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クラリオンの息吹  作者: 蒼原悠
前奏曲
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Prelude ──〈TRUE END〉








──Amazing grace. ( how sweet the sound )

素晴らしき恩寵、なんと美しい響きなのだろう。


──That saved a wretch like me.

私のような者までも、神はお救いになる。


──I once was lost but now I am found.

道を外れ、さまよっていた私を、

神は救い上げてくださった。


──Was blind, but now I see.

ああ、かつて見えなかった恵みさえも、

今はそこに見えるのだ。



       (────讃美歌〈アメ) (イジング・グレイス〉) (1番) ( 作詞:John ) (Newton)






 




 しんと床に落ちていた静寂は、引き戸から流れ込んだ生暖かな空気に押し退けられ、どこかへ姿を隠してしまった。

 リビングの時計が秒を刻む音がする。昼間の喧騒を失って冷えた午前五時前の空気の中、淡々と響くそれはまるで何者かの鼓動のようだった。そっと後ろ手に扉を閉めると、またひとつ、この狭い世界の中から音が消えた。

 今もなお聞こえるものがあるとすれば、それはこの耳に最も近い場所で打ち鳴らされる──痛いほどに高鳴る、この胸の営みの()ばかり。


「ふ……う」


 静かに息を整えた。

 それから、携えていたものをそっと床に置いた。

 小さな台、胸に抱えられる程度の大きさの箱、一枚の封筒、そして一本のロープ。カーテンを開いて外の光を招き入れると、それらはぼうと(おぼろ)な影を伴って目の前に浮かび上がった。

 こんな時間にもかかわらず、遠くの高速道路をさまざまの車が行き交っている。暗闇を(まと)った眼下の家々を、店を、中学校を、穏やかに彩る無数の光、光、光……。光のもとを漂う生活音さえ聞こえてきそうだ。窓ガラスにわずかに映った両の頬はひどく(やつ)れていて、少し、苦笑いをした。

 すぐに表情は引き締まった。


「……ごめんね」


 ぽつり、こぼした声は床に落ちて砕け、誰かの耳に届く前に形を失ってゆく。


「こんなやり方でしか二人の力になれない、弱い私のこと……。どうか、許して」


 か細く、(しゃが)れた声色だった。いつの間にこんなに年老いていたのだろうか。乱れた髪を掻き上げ、それから目元を指先で拭い、深呼吸をひとつ。ちらり、覗いた手首に何本も走る紅の亀裂が、傾きかかった決心を嫌でも元の角度に戻してしまった。

 泣いたって、叫んだって、遅い。

 今さら後戻りは叶わないのだ。

 台の上に乗り、ロープの取り付けにかかった。事前の練習通りに結び目をこしらえ、天井の照明器具を取り外し、そこへロープの一端を縛り付ける。ゆっくりと、しかし着実に進む作業を、窓の外の光が和やかに照らしてゆく。静けさはいつしか薄まり、木々の揺れる音や彼方の高速道路を走る車の音が、微かに耳へと達する。

 暗闇で目を閉じれば光からは逃れられるけれど、音から完全に逃れることはできない。人間は音に、声に、無防備だ。

 脳にこびりついた幾つもの声が、頭蓋骨の内側をぐるぐると回りだした。遮りたくて、作業に当たりながら小声で歌を口ずさんだ。大切な歌だった。このまま歌っても誰の心にも届かない、この歌声は私だけのためにある──。そう信じて歌い続けた。やがて涙は止まり、あれほど高まっていた動悸が鳴りを潜めた。

 声は聞こえなくなった。代わりに、いつか耳にした壮大なオーケストラの伴奏が、頭のなかを駆け巡っていた。歌い終えても、ロープから手を離しても。

 静かにまばたきをして、閉じられたままの扉を振り返る。つい先ほど五感に焼き付けたばかりの、愛しい人たちの吐息を、眠る顔を、それから笑顔を、その扉の向こうに思い浮かべて。

 前を向いた。

 封筒と箱を数歩先に並べた。

 台には足をかけ、首には輪をかけた。

 伴奏はまだ鳴りやまない。


「さよなら。……ありがとう」


 涙を(すす)って。


「この耳は燃えてなくなってしまうけど」


 笑った。


「いつも、いつまでも、私は二人の息吹(いぶき)を聴いてるからね」


 躊躇わずに台を蹴った。すでに負担のかかっていた細い頸椎(けいつい)に、痩身をも引き寄せる凄まじい地球の重力が、とどめの一撃を振り下ろした。

 目尻から弾けた(しずく)の煌めきが、床に消えるよりも早く──。




 あまねく世界中の音が、消えた。










 午前四時五十一分。


 狭い一軒家の一室の真ん中で、一人の女性の命が散った。


 遺されたものは一通の封筒と、その中身。そして一抱えもある箱がひとつ。居間の机上に放置されていたスマートフォンにはロックがかかっておらず、多数の新着メッセージ通知が溜まったままになっていた。

 発見された時にはすでに脈もなく、天井から垂れ下がる身体は冷え切っていた。警察による鑑定の結果、死因は強い力での圧迫による脛椎骨折と特定。状況から見て他殺の可能性は極めて低く、封筒の中身が本人直筆の遺書であったことも後に判明した。

 享年三十五。平均寿命の半分にすら達しない、あまりにも若すぎる死であった。




 そして。


 自ら命を(なげう)つという非業の手段を選んだことで、彼女が真に願ったものは何だったのか──。

 その答えさえも、永遠に沈黙の闇の中へと落ちていったのかと思われた。












挿絵(By みてみん)










『クラリオンの息吹』をお手に取っていただき、ありがとうございます。


本作『クラリオンの息吹』は、“毎日”午後9時に更新をしていきます。

全180話程度、完結は9月末頃の予定です。

長丁場の連載にはなりますが、お付き合いいただけると嬉しいです!



■!■ この物語はフィクションです。

実在する人物・地名・施設・事件とはいっさい関係ありません。




▶▶▶次回 『C.001 はじまりの朝』

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