第三十話 下水路に広がる術式
下水路の中はまるでゲームの世界だ。ロマン溢れるダンジョンだ。
多少視界が悪かったりするが、何かあるのではないかとワクワクして足を踏み入れてしまう。
だが、そんなことを思うのは、ゲームにはある要素がないからだ。
下水路は機械的に掘られた丸い空間で、四方をコンクリートで固められている。
普通に跳んだり跳ねたりしても、天井の一番高いところには届かないので、おおよそ三メートル。一階建ての家くらいの高さだ。
左右に細い路があり、中央には濁った汚水がゆっくり流れている。
はしごはあちらこちらに見えることから、外に出るのは容易だろう。
結界ができるまでココで時間をつぶすつもりだろうか。
「なあ、あとどれくらい逃げ続ければいいんだ?」
俺の質問に玲菜は少し考えて応える。
「明け方の六時にはできるだろうから、それまで時間を稼ぎたいわね」
時計を見ると、まだ五時過ぎ。
「あと十二時間以上か……」
長い、とにかく長い。魔闘師たちからそんなに逃げ続けられるのだろうか。
そんな不安がよぎった時、玲菜が驚いた顔でかがみ込んだ。
「へぇ、大崎が使用していた抜け道って言うのは本当みたいね。見て――あちらこちらに結界が施してあるわ」
「どんな結界なんだ?」
「地上との魔力を完全に遮断してある。つまり、ここにいる限り、地上からは私たちを見つけられないってコト」
「おお! だったら、ここにいれば――」
「そう、魔闘師には見つからない!」
下水路からでると、魔闘師に見つかる可能性がある。工場をあっさり見つけたくらいだ。かなり高い確率だろう。
時間を稼ぐなら、結界のあるこの下水路にいた方がいい。
ただ――
そばを通る汚水がボコンと音を立てるたびに、悪臭が広がっていく。
その度に、玲菜はイライラとした表情で、顔を歪める。
多分、俺も似たような顔をしているだろう。正直きつい、臭すぎる。
「と、とりあえず、場所を変えましょう。ここは無理……」
下水路の結界内で一番マシな場所。臭いの少ない場所を探す旅が始まった。
※ ※ ※
コツコツと足音を反響させながら、俺たちは下水路を彷徨っていた。
本当に彷徨うという言葉がぴったり合うほど、下水道の構造は複雑だ。
地下は地上と違って、方向感覚が狂いやすく迷子になりやすい。それがこんなに複雑なら、遭難もありえるんじゃないのか。
しかし、あいにくなことに臭いはまだきつい。まだ先へ進むしかないだろう。
そんな時、玲菜が妙な気配を感じたらしく、足を止める。
「魔力が発生しているわ……それになんだか嫌な予感がする」
嫌な予感がするなら、正直関わりたくない。
だが、この街の管理者である玲菜がそんなコトを許すはずもなく、俺の返事よりも先に走り出した。
路地を二つほど抜けると、そこには大量の人形が破棄され、散乱していた。
死体が転がっているようなで、非常に気持ち悪い。
やっぱり来なければ良かったと後悔したところで、いきなりカラカラカラと奇妙な機械が回る音が聞こえだし、人形が無作法に起き上がった。
なんの感情もない顔で、俺たちに殴りかかってくる。
「なっ!」
俺はソードを素早く展開し、人形の腕がソードにぶつかった。火花が飛び散り、ずしりとする感触。その威力は七海の人形とは比べものにならないほど重い。
「これでも喰らいなさい!」
拮抗しているところに玲菜が魔弾を放つ。それを真横から受けた人形は派手に吹き飛んだ。しかし、平然とギシギシと機械じみた音をあげ、立ち上がる。
まるでなんのダメージもないかのようだ。たらっと流れる汗。
「渋谷さんの人形じゃないわね……ウソみたいに強いわ」
玲菜は人形に何度か魔弾を放ちそう呟く。
七海以外の人形使いとなると、思い当たる相手は一人しかいない。
「大崎が破棄した人形なのかな?」
「ありえない! 本人は半年前に死んでいるのに動くはずないわ!」
攻撃をかわしながら、玲菜が目を丸くしてハッキリと言い切った。
だとすれば、一体誰の人形。考える暇なく襲ってくる人形を相手に俺はセカンドを発動させ、叩き切ってやった。
だが、それを契機に転がっていた人形が次から次に起き上がる。
「おい、なんだよこれ! やばくねえか?」
二十体以上いる人形たち。
玲菜と手を合わせ、襲ってくる人形たちをなんとか防ぎ続ける。
しかし、先ほど倒した一体と遜色のない強さ。その圧倒的な物量の前にじりじりと後退を余儀なくされていく。このままでは押し切られそうだ。
「お前よくこんな人形を扱っていた大崎に勝てたな……」
「違うわよ。この人形は大崎の物よりも遙かに強い。こんなに魔力を込めてるって、相当な実力者か……相当な人間を喰わせたのよ!」
そんな時、道の先から光がこぼれていることに気がつく。
もしかすると人形を動かしているヤツがいるかもしれない。
「玲菜! 突っ切るぞ!」
「わ、わかった!」
人形をはね除け前へ進む。ガシャンガシャンと人形たちが追ってくるがあまりスピードは速くない。差を広げるように俺たちは光を放つ場所に到着する。
そこには、光り輝くドアが通路を塞ぐように存在していた。
あまりの光量、圧倒される神々しさ。見るものをひれ伏させるような禍々しい魔力。玲菜はそれを見て、小さくため息を吐いた。
「そっか、コイツから漏れた魔力を、大崎が破棄した人形たちが吸い取ってパワーアップしたのね。だから、本人が死んだ後でも動くわけだ……」
大崎の人形を動かしているのは、この扉から漏れている魔力。
なんだかおかしな状況だ。それにしても、この扉は一体?
「玲菜、お前この扉を知ってるのか?」
「ええ、これはこの世界と異世界を繋ぐ扉よ。魔界って言った方がいいかしら? まあ、入ってみないと何とも言えないけど……」
通路を覆うような光を放つ扉だ。嫌な予感しかしない。
あの先には絶対良くないものが待っている直感がそう言っている。だけど、どうしてもその扉をくぐってみたくなる誘惑。
死ぬかもしれないのに、その先にあるものが見てみたいのだ。
まさに好奇心ネコを殺すというヤツだろう。
そんなことを考えていると、ふと名案が浮かぶ。
「人形をこの扉の向こうに連れて行ったらどうなるんだ?」
「あ! それは名案ね。向こうに連れて行って、ここを封印すれば……」
「わかった。なら俺が引きつける。お前は隠れていてくれ」
「けど! 絶対に春馬があっちに行っちゃダメよ? いい? 絶対だからね!」
「行くな行くなと言われると……」
「フリじゃないから! 絶対ダメだからね!?」
作戦は玲菜が姿を消し、残った俺の所へ人形を集中させる。
俺はソードを解放し、扉の前で構え、ぎりぎりのところでかわす予定だ。
大量にいる人形たちがドミノ倒し的に扉の向こうへ行くはずだ。
作戦が決まった頃、人形たちが群れをなしてやってきた。
玲菜が姿を隠しているから、一直線に俺の所へ。予定通りの動きだ。
ソードの魔力を解放し、体を強化した。一気に人形たちが押し寄せてくる。
俺は大きく飛び上がり、それをかわす。
――ドン。
鈍く天井から聞こえる音、俺は天井に強く頭をぶつける。
「いてぇ!」
強化された状態で、思いっきり飛びすぎたようだ。
地面で転がった俺の体に人形たちは躓き、次から次へ扉の向こうへ落ちていく。
もちろん。俺も――
「は、春馬!」
長く細い腕が俺の前に伸ばされた。それを掴むが、人形に押されている状況では、踏ん張りもきかない。
俺は玲菜の腕を掴んだまま、扉の中へ落ちて行く。
下水路の嫌な臭いが一瞬にして消えて、玲菜の甘い香りが広がった。
※ ※ ※
眩しいなんて言葉では言い表せないほどの光量に襲われ、激しい頭痛と吐き気が同時に頭の中をかき混ぜていく。
そんな苦痛に耐えたところで、ガンっ、と俺は頭を激しく地面にぶつけた。
頭から落ち、激しい痛みで目の前がチカチカとする。
そこに上に柔らかい感触が降ってきた。鼻と口を塞ぐかのようなその物体。
「や、やめろぉぉっ!」
人形に襲われたと思った俺は、慌ててもがく。
その度に何とも言えない、いい匂いがする。
「ひゃっん!」
そんな玲菜のかわいい悲鳴と共に、鼻と口を塞いでいた物体は消えた。
俺は恐る恐る……目を開ける。
結構遠く離れた玲菜が、真っ青な顔で俺を見下ろしていた。
無言の時間、だんだんと玲菜の顔が真っ赤に染まっていく。
一体、なにがどうなっていたのだろう。
「なあ、今のって――」
「忘れなさい! じゃなきゃ、記憶がなくなるまでぶん殴るわよ!」
俺の言葉を遮って、玲菜は大きな声で叫んだ。
なんだったのかよくわからんが、もう口にしない方が賢明だろう。
「ほんっと、最低なんだから!」
玲菜が耳まで真っ赤にして、服についた泥を叩く。
乾いた風の中にほんのりと血と肉の臭いがして、俺は辺りに目を向ける。
バタバタとしていて、気がつかなかったが、どす黒い雲に覆われた見たことのない世界だった。
地面の土は紫に見え、空には太陽が三つ並ぶ。地球にあった太陽とは熱量が違うのか、三つあるのに暑さをほとんど感じない。それどころか肌寒いくらいだ。
辺りにはごつごつとした真っ黒な石がたくさんあり、どんな成分の鉱石なのかさっぱりわからない。
まあ、地球の鉱石だって、ほとんどわからないが……。
「こ、ここが異世界……魔界か?」
体が重く感じるのは、空気のせいだろうか、呼吸が辛い。
なによりも違うのは、魔力の濃度の高さだ。
油断していると、全身が魔力によって犯されてしまいそうになる。
隣りにいる玲菜も同様に辛いらしく、少々表情が歪んでいた。
これは長くいて、良い場所ではないな。
玲菜が興味深く辺りを眺め、不意に呟く。
「やっぱり魔界と繋がっていたわね……相澤はこの世界に住んでいる悪魔と、契約をしたのよ……」
魔界にすむ住人と契約することが悪魔契約。相澤のあの異形の正体。
どうして、大崎の人形が捨ててあった場所に、こんなところへ繋がる扉があったのだろうか。
「大崎と相澤に接点はないよな? だったら、一体誰に悪魔契約を教えてもらったんだ?」
「怪しいのは諏訪ね。って言うか、アイツくらいしかいないわよ」
そんな話をしていると、ちりぢりに落ちた人形たちが集まってきた。
さっきよりも人形の魔力が高い。やはり、人形はこの世界の魔力に反応しているようだ。早く元の場所へ帰らなければ。
辺りに目を向けると、近くに俺たちが入ってきたと思われる扉があった。
だが、それが明らかに光量が弱っている。扉が消えかけているのだ。
俺たちや人形を移動させて、扉の魔力を消耗していたのだろうか。
「玲菜! 扉が消えかかっている、戻るぞ!」
「そうね、早く行きましょう!」
さすがに帰れなくなるのはまずい。俺はソードを堅く握りしめる。
すると、不思議なことにさっきまでよりもソードの魔力が多い。なぜかソードの魔力が回復しているのだ。なぜだろう。
「ほら、春馬! さっさとしなさい!」
先行する玲菜が振り返る。深く考えるのはあとだな。
俺たちは人形たちをかいくぐり、扉の中に入った。
またあの光量などに襲われながら、臭い臭い下水路に到着しホッと息をつく。
まさか、吐き気がする臭いのここに戻ってきて安心するとは……
そんなことを考えていると、玲菜が扉に向かって、魔法をかけ始める。
扉から発せられていた光が一気に弱り、魔力が消えて扉の形をした小さなオブジェクトになった。それを玲菜は掴み、どこかに隠す。
いつも思うが魔法使いたちは、どこに隠しているのだろう。
まさに手品。便利な四次元ポ○ットだ。
「これで封印完了。あの人形たちはもうこっちの世界へは戻って来ないはずよ」
全ての人形片付いたからか、玲菜の顔にようやく安堵が浮かぶ。
下水路にようやく平和が戻ってきた。しかし――
「あの世界だと人形が無尽蔵にパワーアップしないのかな? その、あっちの魔力を吸い続けて……」
玲菜がものすごい顔で扉に目を移す。そして、滝のように冷や汗がこぼれた。
ギギギと音がするようなぎこちなさで振り返る。
「ま、まあ、忘れましょう。あの世界はなかったってコトで!」
「なんか、すごいことをやらかした気が……」
心配していると後ろから、コツンと靴の音が響く。
俺たちが慌てて振り返ると、そこには一人の女が立っていた。
切れ長の鋭い目つきをした美人。多くの男は畏怖してしまうほど、あまりにも整いすぎている。
大きな胸を強調するような胸ものと開けた服に、タイトなミニスカートを履いおり、スタイルはよく見える。
しかし、強い茶色い髪が非常にビッチ臭い。いや、全体的にビッチだ。
その女が、俺たちに驚いた目を向ける。
「あれ? 扉……そっか、封印しちゃったんだ」
俺も玲菜も言葉を詰まらせた。まさか、こんな場所で人に会うなんて思いもしなかったからだ。それどころか、扉のことまで知っているなんて。
「……お前は何者だ?」
「さあて、誰でしょう?」
質問に対して、からかい気味に女は笑みを溢し、近づいてきた。
そして、いたずらっぽく、俺の頬を撫でる。
ふわっとした柔らかい感触。未知の快感にぞわっと全身が身震いした。
「春馬! そいつ、魔法使いだからね!」
玲菜の叫びに反応し、俺は大きく後ろに飛び、ソードを正面に向けて構える。
そんな俺の様子の楽しげに眺めた女は、張り付いたような笑顔で手に持っているものを見せつけてきた。
「ぴ、ピアス! な、い、いつの間に!」
慌ててポッケを探るが、小さくなったローブとアミュレットしかない。
ピアスを抜き取られている。
女の手で身震いをしている間に取られたのだろう。
「本当は全部、取ろうと思ったんだけどね……少し早く逃げられちゃった」
「ふざけるな! ピアスを返せ!」
慌てる俺を見て、女はニヤリと笑う。返す気などないそんな素振りだ。
だが、驚くことが起きた。
「もう、お兄ちゃん……取られちゃダメだよ?」
暢気にそんな声を発し、ピアスがプアプアと浮き、すんなりと俺の元に戻ってくる。その場は唖然。
完全にピアスの魔力が切れていたのに、どうして動くようなったんだ。
まさか、と。俺はポケットに入っていたローブとアミュレットを取り出す。
すると、全部、正規の大きさに戻ってくれた。
少しではあるが、魔力が回復している。
「アンタ……それ使えたの? さっきは無理だって……」
「無理だった。ああ、間違いない。でも……」
俺が四つの神器を装着すると、女はつまらなそうに息を吐く。
「使えないってウソじゃないの。ついでに奪ってやろうと思ったのに……」
四つの神器を装備した俺は、ハッキリ言って無敵だ。
ソードだけの時に比べると、数倍以上の魔力を感じる。
俺は女に向かってソードを突きつけた。
「あらあら、武器も持ってない女相手にそれはひどいんじゃないかな?」
「目的を言え、なにをしに来た?」
「わたし? わたしは魔闘師が来たんで、扉を消しに来たんだけ。君らがやってくれたんなら来る必要なかったね」
それだけ言うと、女はじゃあね、とさわやかに女は去ろうとする。
だが、それを黙って見送る玲菜じゃない。
「待ちなさい! どういうつもり? どういうつもりでこんなことを?」
「楽しかったでしょ?」
「は?」
「だから、魔界。楽しかったでしょ? 良い世界よね」
なにも答える気がない様子で、そんなことを呟き顔を恍惚とさせた。
玲菜は顔を真っ赤にして、肩を怒らせる。
「ふざけないで! なんのためにあんなものを作ったのかって聞いてるのよ! それに神器だって――」
「そりゃあ、使うからでしょ? 他にどんな理由を求めてるの?」
パリンと薄い氷が割れるような音が聞こえた。玲菜の眼が恐い。
「わかったわ。まともに話す気がないんじゃ……少し痛い目にあってもらおうかしら?」
「ふふふ。多分わたしの方が強いよ。でもね、そっちに神器が四つもあるなら、違うかもしれない。だから、やらない。ごめん、またね」
それだけ言うと、女は氷が溶けるようにその場から姿を消した。
玲菜が慌てた顔で地団駄を踏む。
「ああっ! 逃げられた! ムカつくヤツだったわね!」
「確かに人をおちょくったヤツではあったが、そんなに怒ることか?」
「気のせいかもだけど、見覚えがあるの……とても嫌な感じ……」
「ふーん。昔、何かあったのかな……?」
あの女、一見するとさわやかな美人。
だが、去っていくとき、なんだか嫌な臭いがした。
この下水路のクソッタレな臭いよりも、もっと吐き気のするような、ゲスでおぞましい臭いだった。何者だったのだろうか。
頬を撫でた手はすごくエロかったけど……
「……なにその顔。頬撫でられたくらいで、デレデレしてんじゃないわよ!」
「し、してねえよ!」
仮にしていたとしても、玲菜にキレられる覚えはない。
玲菜は俺を一睨みすると、ドスドスと歩き始めた。
キレた玲菜をなだめるように、ふとした疑問を口にする。
「なんで神器の魔力が回復したんだろうな?」
「……魔界の影響かしら? あっちでなにか感じなかった?」
確かにソードを握ると、いつもよりも魔力が高くなった気がした。
つまり、そういうことなのだろう。
もっとあっちにいれば、もっと回復させられたのかもしれない。
「なんにしても好材料だわ! 神器が全て使えるなら、神条はともかく、他の魔闘師には遅れを取らないはずよね?」
もしかしたら、神条にだって勝てるかもしれない。
神条がどの程度の力を隠しているのかはわからないが、それでもアイツが上級魔闘師なら、アイツよりも強い奴はいないはずだ。
アイツに勝てれば戦況が一気にこちらに動く。
俺がコクンと頷くと、玲菜は顔がパッと明るくなる。
「だったら、こんな場所からさっさと出ましょう! 襲って来たら返り討ちにすればいいわ!」
「え? でも、まだ、結界は完成してないんだろ?」
「それはそうだけど、もうこんな臭い場所嫌なの! 学校へ行きましょう」
「はあ、学校かよ!?」
「みんなもう帰った時間だろうし、巻きこむことはないわ。私の第二の拠点だし、それなりに防衛はできるはずよ」
玲菜は自慢げな顔を見せて、近くにあったはしごから地上へ向かっていく。
先日、先々日と学校を壊すことばかりやっている気がする。そろそろ崩壊させそうで気が気ではない。玲菜は学校になにか恨みであるのだろうか。
マンホールの蓋を開けると、流れてくる懐かしい空気。それがなんだかやけに美味しく、生きた心地のするいい匂いに感じられた。
※ ※ ※
下水路からでると、そこは工場から結構離れた郊外だった。
かなりの距離を彷徨っていたらしく、学校までは少々時間がかかりそうだ。
できる限り気配と魔力を消し、俺たちは学校へ向かう。
その途中で、不意に電話が鳴り響く。ディスプレイを見ると詩子からだった。
詩子と話すのが、ずいぶん久しぶりな気がする。
『や、やっと連絡がつきました。……ずっと圏外で、今までどちらへ?』
「それは話せば長くなる。手短に言うとだな……」
俺は詩子にこれまでの経緯を多少端折って話した。
『さすが雪城先輩ですね。見通しの甘さは天下一品です』
話を聞き終えた詩子が呆れ気味だ。
「そう言えば、七海から連絡はあったか?」
『いえ、ありませんけど……連絡してみましょうか?』
俺たちを罠に嵌めたとは言え、無事に逃げられたかどうかは気になる。
「それは助かる。連絡がついたら教えてくれ……無事なら良いんだ」
はい、と詩子の短い返事。
少しの沈黙の後、詩子が言葉を続ける。
『え、と……わ、私も合流していいですか?』
「ああ、ちょっと待ってくれ。玲菜に聞いてみるよ」
俺が玲菜に確認しようとすると、電話の向こうから大きな声が。
『わざわざ訊く必要ないです! 今から行くので学校にいてください!』
「こっちにくると結構危ないんだぞ? ……玲菜もそう思うだろ?」
助け船を頼むように玲菜に目を向けるが、なにかを考えていたのか、上の空だった。やっと俺の視線に気がつき、慌てて身を乗り出す玲菜。
「……え? あ、そうね。――っ、ちょっと電話を変わってもらえるかしら?」
俺から電話を取り上げると、玲菜は詩子と会話をし始めた。
「――嫌とか、わがまま言わないで。…………失礼ね、そんなに臭くない……はず。とにかくあなたには見張っていて欲しいの。…………そう。わかった。そんなに気になるならこっちも監視してれば?」
確かに近辺を詩子に調査させるのは名案。
こんな時こそ、詩子の持つバレッタの『観察』が役に立つはずだ。
だが、内容的にこちらを監視する流れ。役に立つのかそれ……。
「それから、緊急時以外は魔法は絶対禁止? この間みたいなことはダメ。いい? アイツらに見つかったら、あなたも命狙われるわよ?」
なかなか納得しない詩子をどうにか説得し、通話を終える。
玲菜は携帯を俺に返しつつ、なにか気になったのか、自分の体のあちこちをクンクンと嗅ぎ始めた。
長くて瑞々しい髪の匂いを嗅いだあとに、その頭を俺に向けてくる。
「ねえ、髪とかに臭いついてないかな?」
ふわっと広がるいい匂い。こんなものクンクンなんてしたら、絶対に舞い上がってしまう。興奮してしまう。変になってしまう。
「だ、大丈夫だ。問題ない!」
「えー、ちゃんと嗅いでみてよ!」
「だから、お前は臭くない! これだけは間違いない!」
これだけいい匂いをしているヤツを俺は知らない。
匂いは全ての評価を後押ししてくれる。
いい匂いであれば、より良く。悪い臭いであれば、より悪く感じてしまう。
ゲームのダンジョンが楽しく思えるのは『臭い』がないからだ。
実際のダンジョンには吐き気のするような死臭が漂っているし、気持ち悪くなるほど臭いものもたくさんある。それがゲームと現実の違い。
でも、もしも、ゲームに匂いを付けられるなら、女の子たちにはいい匂いを付けてもらいたい。間違いなく名作になるだろう。
いい匂いと言えば、魔界で口と鼻を塞いだ謎の物体。アレは一体なんだったのだろう。わかることと言えば、玲菜がお股を押さえていたくらいか。
「春馬? それはもう二度と思い出さないでね?」
にこやかだが、非常に恐い玲菜の顔。目が全く笑っていない。
今の時刻は午後八時。結界完成まであと十時間。
通い慣れた学校が、俺たちの前に姿を見せた。