雲天の華、散り逝く冥き森
作曲家・光田康典氏のオリジナルアルバム『キリテ』に収録されている、「永遠の円環」という曲をモチーフにした作品です。
アルバム付属のブックレット「キリテと五つの季節」の二次創作ではありません。
雪の華が、穏やかに獣の顔に触れていく。
風は穏やかに六花を踊らせ、掠れゆく獣の視界を楽しませた。
時折、強い北風が気まぐれに森の木々の隙間を駆け抜けると、六花は複雑にもつれ合ってから地面の色に融けていった。
立っている時は大して気にならない地面の起伏も、横たわっていると予想外に目に付く。大きな山と小さな丘が幾重にも重なった独特の模様。しんしんと降り続く雪の粒が吸い込まれるようにしては消え、新たな輪郭を描いていく。
ゆるやかな時間の流れを感じるそんな行為は、嫌いではなかった。
白く、暗く、静まりかえった夜の森。
純白の毛並みを持つ森の主は、そっと、息を引き取ろうとしていた。
獣を看取るのは、周囲に自生した草木だけ。他の動物達は皆、主亡き後の自然の変化を畏れ、巣に閉じ籠もって震えている。
――その孤独を慰めるように、梢がひたすら歌う。
獣は瞼を閉じ、かつて一介の狼であり血気盛んな若者だった頃、落雷に打たれ燃え盛る故郷を去り、この地へ辿りついた時のことを思い出していた。
愛する家族を引き連れ、新天地へとやって来たばかりの獣は、生きることに必死だった。一族を護る為、この地で生きていく為、懸命に足掻いていた。
皮肉にもその必死さが、森の主となり、同胞と道を分かつ発端となってしまったと知ったのは、この地の環境に適応出来なかった家族が、次々と亡くなっていってからだった。
妻と子は死に、生き残った者は、新たな住処を求め去っていった。
森は異郷の命に土地の命運を預け、主としてこの地に縛られた獣は、たったひとり、この地の自然を統べる者として仲間からも時の流れからもとり残された。
そういえば、あの時も今のように梢が歌ってくれていたと、獣は思い返す。
植物は動物のように自ら移動し自ら環境を変えられない分、順応性が高く、寛大だった。大らかで賢く、長寿な木々は異境の者だった主を最も早く受け入れ、良き話し相手になってくれた貴重な存在だった。
――私は、私という個の存在を失ってから、この地の為に生きてきた。
際限なく過ぎていく時の流れに恐怖し、終焉を望んでも叶わなかったこの命も、じきに終わる。
生きていく中で、何百回もの季節の廻りと、何千、何万の誕生と死を見つめてきた。
私のこの死は寿命なのか。それとも自然が私の命に価値を見出さなくなったのか。
何故私が選ばれ、生かされ、そして終わるのか。
その理由は、私にも知ることは出来ない。
不思議なものだ。
もうすぐ、私という存在は無くなる。主としての価値も終わる。
獣の言葉は、声にはならなかった。
既に四肢には力が入らず、呼吸も浅い。胸の奥が悲鳴を上げていた。
鈍感とも言えるおまえ達の心が、正直羨ましい。
何十年、何百年もの時の流れに堪えうる心。
世界そのものであるという意識を持ちながら、なおかつ確固たる生命の意思も持つお前達が、羨ましい。
なぜ、運命から解き放たれるのがこんなにも悲しいのか。
なぜ、運命を受け入れることがこんなにも虚しいのか。
私は――疑問に思ってしまった。
雪は、獣の体を覆い隠すほどに降り積もっていく。
六花の冷たさは、もうとっくに気にならなくなっていた。瞼すら開けていられない。
だが、かすかに、かすかに、梢達の歌声は獣の耳に届いていた。
力を失いしな垂れた獣の耳が、ほんの一瞬だけ、ぴくりと震えた。
こんなにも優しいおまえ達に、私は何も残せない。
私という価値は終わる。
終わってしまう私には、何もない。
私は――良き主であったろうか。
梢達が、一層高い声で歌い始めた。
もう、獣の瞼は開かなかった。
梢達たちは歌い続ける。
風が轟々と唸り上げ、住処に隠れている動物達の背筋を震わせた。
梢達が奏でる歌にあわせて、六花が踊る。
風に合わせて、梢が揺れる。
風が無くては、梢達は歌えない。