表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
PR

風に揺らめく一輪の花

作者: 燈
掲載日:2018/03/24

1

「いってきまーす」

 台所で朝食の洗い物をしている母に声をかけながら、私は玄関のドアを開けて外に出た。さっきパンを食べながら見ていたニュースで言っていた通り長かった梅雨は明けたみたいで、プランターに植えてあるパンジーの葉についた水滴が朝日でキラキラと輝いていた。ニュースの後に星座ごとの今日の運勢を見た気がするが、ぼんやりと見ていたせいで私の星座、さそり座の運勢は思い出せなかった。

 いつものように玄関から少し離れたところにある門に手をかけると、長年使用してきた事による劣化なのか、それとも梅雨の湿気で金具が錆びついたのか、若干軋む音がした。あとでお母さんに言っといた方がいいな、と思いながら体重をかけて一気に開く。外に出ると、ちょうど向かいの家からスーツを着た、いかにもできるサラリーマンという雰囲気を醸し出した男性が出て来るところだった。彼も私に気づいたようで、にこやかに話しかけてくる。

「あ、楓ちゃん。おはよう」

「おはようございます、坂下さん」

「やっと傘を持たないで会社に行けるようになったよ」

やれやれ、と言いたげな表情で彼は言った。

「そうですね、私もやっと外で練習できるようになったんで今日は楽しみなんです」

「そっか、ソフト部だったね、それじゃあ練習頑張ってね」

「ありがとうございます。坂下さんもお気をつけて」

そう言って手を振りながら私に背を向け、彼は駅の方向に歩いていった。私は反対方向、高校のある方向へ向かって歩きだす。

 雨は嫌いではない。確かにグラウンドでの練習はできなくなって室内での面白いとは言い難い基礎練をやらされるし、外に出ると靴は濡れるけど、雨の独特の匂いや紫陽花から雨の雫が垂れるのを見ているのは割りと好きだった。でも、梅雨はいくらなんでも長過ぎる。そろそろ乾いた土の匂いとボールの感触が恋しくなってきたし、母の洗濯物に対する愚痴も聞き飽きた頃だった。さっき坂下さんには練習ができると言ってしまったけれど、正直いって今日は雨で乱れきったグラウンドの整備だけでだいぶ時間が掛かりそうな気がする。少しでもボールに触れればいいんだけどな…

 そんなことを考えながら歩いているうちに、学校が見えてきた。私と同じ高校の制服を着た大勢の人の中に見慣れた背中を見つけた。

「おはよ、浩一」彼の背中をぽんっと叩く。

「なんだ楓か、おはよう」

振り返った彼は一瞬怪訝な表情を見せたが、声の主がわかるとすぐに緊張のほぐれたいつもの表情に戻った。

「なんだって何よ。今日は野球部の朝練ないの?」

「今日は水曜だからないよ」

「そっかそっか、毎日あるわけじゃなかったね」

 坊主頭、高校の名前が大きくプリントされたエナメル素材のバッグなどから見てわかる通り、浩一は野球部に所属している。家が近所で物心ついたころから一緒に遊んでいた彼はいわゆる幼馴染という関係だった。

「そういえば今年の花火大会、もうすぐじゃん。楓は誰と行くの?」

ふと思い出したように浩一が呟いた。

「うーん、やっぱソフト部の皆かなぁ。去年もそうだったし。浩一は?」

「野球部で行く流れになりそうなんだけど、クラスの方の可能性もあるんだよな…。去年よりクラスのやつと仲良いし。」

「そっか、今年はクラスの人とうまくやれてるんだ、良かったじゃん」

からかうように言うと、「うっさい」と煙たがられてしまった。

 去年は浩一と同じクラスだったので事情はよく知っている。厳しいと噂の野球部に入部した浩一は、練習第一で過ごしていたためクラスメイトと話す時間がほとんど無かった。そして気づいたときにはクラスのどのグループにも属していなかった。といっても本人は全く気にしている様子は見せず、「そりゃいつもクラスにいなかったらしゃーないわな」と苦笑いしながら呟いていた。新年度になり彼とは違うクラスになったので少し心配だったのだが、全くの杞憂だったようだ。

 彼と他愛もない話をしながら歩き、校門を通り過ぎる。グラウンドを横目で見たが、大部分が水に覆われ、陽の光を反射してキラキラと光っていた。今日も室内練になりそうだな。昇降口で上履きに履き替えて、教室のある三階まで登る。階段を上がって右側に私のクラス、左側に浩一のクラスがある。軽く手を振って彼と別れ、自分のクラスへ向かう。さっきとは打って変わって、足取りが重くなった。胸の鼓動も心なしか早い。今日はあの人、もう来ているのだろうか。不安とも期待ともつかない気持ちを抱えながらドアに手をかける。

その瞬間、勝手にドアが開いた。

「あ、楓じゃん。おはよう」

教室の中から現れたその人物はにこやかに私に笑いかけながら挨拶してきた。

「おはよう…澪」

 なんで。思考がフリーズしながらもなんとか挨拶は返す。次になんで話をつなげればいいのか、今の挨拶は不自然ではなかっただろうか、そんなことを考えて固まっている私の横を彼女は軽やかに通り過ぎていった。

 机の間を縫って歩き、教室の真ん中近くにある自分の席に座る。鼓動が鳴り止まない。バッグを横に置き、そのまま机に突っ伏した。いつもならその日に使う教科書やノート、筆箱をバッグから出すけれど、そんなことをする気にはなれなかった。

「これじゃ私…あいつに恋してるみたいじゃん…」

そんな呟きが口からこぼれていた。



2

 桜木澪とは二年生になり、クラスが一緒になったことで知り合った。彼女に最初に話しかけられたときのことは強く印象に残っている。

「私は桜木澪、よろしくね。」

 4月の最初の投稿日に、新しいクラスに入って黒板に書いてある出席番号と机の対応表を見て彼女の隣に座ってきた私に澪は、爽やかに笑いながらそう話しかけてきた。

 その瞬間、私はすぐに返事を返せなかった。なんであの時固まってしまったのかは今でもわからない。有りていに言うなら、見とれていたとでも言えばいいのだろうか。胸の鼓動が急に強くなって、言葉がうまく口から出てこなくなったのだ。

 160センチ後半はある身長とショートカットのヘアスタイルから伺えるように、彼女はバスケットボール部に入っている。150センチぎりぎりの身長、肩まで伸ばしたセミロングが特徴の私とはまるで真反対だ。彼女は同じく体育系の部活に入っている私にシンパシーでも感じたのかよく話しかけてきた。初めて話したときに感じた正体不明のぎこちなさ、会話のしにくさは彼女との会話に慣れたせいなのかいつの間にか薄れていたが、胸の底がざわつくような感覚が消えることは無かった。

 ある日、二人で教室の椅子に座りながら彼女と会話していたときのことだ。その頃は、まだお互いのことを「北野さん」「桜木さん」と呼んでいた。

「ねえ、名前で呼んでもいい?」

今までしていた雑談の流れを断ち切るように、彼女は急にそう言った。

「え…」

断る理由などどこにも無い。でもあまりに突然のことに驚いた私は、すぐに良いと返すことが出来なかった。それを見た彼女は首を傾けながら言った。

「ダメ…かな?」

彼女の顔は笑っていたが、どこか寂しげで、私は慌てるようにして返答する。

「いやいや全然大丈夫だよ!すぐ返せなかったのは突然のこと過ぎて驚いただけっていうか…」

「やった!ありがとう!」

 私の言葉が終わる前に彼女は身を乗り出すようにして目を輝かせながらそう言った。その心底喜んでいるような表情を見て、思わず息を飲んでしまう。彼女は私のことを「楓」と名前で呼ぶのに、私は彼女のことを「桜木さん」と名字で呼ぶのはなんだか不自然な気がしたので、私達はお互いを名前で呼びあうようになった。

 澪。その言葉を口にする度に胸の奥がむず痒いような感覚に襲われる。その感覚は時間が経っても消えることはなく、むしろ強まっているような気さえした。単純に下の名前で呼び合える友達ができて嬉しいからなのか。違う。ただ単にその響きに何か感じるものがあるのか。それも違う。

 


 「それってその人のこと好きってことなんじゃないの?」

ある日の帰り道、たまたま部活の終わる時間が被って一緒に帰ることになった日に浩一に相談すると、こともなげに彼はそう答えた。

「好きって…まさか。だって女子だよ?」手を左右に振りながらそう返す。

「別にそれはあまり関係なくない?異性だろうが同性だろうが好きになるものは好きになるだろうし」

 自販機で買ったコーラを飲みながら浩一は平然と言葉を返す。

「いやいやいや…今まで人を好きになったことはあるけど皆男だし…」

 確かに私が感じていること、思っていることを総合して考えるとこれは恋なのかもしれない。でも、私が好きになるのは男子だ。初恋から今までずっとそうだったように。女子を好きになるってことはありえない。

「そう意固地にならなくても良いと思うけどねぇ」

「意固地になんてなってない!」

つい意地になってそう返す。

「私は、女子を好きになんてならないよ…」

呟くように言葉を継ぐ。そう。私が好きになるのは男性だ。だから彼女に対するこのもやもやした思いも恋などではない。

 そう思っていた、そうだったはずなのに。



 くしゃくしゃ、と頭に誰かの手の感触を感じて机から頭を上げる。目の前にクラスメイトかつ部活の同期の紗奈が立っていた。

「朝から机に突っ伏してどうしたん?寝不足?」

私の右隣、つまり澪の席に腰掛けながら紗奈はそう言った。まだ澪は教室に戻ってきていないようだ。

「いや…別にそういうわけじゃないかな…なんか色々疲れたっていうか」

「なるほど。よくわからないけどお疲れさん」

「ありがとう、紗奈」

 そう言いながらまた机に向かって頭を下ろしていく。紗奈はこういうときに変に探ってこない。彼女の優しさが今は有難かった。

「そうそう、話は変わるけどさ、今週の花火大会どうする?まだ予定決まってなかったら一緒に行かない?」

花火大会。さっき浩一がもうすぐと言ってはいたが、来週だったのか。

「行き…たい」

むくりと体を起こしながら答える。

「他には誰か誘うの?」

紗奈の方に顔を向けながら聞く。このクラスにソフト部は私と紗奈の二人だけだから、他に誘うとしたらクラスメイトか部活の同期のどちらかだろう。

「まだ決めてないや。近くに行きそうな人がいたら誘おうかなーとしか考えてないかな」

「そっか了解。私も適当に探しておくね」

「よろしく」

私の肩をぽん、と叩きながら笑顔で紗奈はそう言った。

 話が終わると、紗奈は自分の席に戻っていった。教室全体に視界を広げると、さっきまでまばらだった席が半分以上埋まっていた。いま何時だろう。そう思って時計を見てみると、朝のホームルームまであと5分ほどだった。バッグから教科書、ノート、筆箱を取り出し、筆箱以外を机の引き出しにしまう。特にするべきことも無かったので制服のポケットからスマートフォンを取り出し、来ていた通知の内容に目を通す。指は画面の上で滑らかに動いているが、頭の中では全く違うことを考えていた。

 花火大会に澪を誘ったら来てくれるのだろうか。さっき紗奈とその会話をしてから、澪のことばかり考えていた。半ば無意識のうちに。

 やはり恋なのだろうか。私は女性を好きになる女性なのだろうか。そう考えると、心の中に靄がかかったような気持ちになる。別に同性愛の人たちに偏見など持っていない。世の中の流れもそれに対して寛容になっているみたいだし。でも、自分が周りの人たちと違う種類の人間なのではないかということをつい考えてしまう。私が”そう”であると知ったら周りの人たちは今まで通り接してくれるだろうか、親は?友人は?紗奈は?想像するだけで不安に苛まれる。違う。私は”そう”ではない。

 だからこの気持ちは恋などではない。決して。

「どうしたの、そんな怖い顔して」

 その声にふと現実に引き戻される。目の前にはついさっきまで考えていた人物が不思議そうな顔をして私の顔を覗き込んでいた。

 さらさらした髪。

 想像以上に長いまつ毛。

 そして微かに香る石鹸の匂い。

 一瞬にして何も考えられなくなった。

「あ…いや、何でもない。」

そう答えるまでたっぷり三秒は経っていた。

「さっき会ったときもフリーズしてたけど…私何かしたっけ?」

そう不安を含んだ声で聞いてくる。

「いや澪は何もしてないよ!本当に!」

そんな誤解を一刻も早く取り除きたくて、焦るように答える。周囲の人の目線を感じる。でも今はそんなことはどうでも良かった。ただ、目の前にいる彼女に勘違いをして欲しく無かった。

「お、おお…そうならいいんだけど」

私の声に気圧されたか、体を後ろに若干そらしながら澪は言った。

「あ、ごめん…。私最近疲れてるみたいで…」

「そっか。なんかさっきから驚かすような感じでゴメンね。なんか悩んでることでもあるんだったら誰かに相談するっていうのも良いと思うよ。私でもいいんだし」

心配してくれたのは嬉しい。でも、あなたが原因なんですよ、なんてことは口が裂けても言えない。

「うん、ありがとう。でも大丈夫。相談するほどのことでもないから」

だから笑顔を取り繕ってそう答えるしか無かった。

澪はまだ何か言いたげだったがしばらくしてから頷いて、自分の席に座った。

 今日はなんで朝からこんなことになっているんだろう。きっと大凶に違いない。朝のテレビの占いも最下位だった気がしてきた。




4 

 帰りのホームルームが終わり、気づけば教室には私以外には3,4人しか残っていなかった。今日は朝の出来事を結局ずっと引きずってしまい、散々な一日だった。数学の授業では先生に指名されてることに気付けず、気付いた後も皆の前で凡ミスをしてしまった。そんな自分をあざ笑うような声が聞こえた気がしたが、それが周囲の人が実際に発したものなのかそれとも自分自身に呆れてしまっている心の声なのか、ということすらわからなかった。

 一体今朝の出来事のうち、どれが私をこんなにも憂鬱にさせているのだろう。自分の恋愛対象について?澪に対して声を荒げてしまったこと?澪に気を使わせてしまったこと?そのどれもが正解のような気もするし、どれもが不正解なようにも思える。考えれば考えるほど頭の中が混乱してきてわけがわからなくなる。

 一人で悶々としていたそのとき、ポケットの中でスマートフォンが振動した。取り出して画面のスイッチを入れる。ソフト部のグループからメッセージが届いていた。今日の練習についての連絡かな、と思って画面を上にスライドする。使い始めてそろそろ2年、もう右手が覚えてしまっている4桁の番号を入力して画面ロックを解除して、メッセージの内容を確認した。

『今日手間をかけてグラウンド整備をしなくても、明日になったら自然に乾いてると思われるので今日の練習はオフにします。各自明日からの練習に備えて体を休めてください。』

部長を介した顧問からのメールがそこには表示されていた。

「楓、メール見た?オフだってさ」

振り返るとそこには紗奈が立っていた。そして、さっきまでいた人たちはいなくなっていた。

「見た見た。久しぶりに外で出来ると思ってたのに…」

特に今日はこの暗い感情を体を動かすことで発散したかったのに。

「ちょっと肩透かし食らった感じだよね。いま外見てきたんだけど、確かに今日整備して今日練習するっていうのは確かにキツそうだった」

紗奈もため息混じりに返してくる。

「そっかー この後どうしよっかな」

「久しぶりにカラオケとかどう?いまソフト部の子何人か誘ってるんだ」

スマートフォンを顔の前で振りながら紗奈が楽しげに言う。彼女のウキウキとした気分がこちらにも伝わってきた。

「カラオケか…ごめん、今日はパス」

普段だったら二つ返事で参加していただろう。でも今日は何だかそんな気分になれなかった。こんな日は早く家に帰って早くご飯食べて早く寝るに限る。

「そっか、了解」

一瞬、何か言いたげそうに見えたが紗奈は軽く微笑んでそう言って済ませた。

「あ、そうそう。花火大会には誰か誘った?」

暗くなりかけていた空気を振り払うように彼女は言った。花火大会。朝の出来事で頭の中が一杯で完全に忘れていた。

「あ、ごめん…まだ誰も誘えてないや」

「そっかそっか。私も同じ」

 そう言った後、彼女は何かを考えるように黙り込んだ。

 たっぷり10秒は経った後、こう切り出した。

「澪は誘わないの?」

思わず体がビクッと跳ねそうになった。

「澪か…まだ誘ってないかな」

出来る限り平然を装って返す。自然と顔が下を向いた。

「私の思い違いだったらゴメンね。あのさ、楓が最近調子よくない原因って…澪に関係してる?」

 思わず息を呑む。やはり紗奈は気づいていた。顔を上げて目の前の彼女を見ると、その心配そうな眼差しが私の心に突き刺さった。

「関係してる…かな、一応」

また目を逸らしてしまう。

「やっぱり…」

「でも、そんなに深刻なものじゃないの!何ていうか、その、私の一人相撲…っていうか勝手に悩んでるだけっていうか…」

 机が視界に入る。私の勝手な想像、悩み事で彼女に心配をかけていることが申し訳なくて目を合わせられない。

 優しい手の感触を頭に感じる。それでも顔を上げることが出来ずにいると声が聞こえてきた。私の心にすっと染み込むようなあたたかい声が。

「楓が話したくないっていうなら無理に話さなくてもいい。でも、一人で悩んでるとどうしても抜け出すのが難しい袋小路に迷い込んじゃうことがあると思う。私から見ると今の楓はまさにその状態。だから、気が向いたら話してみなよ。私でも、他の誰でもいいからさ」

彼女はそう言うと、私の頭から手を離した。

「今日は無理でもさ、またカラオケとか行こうね」

足音が私の元から遠くなっていき、教室のドアが閉まる音が聞こえた。

 誰かに話す。相談する。それが出来たならどんなに楽になるだろうか。

 袋小路。紗奈はそう言っていた。言われてみれば今の私はそこに迷い込んでいるのかもしれない。悩みを抱え、それに苦しみながらも誰にも話せないでいる。そして今のところそこからの抜け道は見つけられていない。どうすれば良いのだろう。

 本当に…どうすれば…




5

 教室のドアが開く音で目が覚めた。どうやらあのまま眠ってしまっていたようだ。やはり一日中悩んでいたことによる疲労が溜まっていたのだろうか。自分の情けなさにため息がこぼれる。早く帰ってご飯を…

「あれ、楓じゃん。部活はどうしたの?」

 そんな思考の流れを誰かの声がかき消した。かき消された理由は自分の名前を呼ばれたからでも急に話しかけられたことでも無く、その声の持ち主にあった。声のした方向、すなわちドアの方向を向く。澪が立っていた。部活終わりなのだろうか、髪が若干湿っている。

「澪…何でここに?」

「私?ちょっと忘れ物しちゃってさ、それ取りに来たんだ。ていうか、楓は?どうして机に突っ伏してたの?」

机の間をすいすいと通り抜け、私の隣の机に近づいてくる。

「私は、えっと、今日は部活が無かったからそのまま家に帰ろうと思ってたんだけど…なんか寝ちゃった」

乱れた髪を直しながら答える。

「え、ずっと寝てたの?やっぱ疲れてるんじゃない?」

「そう…かも」

また、彼女に心配されてしまった。

「もう帰る?」

「え?」

「いや、楓も今から帰るなら一緒にどうかな、と思ってさ。ほら、私は電車通学だけど途中までは一緒なんだし」

 髪にかき上げながら、はにかむようにしてそう言った。

 どくん、と心臓が胸の中で大きく跳ねる。

「いいよ、支度するからちょっと待ってね」

 自分でも驚くほどスムーズに口から言葉が出た。断る理由なんて何処にも無い。心臓は依然うるさいほど鳴っているが、それほど気にならなかった。

 校舎を出るとちょうど日が沈むところで、空が橙色に染まっていた。澪と同じように部活を終えた生徒たちがちらほらと見える。バスケ部とソフト部では部活の終わるタイミングが被らないのか、今までこうして澪と一緒に帰ったことはなかった。一体何を話せばいいのだろうか。普通なら、今日あった出来事について話すのがいいのかもしれない。でも、今日は一日中落ち込んでいたせいでこの場に合うような話題が見つからなかった。

「今週さ、花火大会あるじゃない」

歩き始めて五分以上続いた沈黙を破ったのは澪だった。

「そうだね」

知っている。今日私を悩ませた原因の一つだしね。

 もう悩みが振り切れたのか、それとも眠ったことによって気持ちがリセットされたのか、今は彼女と普通に会話出来ていた。

 花火大会に誘ってみようか、澪を。今なら言えるかもしれない。いや、今言わなくてはダメな気がする。

「あの、」

「あのさ、」

声が重なる。思わず彼女の方を見ると、驚いたような顔をしていた。あまりのタイミングの良さに、思わず2人して笑みがこぼれる。

「あのさ、良かったら花火大会、一緒に行かない?」

「えっ」

そう口から驚きの声が漏れた。聞き間違いだろうか、今、澪が私を花火大会に…?

「もしかしてもう予定入ってる?」

「いや、特には…ていうか私も同じこと言おうとしてたし…」

 しどろもどろになりながら言葉を返す。

「あれ、そうなの?」

澪は目を丸くていた。

「そっか、じゃあ決まりだね。ありがとう!それじゃあこっちが駅だから、私行くね!」

そう言うや否や、彼女は手を振って小走りで道の向こう側に消えていった。

 あまりに突然かつ予想外のことが起こり過ぎてその場に立ち尽くす。

 花火大会に、澪と、行く。その事実がやっと実感として湧き上がって来た。

 澪がすぐ近くにいるわけでも無いのに、胸の鼓動がさらに早くなる。でも、さっきまでとは違う。何かが違う。先ほどまではほぼ100%、純度の高い負の感情だった。でも、今はそうではない。少し、ほんの少しかもしれないけど正の感情が入ってきている。いや、それも違うのかもしれない。この暖かい感情はさっきまでも私の中にあったのだろう。でも、それから目を逸らしていた。向き合おうとしてこなかった。今になってやっとその感情に向き合えている。

 たぶん、私は嬉しいのだろう。彼女と一緒に花火を見れることが。そう思った瞬間になんだかくすぐったいような感覚に襲われる。ああ、そうか。そうなのか。やっとわかったよ。

 今は周りのことなんでどうでもいい。全く気にならない。この感情に名前なんていらない。ただ、澪と一緒に花火を見るのが楽しみだ。それだけでいい。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 違和感がない [気になる点] あえて言うなら…続きが気になります [一言] これからも頑張ってください
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ