二年生を丸ごと抱き込んで弦国の参戦を声高に提唱し始めるのは、年を跨いだ次年度新学期のことである。











限界まで心を壊し、自宅という名の殻に閉じこもってしまった里緒。

だが、里緒はひとりではなかった。里緒を失った痛みに(むせ)び、悔恨に沈む人々がいたのを、当の里緒は少しも知らなかったのだ。

そして今、里緒を『一番の友達』『理解者』とまで慕い続けた二人の少女が、ようやく手を取り合って立ち上がった。幾多の涙や悲しみを乗り越えて、いよいよ物語は“転”の後半へと進む──。


果たして里緒は、クラリネットの音を取り戻せるのか?

ふたたび前を向いて歩き出せるのか?



──【第四楽章 蒼の涙とアイネクライネ】に続きます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ