おでんキャッチャー
雨の予兆とは違う、妙な圧迫感を感じて、りん子は空を見上げた。何かが近づいてくる。身構える暇もなく、それは雲の上から落ちてきてりん子の額に当たった。
「熱い!」
ちくわだった。
ほかほかと湯気を立て、地面に転がり落ちる。拾おうとすると、湯気と一緒に消えてしまった。
りん子は額に手を当てた。ちくわが降ってくると知っていたら小鍋か何かで受け止めたのに、もったいないことをしてしまった。
もう一度空を見る。雲の色、風のにおい、特に変わったところはない。りん子は天気の変化を感じ取るのが得意だ。季節外れの雪も、急な雷雨も、空を見ればだいたい察知できる。
「おかしいわね」
場所を移動してみることにした。住宅地を抜けて歩いていくと、小さな交差点で騒いでいる人たちがいた。
「卵だ!」
「煮卵が降ってくるぞ!」
誰が取るんだ、僕が、私が、じゃあ俺が、どうぞどうぞ。そんなやりとりの中、本当に卵が落ちてきた。小太りの男が顔を上げた途端、目を直撃する。
「ぎゃあっ!」
弾んだ卵を、隣にいた女が素早く両手で受ける。しかし卵はつるんと滑り、宙に消えてしまった。女は落胆の声を上げる。
しばらくして、大根とはんぺんが落ちてきた。鍋を抱えた人たちがやってきて受け止めたが、これもすぐに消えてしまう。
「どうなってるのかしら」
りん子は空と地面を交互に見た。見れば見るほどおでんが食べたくなってくる。
そこへ、月ノ介さんが通りかかった。月ノ介さんはこの町に何年も住んでいるので、こういった現象にも詳しいだろう。
「ねえ、あれは何?」
ちょうど落ちてきた、丸々としたさつま揚げのようなものを指さして、りん子は言った。
「あれは魚河岸揚げです」
そう言っている間に民家の屋根を転がり、庭先に落ちて消えた。生姜の香りがわずかに残る。
「ああ、おいしそうだったのに」
刺すんですよ、と月ノ介さんが言った。
「刺す?」
「お箸でも串でもいいです。落ちる前に突き刺せば消えません」
妙なルールだと思いながら、りん子はスーパーの袋から割り箸を出した。昆布が落ちてきたので、尖った先を空に向ける。が、結び目のところに当たって落ちてしまった。
「貸してください」
月ノ介さんは割り箸を持ち、後ろに結った髪をなびかせて走っていった。獲物をしとめるようにジャンプし、戻ってくる。割り箸には、白とピンクのなると巻きが刺さっていた。
「すごい。ど真ん中ね」
りん子は感心して受け取った。ぷるぷるとした、上質そうななると巻きだ。こんなものが空から降ってくるなんて、目の前で見ていても信じられない。
「天の蜜酒で煮込んでいますから、きっとおいしいです」
「蜜酒……」
りん子はなると巻きに鼻を近づけた。ほんわりと湯気が漂っている。頭がくらっとして、ピンクの渦の中に入っていきそうだ。
「これって、よくあることなの?」
「あんまりないと思います」
月ノ介さんはさらりと言った。
「昔住んでたところでは、お菓子が落ちてきました。きなこ餅やマドレーヌやアイスクリームを、串で受け止めるんです」
「お菓子なんて、子どもが夢中になりそうね」
「僕はミントのアイスが好きでした」
月ノ介さんは懐かしそうに空を見た。雲が湯気のようにふわふわと動いている。
「でも時々、お菓子じゃないものも混じってました。お米とかお金とか、赤ちゃんとか」
「赤ちゃん?」
「ちゃんと串に刺しましたよ。落としたら大変ですからね」
りん子は笑った。
月ノ介さんは笑みを返し、それでは、と言って歩いていった。彼の家は駅の向こうの静かな通りにある。そこで弟と二人で暮らしているのだ。
「さて。なるとだけじゃ寂しいわね」
りん子は再び箸を空に向けた。風が出てきたのか、雲の動きが早まっている。気がつくと、ほかの人たちも竹串や菜箸を持ち、すでにいくつもの具材を刺し連ねていた。
自分が先に始めたのに、と内心面白くなかったが、これからが腕の見せどころだ。
りん子は注意深く空を見渡した。月ノ介さんのように飛びついていかないと、具材の落ちる速さに追いつけないだろう。
「うっわ、なんだこの大根うめえ!」
「こっちの餃子巻きも超おいしい!」
「あちちち、押すなよ」
おいしそうなにおいと湯気が漂ってきて、りん子は唾を飲んだ。
「がんもどき、来てくれないかしら」
それにこんにゃくも、とつぶやく。変わり種もいいけれど、アニメに出てくる男の子が持っているような、定番の組み合わせが一番いい。
醤油は濃いめに、からしは付けないでそのままいただく。熱さで味もわからない、あの一口目がたまらなく好きだった。
しばらく待ったが、何も落ちてこない。ぽたぽたと煮汁のようなものが降ってきた後は、湯気も気配も感じなくなった。
りん子は宙に手をかざした。重く垂れ込めたような空気が去り、昼下がりの澄んだ空が広がっている。鳥が翼を広げ、はるか高みを飛んでいく。
おでんが食べたい。今日の夕飯はおでんしか考えられない。おでんを食べないなんて信じられない。それなのに、もう品切れ?
りん子はがっくりと肩を落とした。
「仕方ないわね。これはおやつにしようっと」
ぷるんとしたなると巻きに、思い切りかぶりつく。見た目の通り、肉厚で歯ごたえがあり、よく染みた深い味だった。少し冷めてしまったが、中のほうは十分温かい。体の内側が、心地よい色に染まっていくようだ。
「何かしら。おいしいっていうより、これは、これは……」
唐突に、言葉が走り抜ける。
天の原 降り敷くおでん 渦をなす
昆布の山に いでよ出し汁
りん子は胸を押さえた。なぜこんな歌が唐突にひらめいたのだろう。
もう一口食べると、さらさらと次の歌が出てくる。
黄身の色は 移りにけりな 固ゆでに
白身世にふる 煮込まれる間に
「おでんに何か入ってたんだわ」
天の蜜酒。
月ノ介さんがそう言っていたのを思い出す。
蜜酒というと、知恵や力をもたらすものではなかったか。風流なのか馬鹿馬鹿しいのかわからない、こんな才能を授けてどうするのだろう。
たんまりとおでんを串に刺して食べていた人たちは、案の定、歌合のように次々と作品を披露している。りん子が通り過ぎた時、小太りの男がこんな歌を詠んだ。
ちくわぶも 長くもがも がんもどき 高くもがも がんももがんも
月夜見の 持てる落水
「ツクヨミの、持てるオチミズ……」
りん子は繰り返した。空を見ると、昼の月が白く、雲の切れ間に映っている。
きっと、言葉は空から来るのだろう。空から来て、りん子の体を通り、また飛んでいくのだろう。
小太りの男は帽子を投げ捨て、拍手喝采を浴びている。早く消化すればいいけど、とりん子は思い、立ち去った。