C.009 管弦楽部へ【Ⅱ】
改めて全体を見ると、部員はそう多くはない。D組の生徒の方が人数では勝っているように思える。はじめが付け加えた。
「今は二年生が十人、三年生が十人、合計二十人で活動してるの。楽器の種類は今のところ、クラ、フルート、サックスはアルトとテナー、トランペット、トロンボーン、ホルン、ファゴット、チューバ、ユーフォ、弦楽器がヴァイオリンとヴィオラとチェロ、あとは打楽器系。打楽器は一人しかいないし、バスとかオーボエの奏者に関してはまるっきり欠いてる状態かな」
「なんか、あんまり多くないんですね。こういう部活って何十人も引き連れてるイメージだったんですけど」
花音が尋ねた。はじめは苦笑して、手元のサックスを引き寄せた。
「このへんには吹部の強豪校が多いの。芸文附属とか、都立立国とか。ここいらだと市民吹奏楽団の活動も盛んだし。だから、経験者とか本格的に楽器やりたいって人はそっちに流れちゃうんだよね」
「へぇ……」
どちらの校名にも耳馴染みのなかった里緒は、なんとなく空気に合わせてうなずくことしかできなかった。
しかし言わんとすることは分からないでもなかった。なまじ進学校だけあって弦国の授業は進度が速く、ついていくのが大変だという。それこそ吹奏楽コンクールやら何やら、本格的に部活動に取り組みたい生徒にとって、そこそこ勉強に本腰を入れねばならない弦国は厳しい環境なのだろう。
心なしか、安堵した。
(高いレベルの演奏を求められるわけじゃないんだ)
こうして弦国に受かりはしたものの、高校の勉強に安定的に追い付いていける自信は里緒には皆無だった。どこの部活を選ぶにしろ、ほどほどの活動で日々の息抜きができればいい。紅良は演奏の質を卑下していたけれども、この管弦楽部のレベルならば、まったりと取り組むことができそうだと思った。
「私、完全に初心者なんですけど、それでもついていけますか?」
花音が少し不安げな声を上げる。大丈夫、とはじめは首を縦に振って応じた。
「弦楽器以外の楽器に関しては、入部してくる人の半分近くが初心者だから。私のこれはテナーサックスっていうんだけど、始めたのは高校からだしね」
「へぇー。高校から始めても部長やれちゃうなんてすごい……」
「中学では何をやってたの?」
「テニスをやってました。走り込みもしてたので、肺活量には自信あります!」
道理で足が速いはずだと里緒は思った。スカートから伸びるしなやかな輪郭の足を見つめていると、あ、と花音が思い出したように里緒の肩を指して付け加えた。
「この子、中学では吹奏楽部にいたんですよ!」
里緒は危うく身体を浮かせるところだった。自分の口で説明しようと思っていたのに!
「本当!」
はじめの目はたちどころに輝いた。
「楽器は?」
「……クラリネットです」
しぶしぶ、答えた。「本当は一年生の間しか在籍していませんでした」などと白状できる空気ではなかった。はじめはメモ帳を取り出し、折り畳まれた部員名簿のようなものを開いた。
「クラリネットは現時点で二人しかいなくて、そのうち一人はもうじき大学受験で姿を消しちゃうの。あなたが入ってくれたら大きな力になる!」
「そ、そんなそんな!」
三年生の代替が務まるはずがない──。泡を食って否定にかかったが、すでに里緒に向けられる部長の眼差しは期待のそれにすっかり変わってしまっている。
「もしよかったら、今度でもいいからここでクラリネット吹いてみない? 経験者って聞けば、きっとみんな聴きたがると思うの」
「ねー、私も里緒ちゃんのクラリネット聴きたいなぁ」
はじめの提案に続けて、花音も甘えるように猫なで声を発する。
里緒はいよいよ追い詰められた。事ここに至って、“はい”以外の選択肢を選ぶ勇気が里緒に備わっているはずはなかった。
「……上手く、ないですけど」
たちまち花音は「やったぁ!」と歓声を上げ、里緒にしがみついた。音楽室を飛び交う音と花音の手に揺さぶられながら、里緒は行き場のない息をそっと漏らした。花音には一生涯かかっても敵わないような気がしたのは、いったいこれで何度目のことだろう。
とりあえず、明日も里緒が管弦楽部に拘束されることだけは確定したようだった。
しばらく音楽室での全体練習が続いた後、セクションごとに別れてのパート練習が始まった。
弦国管弦楽部のセクションは『木管』『金管』『低音』『弦楽』『打楽器』の五つあって、それらの下に属するパートは全部で十四。持ち運びの難しい打楽器は引き続き音楽室で、同じく重量級の楽器の多い低音や音の小さな木管楽器は近隣の教室で、それなりに大きな音を発する弦楽は離れたところの教室で、最も練習場所を選ばない金管楽器は空いている場所で練習に取り組むことと決められているらしい。
花音がクラリネットへの関心をしきりに叫んだので、二人ははじめに伴われて木管パートの教室を見学させてもらうことになった。
そこで待っていたのは予想外の再会相手だった。教室に一歩目を踏み込んだとたん、里緒の目に飛び込んできたのは、あろうことか昨日の帰り際に教室の前で衝突してしまった先輩の姿だったのだ。
「あ!」
目が合った瞬間、里緒も先輩もいっぺんに叫んだ。叫んだ口をそのままに、里緒は慌てて追加の謝罪にかかった。
「その、昨日は本当にすみませんでした! ちっとも前見てなくて……っ!」
「い、いいよそんなに頭下げなくても。私も不注意だったし」
「茨木と知り合いなの?」
はじめが尋ねてきた。事の次第を説明すると、納得といった具合で先輩の名前を教えてくれた。茨木美琴、二年生。
「クラリネットを吹いてるの」
興味津々といった様子で近寄っていった花音に、美琴は快くクラリネットを見せてくれた。黒艶のある木製ソプラノクラリネット。長さからして、吹奏楽で一般的に用いられるB♭管と呼ばれる種類のもののようだった。
「うちの部でも数少ないマイ楽器なんだよー。買うといくらか知ってる?」
横からフルートの先輩が顔を出してきた。滝川菊乃、音楽室の入り口で声をかけてきた人物である。
「五万円くらいですか?」
「正解は五十万円!」
ひぇー! と花音が奇声を上げた。精密機械である楽器は、値段も非常に高価なのだ。
「買ってくれたのは親だけどね。やっぱ、マイ楽器だと大切に思う気持ちも大きくなるし、音質もよくなったような気がする」
愛しげに管体を撫でた美琴は、楽譜なしの即興で曲を吹いてみせた。〈きらきら星〉。楽器の練習曲としては最もメジャーな名曲である。そうとう基礎を吹き込んでいるのだろう、その音色は細部まで整っていて非の打ち所がない。
「すごいですね! とってもきれいです!」
「まあね」
澄ました顔でうなずいた美琴だったが、その頬は秘かに弛んでいた。花音の絶賛は満更でもなかったらしい。
後ろで聴いていたはじめが口を挟んだ。
「今日は三年の部員は来てないけど、正直、管弦楽部での実力は茨木の方が上かな。うちでも珍しい、中学からの経験者だよ」
「じゃ、里緒ちゃんと同じだ」
花音が唐突に里緒の名前を発した。ぼうっとクラリネットの余韻にひたっていた里緒は、先輩たちの視線が瞬間的に自分めがけて殺到するのを感じて、うろたえた。──私が? 茨木先輩と同じ?
「や、やめてよ青柳さん……! こんな上手くないよっ」
「ってことは、経験者ではあるんだ?」
「……はい」
菊乃の念押しが割り込んできて、しぶしぶ、里緒は首肯してしまった。この期に及んで嘘はつけない。他人のプライベートをぺらぺらとしゃべってしまう花音の癖は、もう少しどうにかならないものだろうかと思った。
花音はふたたび美琴のクラリネットに夢中になっている。見ると、菊乃はフルートを机の上に放り出したまま、何やら不敵な笑みを浮かべていた。
はじめは音楽準備室の見学もさせてくれた。薄暗い部屋には見上げるような大きさのステンレス棚が並び、幾多の楽器がケースごと収納されていた。保管数が多いのはそれだけ種類が豊富ということでもあり、そして同時に、部員の少ない管弦楽部の現状をもっとも視覚的に表してもいた。
「里緒ちゃん、中学の時からこんな空間にいたんだね……」
ひとつひとつはじめに紹介してもらいながら、感無量といった様子で花音は居並ぶ楽器類を眺めていた。今さら否定する元気も出ず、里緒は黙って中央に鎮座するドラムセットの椅子に腰かけた。クラッシュシンバルに腕を置き、はじめが解説を加えてくれた。
「活動内容としては、毎年四月の半ばにやる春季定期演奏会と、『立川音楽まつり』っていう音楽イベントへの参加、夏の甲子園での野球部の応援演奏、都内の高校が合同で開催する『中音』と『地区音』っていうイベントへの参画、あとは文化祭とか学校行事での演奏。よく聞かれるんだけど、うちは吹奏楽部じゃなくて管弦楽部だし人数も少ないから、吹奏楽コンクールには出場できないの。それ以外のコンクールへの参加も、特には検討してない」
「なんで出場できないんですか?」
花音が首を傾げた。音楽の道に踏み込んだことのない人にとって、吹奏楽と管弦楽の違いは分かりにくいのである。
「そもそもね」とはじめは人差し指を立てた。管弦楽というのは、管楽器と弦楽器、それに打楽器が参加する合奏のこと。一般にオーケストラと呼ばれるのはこの管弦楽のことで、吹奏楽には低音を担当するコントラバス以外の弦楽器は原則として参加しない。弦楽器の演奏人口はあまり多くはなく、普通の中学や高校ならば演奏者の数が限られていることの方が普通なので、管弦楽部よりも吹奏楽部が普及しているという事情があるのだ。
コンクール、参加しないんだな──。また少し心が安らいだのを感じていると、花音も応じた。
「よく分からないですけど、なんかすっごくいろいろやってるんですね。コンクール出なくても充実してそう」
「全員が全部に参加するわけじゃないけどね」
はじめはドラムセットから一歩を引いた。
逆光に縁取られた部長の顔は凛々しくて、けれど少しばかり、物足りなそうでもあった。
「音“楽”なんだから楽しくやろう──。それが管弦楽部の部是。人が少ないから競争も起こらないし、ハイレベルすぎる演奏も要求されない。気楽に音楽と触れ合える環境だと思ってくれれば、それで、いいかな」
「他人に吹いて聴かせる機会なんて、もう二度とないと思ってたのにな」
▶▶▶次回 『C.010 あの音を追って』