第二十九話 二人の魔闘師
人は自分の期待の半分も行動してくれない。
口約束なんて一瞬で破られると思っておくべきだろう。
俺たちは諏訪に全てを任せて、玲菜の屋敷の裏にある山に逃げ込んでいた。
まだ陽は高く、夕方にはほど遠い時間。
しかし、冬の山は風が身に凍み、枯れ葉の臭いが少しだけ鼻につく。
「――って、ここ、どこだよ! なんで屋敷に戻らないんだ?」
まるで樹海の中を彷徨っているような状況に、俺は思わず叫んでしまう。
玲菜は走ったまま、速度を緩めるコトなく振り返る。
「……屋敷には戻らないわよ」
おかしい、さっきと全く逆の事を言っている。
「応接室では、管理人が逃げちゃいけないとか言ったよな?」
「逃げるわけじゃないわ。時間を稼ぎたいのよ。……メルが今、屋敷の結界を張っている。それが完成するまで屋敷に戻るわけにはいかないのよ」
質問に答えながらも、どんどんと先へ行く玲菜。
その足は速く、俺はなんとか玲菜に置いて行かれないように後を追う。
「……どういうことだ?」
「私たちが屋敷に戻れば、総攻撃を仕掛けられる。だけど、こうして私たちが逃げてれば、敵は分散する。時間稼ぎしやすくなるのよ」
「あっちはメルだけで大丈夫なのか?」
「それは全く問題ないわ。屋敷の中限定で言えば、メルはあの神条ってヤツよりも強いわよ」
「マジかよ!?」
玲菜は俺との距離が離れていたことに気づいたのか、少し速度を落とした。
こんな状況でも玲菜は俺への気配りを忘れない。すごいヤツだ。
「だから、私が捕まっちゃいけないのよ。私の身柄と引き替えなら、メルはあっさりと投降するだろうし……」
なんとなくそれはわかる。メルにとって一番大事なのは玲菜だ。
何を置いてでも優先して助ける気がする。
「わかった。だったら、俺はお前を守ればいいんだな。……で、どこに向かってるんだ?」
玲菜は顎の下に手を当て、黙り込む。
行き先は決まってないようだ。
「とりあえず、人の少ないところね……誰も巻きこまないような場所……」
それなりに広いところか、使われていない場所や山奥。
「……この間の工場とか?」
「あ、それ名案ね! たまにはいいコト言うじゃない!」
「たまには、は余計だ!」
玲菜は振り返り、イシシと可愛らしい笑みを見せる。
そんなにこやかな空気は長くは続かなかった。
玲菜が何かに気づいた顔をしたのだ。
「変ね、おかしいわ。魔闘師たちが、もう追ってきてる……」
「は? ま、まさか、もう諏訪がやられたって言うのか?」
信じられないコトだった。正確な時間はわからないが、俺たちが逃げてまだ数分程度。そんな短時間で、あの諏訪を沈められるとは。
魔闘師、どれだけ強い奴らの集まりなんだ。
だが、そんな俺の予想は全く違っていた。
走りながら、周りの魔力を探っていた玲菜が呆れ顔に変わる。
「アイツ……戦ってもいないわ。魔力が遠くにあるもの……」
「――って、まさか?」
「ええっ! あいつ、あっさり逃げやがったのよ!」
実に諏訪の逃亡は早かった。俺たちが安全な場所にたどり着くよりも早く、その場から逃げたようだ。しんがりを努める気はないらしい。
『死ぬ気はない』と言っていたが、まさかここまでとは。さすが諏訪だ。俺たちの期待を悪い意味で裏切らない。
「やっぱ、アイツだけは信じちゃいけないわ……」
恨みがましい声で玲菜が呟く。
しかし、俺は逆にホッとしていた。あんな奴でも、俺を庇って死んで欲しくない。それだけは間違いなかったから。
そんな安堵もつかの間、周りが騒がしくなる気配がする。諏訪が逃亡したことで、次々に魔闘師たちがこちらに向かってきているようだ。
俺でもわかる大量の魔力を発しながら、徐々に追いついてきている。
「諏訪のヤツめ……私の感動を返せ!」
「それより、どうするんだ? すぐに追いつかれるぞ?」
「わかってるわよ! ……あれ、使って見るか」
そんな事を呟き、玲菜は急に足を止めた。
いきなりの行動に、俺も慌てて速度を落とす。
「何する気だ? 奴ら、すぐここに来るぞ?」
「春馬、少しで良いから時間を稼いでくれない? 私がいいって合図するまででいいから!」
玲菜がこの場所で何かをするつもりだ。
俺はそれが終わるまで、この場を死守すればいい。
玲菜の前に立ち、かっこよく背中を見せる。
「ふ、時間を稼ぐのはいいが、別に倒してしまっても構わんのだろ?」
「それって、なんてアーチャー? ……とにかく、頼んだわよ!」
玲菜はすぐに俺から少し距離を離し、魔法の詠唱を開始した。
木漏れ日が髪を艶やかに照らし、木々が声に合わせて葉を揺らす。幻想的な雰囲気に酔いしれそうになるのを、頭を振って現実に戻す。
玲菜は綺麗だ。綺麗だが今は魅入ってる場合ではない。
来た道に目を向け、ソードの感触を確かめる。
相手は五人。神条一人でも太刀打ちできなかったのに、五人もいるとなると、長い時間なんて持つはずもない。
おまけに玲菜が詠唱中だから、それも守るように動く必要があるのだ。
俺はゴクリと息を呑んだ。
それから、すぐに二つの黒い影が俺の前に立ちはだかった。
その中に神条はいない。たったの二人だった。おそらく足の速い人間だけがやってきて、神条は屋敷を攻略するために残ったのだろう。
「諦めて観念したか?」
道を塞ぐように立っていた俺に、ローブ姿の一人が男のような声でそう言った。隣の人間がローブを脱ぐ。蒼い瞳に金髪の白人の女が姿を見せた。
男女のペアのようだ。
「初めまして、私は初級魔闘師のローザ=コムラン。で、こっちが――」
「自己紹介なんて無駄な事を……俺は、リシカル=エミス、初級魔闘師だ。覚える必要はない。お前はここで死ぬのだから」
嫌そうにしながら、男の方もフードを脱ぎ、俺に素顔を晒す。
短髪の黒髪だが堀が深く、濃い髭が特徴的。がっちりとした体型で、ローブを着ていなかったら、とても魔法使いというイメージではない。
「リシカル。そんな事言っちゃダメよ。かわいそうでしょ?」
「面倒な仕事をさっさと終わらせて、早く君と国で式を挙げたいものだな」
「そうね。そのために頑張りましょう。これも私たちの未来のためよ?」
コツンとローザがリシカルを肘で突いた。リシカルもそれをやり返す。
ニヤニヤと笑みを浮かべ合う二人。
なんだろうこの空気。なんだか非常に甘ったるい。
あ、カップルを見ている時の疎外感だ。なにコイツら、付き合ってんの。おまけに結婚まで臭わせやがって、なおさら負けるわけにはいかない。
別に僻みとか僻みじゃないからね!
そんなささやかなプライドを守っていると、二人が俺に向かって構えていた。ハッとして俺はソードを強く握る。
相手は初級魔闘師、諏訪と同程度だろう。どれほど持つか。
「じゃあ、リシカル、いつもの作戦で行きましょう」
「わかった、気をつけろよ」
ローザが笑顔で頷き、どこからか杖を取り出すと、俺に襲いかかってきた。
あまり早い速度ではなかったが、てっきりリシカルが襲ってくると思っただけに一瞬たじろいでしまう。しかし、それでも十分に反応できた。
ローザの攻撃をソードで防ぎ切り返す。カスる程度ではあったが、それでも相手に攻撃が当たった。よし、と俺は反撃に移る。
「ソード、セカンドで行くぞ!」
一気に攻め込み、何度も切りつける。その度にリシカルは傷を負っていく。
思ったよりも相手が弱い。この程度ならいける。
「ローザ!」
リシカルの大きな声に反応し、即座にローザはリシカルの隣へ飛ぶ。
二人の足下には結界が浮かび上がっており、二人が手を強く握りしめると、結界がより輝きを増す。そして、二人同時になにやら呪文を唱えはじめた。
ローザはこのために時間稼ぎをしていたのか。嫌な予感がする。
俺はその詠唱を止めるために突っ込むが、それよりも早く魔法は完成した。
二人は手を繋いだまま、にこりと微笑み合い、反対の手を俺に向け、叫ぶ。
「合体魔法!」
二人の声が見事にハモり、魔力が混ざり合うと、一つの巨大な魔法として俺に迫ってくる。同調した二人の魔力は、すさまじい威力だった。
防ごうとした俺は体ごと弾かれ、近くの木に激しく叩きつられる。
「かはっ――」
背中から痛みが全身を襲い、ソードを手放しそうになってしまった。
すぐに体勢を立て直そうとするが、すでに次弾が用意されている。
「マスター危険です! 回避をしてください!」
「わかってる!」
相手に照準をあわせさせないように、俺は右へ左へと足を止めずに移動する。
とはいえ、このまま左右に動いていても俺が疲れるだけだ。
少しずつ前に進み、二人の元へ行き、繋いだ手を離させる。
そうすれば、合体魔法は使えなくなるだろう。
「俺たちの愛は邪魔させねえぜ?」
「はい、私たちの愛は永遠ですよ?」
ぞわっと寒気が走るが、今さら止められない。
俺はソードで二人の繋いでいる手を叩き切った――はずだった。
しかし、それは熱い想いが、厚い装甲に変わったかのような感覚。
ソードがはじき返されてしまった。そこに二人の合体魔法が飛んでくる。
避けようとして、自分の後ろに玲菜がいる事に気がついた。
――ダメだ。俺が避けたら玲菜が。
咄嗟に地面をしっかり踏みしめ、ソードを両手で横に構えた。
絶対に後ろにはそらさない。ソードと合体魔法がぶつかり合う。
「うおぉぉぉぉっっっ!」
耳を裂く破裂音。肉を焼く高熱。正直、死んだかと思った。
防げるような威力ではなかった。でも、ソードとの一体感が増したような気がして、合体魔法を完全に防ぎきったのだ。
「う、ウソだろ……」
「わ、私たちの愛を受け止めたって言うの……」
「だが、これで終わりじゃない! 俺たちの愛は――」
「そう! 永遠よ!」
薄ら寒い言葉だが、マジかよ。永遠に発射できるのか。
どうなっているんだよコイツらは。
正直、今のは運が良かっただけだ。次は防げる自信がない。
だけど、やるしかない。玲菜の詠唱が終わるまで。
その時、大きな声が響いた。
「春馬! 終わったわよ。早くこっちに来なさい!」
話が見えなかったが、呼ばれている以上、行くしかない。
俺が背を向け、玲菜に向かって走り出すと、後ろから迫ってくる気配がある。
だけど、振り返ったら逃げられない。俺は飛び込むように前へ飛んだ。
玲菜の足下で転がり、なんとか、その場所へ。
「時間稼ぎ、よくやったわ! 春馬!」
ふわりと玲菜は甘い匂いを漂わせ、両手を前に伸す。
すると、俺を追ってきた二人が光に包まれていく。
「な、なんですか、これっ! い、いやっ、リシカル!」
「ローザ! 俺たちは、来世でも一緒だよ!」
だんだんと霞んでいく姿に悲鳴をあげながら、二人は手を取り合う。
そして、次の瞬間には、目の前から姿を消した。
玲菜は人差し指を立てて、片目を閉じる。
「振り出しに戻るってね。また出直してきなさい!」
「アイツら……殺したのか?」
「まさか、遠くへ飛ばしてやったのよ。無作為転移ってヤツね。さあ、これで時間は作れたし、急ぎましょう!」
玲菜は飄々とそう言うと、廃工場に向けて走り出した。
二人が消え、残っていた愛の結晶が薄らいでいく。
来世でも一緒にとか、言ってたんだ。
飛ばされた先で、運命の再会とか言って、またいちゃいちゃするに違いない。
なんでカップルって、周りが見えなくなるんだろうな。
※ ※ ※
陽がやや落ちかけたところで、俺たちは廃工場についていた。
時刻は四時。完全に陽が落ちるまで、あと一時間と言ったところだろうか。
一昨日ぶりに来た工場に、特に懐かしさはなく、戦いの惨事だけが痛々しく残っていた。前回はここを攻める側だったが、今度はここを守りに使おうという話。
大崎の工房なら、なにか残っているかもしれない。
俺と玲菜は手分けして、各部屋を覗いていく。
ある部屋の一つを空けると、そこにはだらしない格好をした七海がいた。
「な、七海!?」
部屋の中にあるソファーにくつろいで、暢気に本を読んでいたのだ。
七海は俺の存在に気づくと慌てて姿勢を正す。
「きゃぁぁぁっ! な、なんで、先輩がここに……?」
「お前こそ、なんでここに?」
「え? だって、ここはあたしの工房だし……」
大崎から引き継いだと言うコトはまあ、そういう事になるだろう。
だとすれば、不審者は俺の方だ。
「ちょっと! 春馬! なにかあった――って、渋谷さん!?」
俺の声を聞きつけて、玲菜が慌てた顔でやってきた。
玲菜と七海、互いの存在に気がつき、目が細くなっていく。
「やっぱり一緒にいるんですか。……相変わらず、仲がいい、ですね」
「なに? なにか文句でもあるの?」
「別に。でも、どんなに仲良くなっても、ね。先輩は――あはははっ」
七海は俺をチラリと見て、楽しげに笑う。
それを見た、玲菜は顔を真っ赤にして表情を歪めた。
「言っとくけど、その約束、私は認めてないわよ?」
「そうですね。でも、赤羽先輩は守ってくれます。きっとね……それこそ、命を賭けて……あはは」
一気に部屋の温度が下がったような気がする。
まだ互いにもやもやとした感情を持っているのだろう。
いや、むしろ玲菜の方が、より感情的になっている気がする。
挑発に簡単に乗りすぎだ。
「どうしたんだよ、玲菜。そんな目くじらたてることか?」
「アンタが……変な約束……したから……」
呆れた顔で玲菜はそっぽを向き、俺をチラリとこちらを見た。
なんだか甘えているような玲菜の態度だが、きっと気のせいだろう。
「言いたいことあるなら、はっきり言えよ?」
「――っ、ないわよ! バカ、春馬っ!」
ほら、やっぱり気のせい。いきなり理不尽にキレられ方、意味不明だ。
言い返そうとしたところで、玲菜の表情がこわばり、俺はビクッとなる。
だが、その表情は俺に向けられたものではなかった。
「ち、アイツら、もう私たちを見つけたみたいね」
いくつかの魔力が向かっていることに気がついたようだ。
まだなにも準備できてない。まずいな。
「なあ、七海、なにか防衛に役立ちそうな物があれば、使わせてくれないか?」
俺は事情を軽く話し、七海に協力を求める。
しかし、話を聞いた七海は、小さく首を横に振る。
「便利な結界とか、そんなものがあったら、この間、使ってますよ」
玲菜を殺そうと全力を尽くしたのだ、他の結界が残っているなんて都合のいい考えだったようだ。だとすれば、一刻もここから立ち去る必要がある。
それもできれば、安全に逃げられるようなものがいい。
「だったら、逃げ道はないのか?」
「逃げ道? ……ありますけど、教えません」
それはあまりにも冷たい声だった。
すでに敵に見つかっていて、安全に逃げ切るには、隠し通路でも使わない限り難しい。だが、七海がそれを拒否した。
あるのに、使わせないと言い切ったのだ。
「お前、今の状況わかっているのか? ここにいたら、お前だって魔法使いだ。やばくなるかもしれないんだぞ?」
「それでも構わない。その人たちが雪城先輩を殺してくれるなら、あたしが死んでも別に構わないんです!」
憎しみの籠もった言葉。七海はそれほどまでに玲菜を恨んでいる。
復讐を遂げるためなら、本当に命を賭ける覚悟があるようだ。
「七海……」
「もういいわ、春馬。復讐に目がくらんでいる人になにを言っても意味ないわ。渋谷さん、巻きこんで悪かったわね」
そう言って、玲菜は踵を返す。チラリと見えたその眼には決心が宿っていた。
一人でも戦う、そんな決心だ。
玲菜にも色々と思うところはあるのだろう。
七海には頼れないという気持ちもわかる。だけど、ダメだ。
このままじゃ、みんな死んでしまうかもしれない。
説得すれば助かるなら、説得するべきだ。
「なあ、七海。頼む! お前だけでもここから逃げてくれ!」
「だから、どんなに頼まれても――って、はあ?」
七海はキョトンとした顔を見せる。
その時、相手との距離が近づいて来たのか、俺にも魔力が感じられた。
おそらくさっきのリシカルとローザ。それに他の魔力も一緒だ。
さっきよりも人数が多い。急いだ方が良さそうだ。
「とにかく、お前がここに残る必要はない。早く逃げろ!」
俺は覚悟を決め、玲菜と一緒に外へ出ようとする。その時、いきなり袖をぐっと引っ張られた。七海だ。
今に泣きそうな顔で、なにかを堪えている。
「な、なんで……そんなこと……逃げろって……」
「え? だって、お前まで死ぬことはないだろ? 俺たちの問題だから……」
七海がパッと顔を上げ、目を丸くした。
不安げな顔を浮かべている七海を安心させるため、俺は頭をぽんぽんと叩く。
みるみると七海の顔が真っ赤に染まる。
だが、それは照れているのではなく、激しい怒りの表情だった。
「こんな時に人の心配とか、バカですか!? いや、バカなんですよね、きっと。間違いないです! ……そんなんだから詩子がキレるんですよ! 本当にこの人は……はあぁっ……」
七海を肩で息をするほど、俺をまくし立てて、大きくため息。
なに、俺そんなにまずいコトを言ったの。
自分の頭をくしゃくしゃと掻きむしり、俺を見る七海。
「ああっ! もう、わかりました。下水路への逃げ道教えますので、先輩たちはさっさとそこから逃げてください!」
七海は言って、奥に向かって歩き始めた。ついてこいと言うことだろう。
俺と玲菜は一度だけ顔を見合わせ、あとを追う。
薄暗い通路を抜けたところで、七海が止まった。
「ここです」
指さした方向は、ただの行き止まり。
七海が地面に手を置き、なにかを呟く。すると、床には光と共に金属の扉が姿を見せた。ギギッと重苦しい音を響かせ、扉が開く。
中は薄暗く下へ続くはしごが伸びており、下水路と言うだけあって、臭さは格別だ。うぷっ。吐きそうになるのを、なんとか堪える。
「こんなところを通れるのか?」
「通ったことはありませんけど、彼が残していたから、そうだと思います」
「……わかったわ。行きましょう」
玲菜は臭いなどなにも感じていないのか、平然とはしごを下りていく。
すげぇなアイツ。玲菜にあんな男前のところを見せられたんじゃ、泣き言なんて言ってられない。俺は息を止めて、はしごを降りはじめた。
何段か降りて、違和感を覚える。七海がこないのだ。
「七海? なにしてんだよ。早く来いよ」
「先輩たちだけで行ってください。この扉に鍵を閉められるのは……あたしだけですから……」
「はあ? なに言ってんだよ!」
嫌な予感がして、俺がはしごを登り戻ろうとすると、金属の扉がゆっくりと閉まっていく。
「先輩、さっきあたしを逃がそうとしてくれて、嬉しかったです。無事に逃げ切ってくださいね。……あたしは大丈夫だから!」
笑顔でそう言って手を振る。死ぬのを覚悟したかのような表情。
まさか俺たち逃がすために残るって言うのか。
「ふざけんじゃねぇぞ! 七海っ! お前だけ残して逃げられるかよ!」
俺の改心の叫びで、七海の手が止まった。
隙間から覗き込むように、俺をじっと見る。
「やだな。あたしはもっと綺麗な道から逃げますよ。あははは――」
テヘッ、と音が出そうな笑顔を残し、入り口の扉を閉める。
そして、次の瞬間、光が走り、もう何度叩いても、扉は開かなくなっていた。
下からこみ上げてくるような異臭。吐き出しそうなほど悪臭。
まさかと思うが、俺、騙されたのか。
七海を心配して、あんなシリアスになった俺、超恥ずかしい。
涙目になりそうなったところで、下から光が見えた。
先に降りた玲菜が魔法を使って、火の玉ような光源を出したようだ。火の玉を掲げながら、玲菜が見上げる。
「まあ、私に対する嫌がらせでしょうね。通ったことのない道をわざわざ教えるくらいですもの。……臭い道がお似合いって、良い趣味してるわ。あのコ」
玲菜は呆れ顔で肩を竦めた。
みんな自分勝手だ。良い意味でも、悪い意味でも。
わけがわからないことで怒り出すし、ケンカを始める。
期待していると裏切られ、期待していないとそれ以上のコトをしてくれる。庇ってほしくないヤツには庇われ、助けようと思っていたら、助けられた。
信じてついてきたら、まんまと騙される。
人の言葉なんて、半分以上、ウソじゃないか。
俺が呆れ混じりにため息を吐くと、玲菜が小さく微笑む。
「でも、良かったわね。渋谷さんが命がけでアンタを守る展開にならなくて」
それは間違いない。そんな展開になっていたらと思うとゾッとする。
きっと、拳を血まみれにしながら、扉を叩いたりしたんだろうな。
「確かに一番勘弁して欲しい展開だな……」
「でしょ? そんなことになったら、アンタ、『俺のために命かけるなぁ!』とかって大暴れしそうだし……説得するのが大変になってわよ」
嫌味っぽい目で俺を見て、玲菜はクスクスと笑う。
バカにされた感じがして、俺もやり返す。
「まあ、こんな場所に連れてこられたのは、お前のせいなんだけどな」
「な、なによ!」
玲菜がほっぺをプクッと膨らませ、かわいくジト目で睨んでくる。
なんだか気分が楽になって、俺ははしごから飛び降りた。
コツンと靴の音が響き、通路の狭さを強調させる。
玲菜の放つ光に照らし出された下水路は、まるでゲームに出てくるダンジョンのような場所だった。