C.095 里緒の行方
メッセージアプリの通話機能を使うのはこれが初めてで、受話器のアイコンを押す指がおぼつかない。自室のベッドに腰かけ、思いきってアイコンに指先を押し付けた紅良は、相手の名前の上に可愛らしい星形の髪留めの写真が表示されているのを確認して、スマホを耳に当てた。
──『……こんばんは』
電話口から花音の声がした。
やたら堅苦しいあいさつに紅良は噴き出しかけた。だが、それが声の震えを無理やり誤魔化すための台詞であることに気付いて、いったん封じた口を開いた。
「ごめんなさい。こんな夜中に電話かけて」
──『メッセージじゃダメだったの』
「なんで泣いてるわけ、花音」
──『イチャモン西元は知らなくていい』
答える代わりに尋ねたら、花音は吐き捨てた。今となっては懐かしい響きのあだ名が耳元を舞う。
嘆息して、紅良は天を仰いだ。やっぱり里緒と花音はまったく違う子だ。自分を拒む理由がこんなにも違う。そんな当たり前のことに気付いて、ひどく満足を覚えた。
「管弦楽部でケンカしたんでしょ。さっき、鴨方さん経由で聞いた」
──『知ってるなら言わないでよ、意地悪……っ。もうこれから“悪元”って呼ぶから』
冗談に聞こえない。紅良は苦笑した。すぐさま『笑うな』と花音が声を荒げたが、半泣きのままでは脅し文句の体をなしていなかった。
管弦楽部の一年がファミレスで口論になったことを教えてくれたのは、国立WO仲間のつばさである。すでに舞香の愚痴をさんざん受け止めたあとだったらしく、彼女は『舞香を泣かせるなんてすごいね』と感心混じりの感想を口にしていた。つばさという情報源──いや仲間を持ったことを感謝する気になったのは、おそらくこれが初めてのことだった。
ぐず、と受話器の向こうで花音が鼻を啜り上げる。一歩間違えれば今日、紅良も紬の前で同じように泣いていたのかもしれない。こんな無様なシンパシーを感じるのは初めてで、けれど案外、気分の悪いものでもなかった。
シンパシーを感じたっていいのだ。
花音も、紅良も、今は大切に思っていた共通の存在を失った仲間同士なのだから。
「……花音」
呼び掛けてみる。不機嫌そうな花音の声が応じた。
──『うん』
「後悔、してる?」
──『してるに決まってんじゃん。悪元のバカ』
“何が”とは言わなかったのに伝わった。紅良は畳み掛けた。
「私も後悔してる。高松さんが追い詰められてるのは分かってたはずだったのに、たった一度、突き放されたくらいで諦めた。……私も今、花音と同じ気持ち」
──『私と……同じ?』
花音にはずいぶん意外に感じられたようだった。「そう」と答えて、少し整理の間を置いた。
後悔している。
もっとやれることはあったはずだった。
でも、本当は後悔なんてしたくはない。そのくらい自分は、里緒のことを大切に思っていた。
後悔を振り払いたければ、行動するしかない。新しい喜びが苦痛をもたらすなら、新しい苦痛は喜びをもたらす。そこには揺るぎのない必要十分条件が成り立つはずだと紅良は思うのだ。
「きっとまだ間に合う。──花音、」
紅良は強い志を言霊に込め、投げかけた。
「高松さんのところに行こう。会って、私たちにできること、探そう」
花音ならば乗ってくれる、という期待も込みでの言い切りだった。誰かに期待をかけるのは、もう本当にこれで最後のつもりでいた。
果たして、花音は素直に応じてはくれなかった。よほど予想外の提案に思ったのか、しばらく鼻を啜りながら沈黙した花音は、やがて悲しげに呻き声をあげた。
──『そんなこと言ったって、私たち、里緒ちゃんがどこにいるのかも知らないのに……』
「予想くらいはつけられる。だけど私だけじゃ、広い立川の街をカバーできない。花音の足と声が必要なの」
意味わかんない、と自棄くそ気味に花音はつぶやいた。
そのまま十秒も沈黙が続いた。足場の不完全な紅良の熱意は、花音の沈黙が伸びるとともに少しずつ揺らぎ、傾き始めてゆく。
やっぱり、相手が私じゃダメか──。
最後の期待が失望に変わってゆこうとする。その時、ようやく待ち焦がれていた花音の声がした。
──『西元が諦めるのやめるなら、私だって諦めるの、やめる。約束してよね』
瞬間、紅良は部屋の天井に、雲の切れ間から差し込んだような一条の光が走るのを見た。
当たり前だ。神とやらに誓ってもいい。間髪を入れることなく「もちろん」と答えた。足掛け十五年の紅良の人生の中で、こんなにも高揚感を覚えたのは初めてだったかもしれない。
花音が『本当?』と尋ね返してきた。真っ暗だった声のトーンが、つい直前までのそれよりも少し上がっていた。
──『約束だよ。いま言質取ったからね。西元が先に諦めたら、管体が折れるまでクラリネットでぼこぼこにするから覚悟しといてよ』
「いちいち大袈裟なんだから……。じゃあ、花音が先に諦めたら私は何をすればいいわけ」
──『そんなこと考える必要ないよ。……花音様、だもん』
意味不明な根拠と自信である。思わず紅良は笑った。その言葉選びの節々に、いつもの花音の調子が戻ってきているのを確信した矢先。
花音が小さな声で、続けた。
──『ありがと』
その一言だけで、明日という一日を生きられる。明日の自分へ希望がつながる。
紅良も真似をした。慣れない言葉だったけれど、不思議と喉につっかえることはなくて。
「私こそ。……ありがとう」
受話器の向こうで花音の微笑む音がした。
生きている限り、人は音から逃れられない。発した息吹は必ず音に変わって、その人の生存を知る、在処を探る手がかりになる。
七月二日。
行方知れずの里緒の足跡をたどる、紅良と花音の一世一代の共闘が、始まった。
第三楽章はここまでです。
登場人物紹介を挟み、
【Interlude ──〈哀音〉】に続きます。