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「よしっ! 」
人指し指が意志に応えて曲がる。そんな当たり前の事なのだが、思わず声をあげる真人。
すると、体の隅々まで血が届いたような感じがしたのだった。
何があるとしても、一度は確認しなければならない。恐怖に負けて逃げ出せば、この先も分からないという不安に苛まされるのだ。
真人は、指揮を取り戻した足にその場でしゃがむ様に指示を出した。そして、自分を掴んでいる手を掴み返した。
(── 引っ張り出してやる)
掴んだ手を力一杯引っ張ると、その手には女性一人分程度の重みがあった。だが、相変わらずその手しか見えない。
真人の目に映っているのは、手だけが空中にプカプカ浮いているシュールな映像だった。
(…… どういう事だ)
そこに体があると仮定して、手を空間に伸ばしてみると、見えないがそこには確かに体がある感触があった。
(体が何かに包まれている── 光学迷彩か? )
光学迷彩は体を透明にする技術だ。メタマテリアルを使う事によって、その技術は完成に近付いているとされているが、実用化されたという話は真人の耳に届いていなかった。
(否、そんな最先端の技術がこんな高校で使われる訳がない…… それに、気配をまるで感じない説明にもならない)
真人は頭の中にある知識を総動員させるが、この現象を説明する知識を呼び出す事は出来なかった。ただ、記憶の根幹では引っ掛かるものがある。何かきっかけがあれば、その扉の鍵は開くような予感があった。
(…… ダメだ。出てこない)
予感があっても、何が鍵になるのか分からない。そうなると、ここで立ち止まっていても仕方がないといえた。
真人はさっと思考を切り替える。そして、姿が見えないその人間を抱き抱えると、出口に向かって行った。
ガチっ!
ついさっき大した力も掛けず開いたドアが開かない。
(── 閉じ込められた)
この状態になって、ここにある悪意が自分に向けられたものだと真人は理解した。
もし真人もただ巻き込まれただけなら、既にこの手と同じ状態になっているだろう。更に真人が入った後にドアが開かなくなったという事は、間違いなく目的が達成されたからに他ならない。
「誰だか知らないが巻き込んじまったな。すまない…… 」
厳密に云えば、巻き込まれたのは真人も同じだ。謝る必要などないのかも知れないが、何となく謝らないといけない気がしたのだ。
そして、真人の謝罪がキーワードになったのか、その手が喋り出した。
「── ライズ=クライン…… 偽りの英雄」
その声は女性のものであったが、受ける印象は同年代の男のように感じていた。だがそれ以上に気になる事を手は云った。
「また、その名前かよ。── 人違いなんだがな」
「いいや、人違いじゃないぞ。その証拠に、お前はこの状況に何か心当りがある── 違うか? 」
「── 何者だ、お前」
真人はその手の中にある体が酷く不気味なものに思えて放り出したくなった。
(─── だが、この声の主は別人だ)
「クックク…… いいぞ、その判断力。褒美に一つ教えてやるよ。この女を取り巻いているものの名前は〈魔香〉、魔族の魂だよ。
その昔、お前が飼っていたペットだ── 」
「訳分からん事をごちゃごちゃぬかすなよ── 俺は神城真人だ。魔香だかなんだかしらんが、んなもん飼っていた記憶なんかないな」
真人は精一杯の虚勢を張って云った。
声の主は真人の心を読めるようなので、無駄な抵抗ではあるのだが、それでも虚勢を張らなければ心が折れる気がしていたのだ。
「では、思い出せるように協力してやるよ」
その言葉が発せられると同時に、見えない体との接着点である両腕から不快感が沸き上がってきた。
それはじわじわと真人の体に侵入してくる。そして囁くのだ「体をよこせ」と…… 。
真人を襲う不快感が増すほど、見えない体がまるで霧が晴れるかのように見えるものとなる。
(この娘は一年生か)
魔香が完全に真人に移り、視認出来るようになると制服に付いている学年証が見える。
その娘はショートヘアで可愛らしい普通の女の子だった。
(この倦怠感は厄介だな)
気を抜くと女の子を落としそうになる。それだけは避けなければと思い、真人はゆっくりと床に寝かせた。
魔香と呼ばれたものは、取り憑いた人間の精神力を喰らうらしく、長時間このままでは保ちそうもなかった。
(中々キツいだろう── )
今までは少女の口を借りていた声が、直接真人の頭に響いた。それは、その声が魔香を通じて発せられていた事を意味していた。
そして、魔香は真人の中にある。だから、その聞き慣れた声は真人にだけ聞こえたのだった。
「どんな冗談や手品── じゃないよな。何を考えて、何をしたのか…… 話してもらうぞ」
「随分余裕だな── 神城」
今度は頭の中だけに聞こえる声ではなかった。声はカウンターから聞こえる。
「何がしたいのかも、善意の欠片も感じない── でもまだ殺されるような事はないのだろ? 秀明」
カウンターを覆っていたカーテンが開かれる。すると、そこには秀明が椅子ではなく机に腰を下ろしている。
「温くないかその考え」
「お前を評価してるから至った考えさ。もし、お前が本気で人を殺そうとするなら、こんな簡単に尻尾を掴ませたりしないだろ。
だから今回の目的は、何かしらの宣戦布告といったところかな」
額に玉の汗を溜めながら真人が云うと、秀明は「クククッ」と笑う。そして、机から飛び降り真人に近寄り、頬に手を当てた。
「幾らお前でも、流石にキツいか」
「勝手に触るなよ…… 気色悪い」
「嫌なら逃げればいい── ま、もう動けないか」
秀明は、強者が弱者に向ける顔をしている。
「だが実際、良くまだ立っていられるものだ。魔香を体内に入れて自我を保てる人間は少ないんだぞ」
ペタペタと軽く頬を叩く。
「── 触るなよ」
「怖い顔するなよ。俺達は友達だろ」
「そりゃ、これからの返答次第だ。ここに居た人は全員無事なんだよな」
真人の顔色はどんどん悪くなっていく。だがそれに比例して、目付きは鋭さを増していった。
「そんな事か── つまらん心配をするなよ。お前は自分の事だけ考えていればいいんだ」
「へぇ、ツマラナイ事ねぇ…… 」
「そうさ、そこに寝ている女とお前の違いが分からないのか? 」
真人は秀明の云う意味を考える。
すぐに分かる違いは二つあった。
まず一つ目は── 気絶しているか否かという事だ。しかし、これは真人の精神力が一年の女子とは大きく違うという事。それが秀明の云う答えにはならないと思われた。
では二つ目はどうだろう── その違いは魔香が取り憑いていたとき、一年女子を視認出来なかった。だが、今取り憑かれている真人の目には自分の手足がはっきりと見えている。もしかすると、第三者には見えないのかもしれないが、真人にはそうは思えなかった。
(気配すら完全に消す魔香だ。もし見えてないのであれば、俺の目にも映らないはずだ。
そして見えているなら、それは秀明の云う違いになる…… そこから導ける答えは── )
「そうさ、魔香を体内に入れれば普通の人間ならすぐ壊れる。ただそれをすると、餌としては活きが悪くなるからな」
「それに生かしておけば、人質になる── か」
「否、もう大物は網に収まっている。人質なんていらないさ」
それは、後まな板に乗せれば全てが終わるという意味だった。そして、真人はそれが過言ではない事を理解している。
既に逃げるだけの力もない。それどころか一歩でも動けば、その膝は折れて立ち上がる事は出来なくなる。
(参った── こうなると瑞穂に頼るしかないが、そこまで保たないかもしれないな)
考えは秀明に筒抜けなのは分かっていたが、この程度の事は計算しているだろう。そんなに長い付き合いではなかったが、秀明の黎明さは真人も充分に理解していた。
「さて神城。ここからお前の選択肢は二つだ。何とかして魔香の呪縛から逃れるか、そのまま喰われるか── 選べよ」
「くっ! 」
呪縛から逃れる方法など、何も思い付かない。だが、真人は考える事を止めない。秀明が本気だと云う事が分かっていただけに、諦めたら本当の終わりが来る。
(俺はまだ死にたくないっ! )
その一心で真人は考え続けたのだった。