俺だけの
ドアを開けると、真っ白な天蓋付きのベッドの中にティーカップを持った、大きなゴリラがいました。
そのゴリラに、あの幼き日の面影はありません。
幼き日に一緒に比べた背丈は並みの大人より高くなり、きらきらと太陽のように輝いていた髪はごわごわとした全身を覆う剛毛に、今にも折れてしまいそうなほど華奢な体は岩をも砕けそうなほど筋骨隆々になっていました。
「ど、どうも、ご無沙汰しております、あなたの婚約者です。姫、どこにお、お隠れになっているのです?」
「うほっ!」
少年は、ゴリラ語の返事に吹き出しそうになるのを必死にこらえ、ベッドに横たわるゴリラを視界に入れぬよう努めながら部屋を見渡しました。
どうやら少年は、現実から目をそらすことにしたようです。
「婚約者殿よ、このベッドにいる彼女こそが姫、貴方の婚約者だ」
王さまが答えました。
少年の嫌な予感は当たりました。そしてこの時、少年は激しく後悔しました。城門前での約束も、扉の前で言ったことも、彼女にまつわるいろいろな妄想も。
しかし、少年は引くわけにはいきません。先ほど、少年が姫を愛することを宣言した、王さまやメイドさんが、彼の前と後ろで見張っているのですから。
「おお、姫よ。どうしてこのようなお姿に」
少年はベッドのゴリラの下半身に倒れこむようにしながら、質問しました。
しかし、その瞬間、少年の近くで陶器の割れる音がしました。
少年がゴリラの方を向くと、ゴリラの持っていたティーカップが粉々に砕け散っていました。
「お言葉ですが婚約者様、うら若き乙女の下半身にいきなり触るのはどうかと……。お嬢様が恥ずかしがっておられますわ」
メイドさんが言いました。
どうやら、少年はうら若き乙女の下半身をまさぐってしまっていたようです。
少年は慌ててゴリラから飛びのきました。
少年は思いました。これのどこがうら若き乙女かと、そして、恥ずかしさのあまりティーカップを粉々に握りつぶす乙女などいるはずがないと。
すると、先ほどの問いに王さまが答えました。
「実は、その、信じてもらえないかもしれないが、今朝急に姫の身体がゴリラになってしまったんだ。昨日の夜までは何ともなかったのだが……」
「そんな、それは本当なのですか」
「本当だ」
少年は、このゴリラがあの美しい姫であることが信じられないようでした。するとそこへ…。
「俺の愛しの妹は無事か!?」
そう言って、姫のお兄ちゃんが部屋に飛び込んできました。
「うほーほ!」
「ああ、妹よ。かわいそうにこんな姿になって」
お兄ちゃんは、ゴリラの脇にいた少年を突き飛ばし、ゴリラのもとへ駆け寄りました。
「父上、妹はなぜこのような姿に?」
「うほほ」
「実は……、今朝急にこの姿になっていてな。原因は、まだ分かっておらん」
「そう、ですか」
お兄ちゃんは、あまりゴリラの姿であることには反応しませんでした。
ひとしきりゴリラと抱擁を終えたお兄ちゃんは、先ほど突き飛ばした相手を見ました。
「む、そこにいるのは、もしや愛しの妹と結婚したいなどと抜かすクソガキか?なぜここにいる」
「正式に婚約したからここにいるんですよ、シスコンお兄様」
二人は、小さいころから犬猿の仲でした。今にも二人はとびかかりそうな雰囲気です。
「うほほう、うほほほ、うほほほほほほ」
二人のけんかを止めようとゴリラはベッドから立ち上がりました。しかし、慌てて天蓋の柱をつかんで立ち上がったせいで、その柱がメキメキと音を立てて折れてしまいました。
みなさん、ゴリラの握力って五百キログラムもあるって知ってましたか?
二人は、思い出しました。幼いころ喧嘩をしていると、いつもお姫様が喧嘩を止めに来ていたことを。
「ほんとうに、姫なんだな。俺の、姫なんだ……。くそっ、なんで俺の姫がこんな姿にっ」
「まったくだ、俺だけの妹がなぜこんなことに」
二人は泣きました。自分の大切な人がゴリラに変わってしまったことに。
二人は気づきました。ゴリラの中身は、元のやさしいお姫様のままであることに。
二人は怒りました。大切な人をこのような姿にしたものに、姫を守れなかった自分に、そして、姫を自分だけのものだと主張するこの男に。